第119話 先遣
ザンクトハイムの騎士二名が、同時に斬りかかった。
レオンは考えていなかった。体が動いていた。
一人目の剣が振り下ろされる。半歩横にずれた。刃が空を切る——その勢いで騎士の体勢が崩れた瞬間、レオンは低い姿勢から騎士の手首を掴んだ。
左掌に、黒い渦が灯った。
「なっ——」
騎士の顔が蒼白になった。手首から魔力が急速に抜けていく。身体強化が剥がれ、剣を握る力が消え、膝が折れた。五つ星の騎士が——触れられただけで崩れ落ちた。
レオンは崩れ落ちる騎士の手から剣を抜き取った。
二人目の騎士が横薙ぎに斬りつけてきた。レオンは振り向きざまに剣で受けた。
キィンッ——!
金属の悲鳴。五つ星の騎士の全力の一撃を——正面から弾き返した。吸収したばかりの魔力が、腕のサーキットを通じて剣に流れ込んでいる。
騎士が絶句した。その隙を逃さなかった。バルトン副団長に叩き込まれた技術。相手の重心を読み、死角から、最小の力で最大の衝撃を与える。
剣の腹で騎士の顎を打ち上げた。
鈍い音。騎士が仰向けに倒れた。
二人。三秒。
レオンは奪った剣を肩に乗せ、残りの騎士たちを見渡した。
「神聖家族の騎士がこの程度か」
声は平坦だったが——その一言が、野営地の空気を凍りつかせた。
残りの騎士たちが剣に手をかけた。だが——誰も抜けなかった。触れただけで魔力を吸い取られる。六つ星のエルベルトですら一撃で倒された。五つ星の騎士が二人がかりでも三秒と保たなかった。
恐怖が、騎士たちの足を縫い止めていた。
◆◇◆
「情けない連中だな」
レオンは騎士たちを一瞥し、泥の中のエルベルトに目を向けた。
エルベルトはまだ這いつくばっていた。碧眼が血走り、頬は赤く腫れ上がり、口の端から血が滲んでいる。魔力を大半吸い取られた体は、震えることしかできなかった。
レオンは剣の切っ先を、エルベルトの喉元に向けた。
「消耗しても構わない人員、だったか」
「き、貴様——セレストルムの分際で——」
「セレストルムの分際で、神聖家族の嫡男を泥の中に叩き伏せた。——それが現実だ」レオンは淡々と言った。「六つ星の神聖術士も、魔力を抜かれれば蒼い顔で震えるだけの男だ。何も特別なことはない」
エルベルトの顔が——歪んだ。屈辱が、憎悪が、恐怖が、全てが綯い交ぜになって碧眼の中で渦巻いていた。
「——いや、一つだけ特別なことがあったな」レオンは剣を下ろさずに言った。「面の皮が異様に厚い。殴った掌がまだ痺れている。——お前の顔は痛くないのか」
エルベルトの肺が——破裂するかと思った。
神聖家族の嫡男。六つ星の神聖術士。帝国において三大家族のさらに上に立つ存在。それが——三大家族の四男に魔力を吸い取られ、張り飛ばされ、泥の中で這いつくばっている。しかもその男は、傷口に塩を塗るように嘲笑している。
一生一世の恥辱だった。
「殺す——! 必ず殺す——!」
エルベルトが叫んだ。だが——体が動かなかった。声だけが、空しく野営地に響いた。
◆◇◆
周囲の反応は、様々だった。
ヴァルトシュタインの騎士たちは呆然としていた。ザンクトハイムの騎士たちは顔面蒼白だった。ケルム・アルカナムの術士たちは——信じられないものを見る目で、レオンとエルベルトを交互に見つめていた。
神聖家族の嫡男が、三大家族の四男に一方的に叩きのめされた。しかも正面からの力勝負ではなく、触れただけで魔力を吸い取るという、聞いたこともない術式で。
テモティエは目を見開いていた。レオンがここまで感情を露わにするのを、初めて見た。
エヴィルの紫の瞳は大きく見開かれたまま、レオンから目を離せなかった。
ヘレネは両手で口を覆い、息を呑んでいた。
レイノルドは——地面に座ったまま、口を半開きにしていた。ヴァルトシュタイン侯爵家の傍系という肩書きで常にレオンを見下してきた男が、その「出来損ない」が神聖家族の嫡男を泥に叩き伏せる光景を見せつけられていた。
(——なぜだ。なぜあの男に、あれができるのか)
レイノルドには、分からなかった。
◆◇◆
レオンは泥の中のエルベルトから視線を外し、テモティエの隊に向かって歩き出した。
仲間の縄を解く。それが先だった。
だが——三歩目で、足が止まった。
空気が変わった。背後から——重い圧が、かかった。
「——そこまでだ、小僧」
振り返る間もなかった。
グスタフが、レオンの背後三歩の距離に立っていた。
