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錬金系の落ちこぼれ四男、辺境領主として無双する  作者: 穏やかな旅人


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【別視点】司書見習いのミラ

二人は暗い迷宮を進んだ。


レオンが先を歩く。蒼灰石の欠片の青白い光が、オベリクス石の壁を照らしている。


ミーラはその後ろをついていきながら、内心で密かに落ち込んでいた。


自分は大図書館の弟子だ。王都の書庫で毎日資料を整理し、ヘリオス帝国の文献を読み込んできた。同期の中では誰より帝国史に詳しいと思っていた。教授たちにも認められている。それが自分の誇りだった。


だがレオンと並ぶと、その誇りが音もなく縮んでいく。


六本の通路を前にして、ミーラには何もわからなかった。石の目が方位を示すなど、聞いたことすらなかった。


(……情けない)


◆◇◆


「ミーラ」


レオンが立ち止まった。声は穏やかだった。


「は、はい」


「足元、気をつけろ。そこの石畳——色が少し違うの、見えるか?」


ミーラは足元に目を落とした。石畳の一枚が、周囲と微妙に色が違う。継ぎ目の幅もわずかにずれている。


「罠だ。踏まない方がいい」


ミーラは息を飲んだ。


「……どうしてわかるんですか?」


レオンの首元で、吊墜がかすかに振動した。


『石畳の継ぎ目の間隔が不均一だ。それに、その石だけ表面の摩耗が少ない。千年以上経っているのに踏まれていない。踏んだ者が二度と歩けなかった証拠だ』


レオンはオグリの言葉を自分の言葉に噛み砕いた。


「継ぎ目の間隔が揃ってない。あと、この石だけ表面が妙に綺麗だろう? 千年以上経ってるのに踏まれた形跡がない。——つまり、この石を踏んだ人間はそこから先に進めなかった」


ミーラの顔から血の気が引いた。


レオンは地面から小石を拾い、その石畳に向けて投げた。


ヒュッ、ヒュッ、ヒュッ——。


壁面から矢が飛び出した。密集した矢が通路を埋め尽くし、穂先が青白い光の中で鈍く光っている。


「……よかった」ミーラは小さく言った。


「大丈夫か? 怪我はないか」


「だ、大丈夫です……」


レオンは頷いて、安全な迂回路を確認してから歩き出した。


『……小僧。今の説明は前よりましだったな。儂の言葉を丸写しにしなかっただけ進歩だ』


(褒めてるのか貶してるのかはっきりしろ)


『褒めておる。次も自分の言葉で言え。あの小娘は馬鹿ではない。いつか尻尾を掴まれるぞ』


◆◇◆


さらに進むと、通路の壁面に石碑が嵌め込まれていた。


レオンは足を止めた。三行の文字が異なる書体で刻まれている。


一行目。角張った荘厳な書体。ヘリオス帝国の碑文体。


二行目。丸みを帯びた流れるような筆致。碑文体より古い。


三行目。幾何学的な記号のような文字。人間の文明以前の時代のもの。


「三つの言語……」ミーラが目を細めた。「一行目はヘリオス碑文体。二行目は……セレーネ王朝の宮廷語でしょうか。三行目は……見たことがありません」


吊墜が振動した。


『一行目は「我に従う者は太陽の栄光を得ん。我に背く者はオシリスの裁きを受けん」。三行目はイェログリフだ。「虚空の王、此処に眠る。目覚めの刻を待つ」。二行目のセレーネ宮廷語は儂も完全には読めん。断片的に「偉大なる」「永遠の」「安息」程度だ』