剣を杖代わりにしていたはずの老侯爵が——いつ動いたのか、まったく認識できなかった。五つ星の騎士を二人倒した直後で、吸収した魔力で感覚は研ぎ澄まされていたはずだった。それでも——一切、感知できなかった。
レオンの全身が総毛立った。
(——次元が違う)
エルベルトとも、五つ星の騎士とも、根本的に異なる存在だった。鎧を失い、魔力を大幅に消耗しているはずの老人が——纏っている空気だけで、レオンの体を縛っていた。
グスタフの灰色の瞳が、至近距離からレオンを見据えていた。
「面白い技だ。触れた者の魔力を吸い取る——聞いたことのない術式だな」
声は穏やかだった。だがその穏やかさの中に、一欠片の油断も許さない鋼の芯があった。
「エルベルト殿を叩きのめし、騎士を二人倒した。——十分に見せてもらった」
グスタフが一歩、踏み出した。
その一歩で——レオンは悟った。
(——勝てない)
アビスパルムは強力だが、触れなければ発動しない。グスタフの速度は、レオンが触れる距離に踏み込む前に、十回は首を刎ねられる速度だった。
これは魔力の問題ではなかった。千年の名門を率いてきた老人が積み上げた、純粋な武の厚みだった。アビスパルムで吸い取れる類の力ではなかった。
「剣を下ろせ、小僧」
レオンは剣を握ったまま、動かなかった。
グスタフの灰色の瞳が——ほんの僅かだけ、細まった。
「もう一度言う。——剣を下ろせ」
二度目は、声の温度が違った。穏やかさが消え、純粋な重圧だけが残っていた。
レオンの腕が、震えた。剣を握る指が白くなるほど力が入っていた。だが——それは剣を振るうための力ではなかった。下ろすまいとする、最後の抵抗だった。
三秒。
レオンは——歯を食いしばって、剣の切っ先を下ろした。
◆◇◆
「良い判断だ」
グスタフは短く言った。それ以上の賞賛も侮辱もなかった。
そしてもう一人が、動いた。
「ふふ。随分と愉しませてもらいましたわ」
マルグリットが椅子から立ち上がっていた。灰青の瞳が、学者の興味を湛えてレオンを見つめている。
「触れた者の魔力を吸収する術式——オルフェウス系統とも違う、私の知る限りどの魔導体系にも属さない技。実に興味深いですわね」
老女は緩やかな足取りでレオンに近づいた。手には——小さな箱を持っていた。
黒曜石のような材質の箱だった。手のひらに収まるほどの大きさだが、その表面には旧帝国の紋様が刻まれていた。紋様の一つ一つが微かに脈動し、赤黒い光を放っている。
レオンの肌が粟立った。
箱から漂う気配が——尋常ではなかった。遺跡の防衛機構とも、覚醒種の鉄顎鰐とも異なる、もっと根源的な危険の匂い。
『——小僧!』
オグリの声が、吊墜の中から響いた。精粋の消化で沈黙していたはずのオグリが、この瞬間だけ——警告を発した。
『あの箱から離れろ。あれは——わしの時代にも存在した禁器だ。中に封じられているものが何であれ、お前の体では耐えられん』
レオンの目が、箱に釘付けになった。
マルグリットは箱の蓋に指をかけた。開けてはいない。だが蓋に触れただけで、箱の紋様の脈動が速くなった。赤黒い光が強まり、周囲の空気が歪んだ。
「この箱の中身が何かは、教えませんわ」マルグリットは穏やかに微笑んだ。「ただ——開ければ、この場にいる全員が危険に晒される。あなたも。あなたの仲間も。——もちろん、私たちも。ですからできれば開けたくはないのです」
「実に惜しい体だ」
もう一つの声が響いた。グスタフだった。老侯爵はレオンの背後に立ったまま、低く呟いた。
「触れるだけで六つ星の魔力を吸い取る体質。——遺跡の防衛機構が残存しているならば、お前の体は術式の残滓を吸収できる可能性がある。お前を殺すのは簡単だが、それでは勿体ない」
レオンは黙っていた。
グスタフが背後にいる。マルグリットが正面にいる。箱の中身は不明だが、オグリが警告を発するほどの代物だ。
(——勝てない。ここで戦えば、俺だけじゃなくテモティエたちも巻き込まれる)
だがレオンの頭は、怒りの中でも回転していた。
(——逆に考えろ。こいつらは俺を殺したいんじゃない。利用したいのだ。であれば——交渉の余地がある)
「条件がある」
レオンの声が響いた。
マルグリットの灰青の瞳が、かすかに細まった。
グスタフは何も言わなかった。だが——聞いていた。
「先遣隊は俺一人で行く。仲間は一人も送り込ませない」