レオンは壁面に指を当て、さも自分で読んでいるかのように一行目をなぞった。


「一行目——『我に従う者は太陽の栄光を得ん。我に背く者はオシリスの裁きを受けん』」


三行目に目を移した。


「三行目はイェログリフだ。原初聖刻文字。ヘリオス帝国よりさらに千年以上古い。——『虚空の王、此処に眠る。目覚めの刻を待つ』」


鼻を鳴らした。「ずいぶん大きく出たものだ」


この碑文を刻んだ者は権勢を極めた支配者だったのだろう。だがそれがどうした。彼もその帝国も歴史の闇に消えた。残ったのはこの崩れかけた石碑だけだ。


「二行目のセレーネ宮廷語は断片的にしか読めない。『偉大なる』『永遠の』『安息』——この程度だ」


「レオンさん」ミーラが息を呑んだ。「碑文体とイェログリフの両方を読めるだけでも信じられないのに、セレーネ宮廷語まで——大図書館でもこの三つの文字体系を全て扱える人間は、長老の中に一人いるかいないかです」


「完全には読めてない。二行目は半分以上わからなかった」


嘘ではなかった。オグリですら完全には読めなかったのだから。


「それでも十分すぎます……」


(この人は一体、何冊の本を読んだんだろう……)


◆◇◆


さらに奥へ進むと、壁面にイェログリフだけで書かれた碑文が現れた。


レオンは足を止め、碑文を見つめるふりをした。


吊墜が振動した。


『「第七の間を過ぎし者、ラーの試練に臨む資格を得ん。第七の間を過ぎ得ぬ者、冥府に沈め」。あと三つ部屋を抜ければ核心部に至る。急げ』


レオンは指で文字をゆっくりなぞりながら読み上げた。


「『第七の間を過ぎし者、ラーの試練に臨む資格を得ん。第七の間を過ぎ得ぬ者、冥府に沈め』。——あと三つだ」


「今、読みながら訳してるんですか? イェログリフを?」


「ああ」


「大図書館の長老でも辞書を引きながらですよ……」


「慣れだ」


『よく言うわ。一人では挨拶の一行も読めんくせに』


(黙れ)


◆◇◆


「ミーラ」


「はい!」


「また足元だ。右側の三枚目。さっきと同じパターン。——見えるか?」


ミーラは足元を見た。


「……見えます。継ぎ目がずれていて、表面の摩耗が少ない」


「そうだ。よく見えたな」


レオンの声にかすかな温かみがあった。


「次からは自分で気づけるようになる。焦らなくていい」


「……はい。ありがとうございます」


『おや。この小娘にはずいぶん優しいではないか。エヴィルの嬢ちゃんには「行け」「黙れ」だったのに』


(エヴィルは強い。ミーラは戦闘員じゃない。扱いが違って当然だ)


『ほう。そういうことにしておこうか』


◆◇◆


七つ目の部屋を抜けた先に——広い空間があった。


迷宮の通路とは明らかに異質だった。天井が高い。黒に近い石材で構築され、壁面の紋様はこれまでのイェログリフよりさらに古く、さらに精密だ。


壁沿いに窪みが並んでいた。等間隔で掘られた横穴。その中に、蝋のような半透明の物質に覆われた人体が安置されている。


「蝋封遺体……」ミーラが息を呑んだ。「太陽神殿の埋葬法です。神秘的なエネルギーで遺体を蝋状の膜で覆い、時間の侵食から守る」


『中に手がかりが残っている可能性がある。開けてみろ』


レオンは最も手前の蝋封遺体に近づいた。


「中を確認する。少し離れていてくれ」


蝋状の膜を慎重に剥がしていった。


膜が裂けた瞬間——中から人間の顔が現れた。女だった。若い。肌の色艶が残り、昨日息を引き取ったばかりのように見えた。衣服の胸元には紋章——翼を広げた隼と七つの星。隼の目は閉じている。


「ファラオ・ネクロスの紋章。隼の目が閉じている——帝王の側近の神官ですね」


だがミーラの言葉が終わる前に、女の顔色が変わった。


肌が急速に乾き、頬が落ちくぼみ、皺が深く刻まれていく。若い女の顔が老婆になり、老婆が骸骨になり、骸骨が粉のように崩れて——何も残らなかった。衣服も塵に帰した。


数千年の時間が、ほんの数秒で通り過ぎた。


レオンは二体目に手をかけた。壮年の男。鎧に杖。胸元に同じ紋章。


結果は同じだった。蝋を剥がした瞬間、肌が乾き、肉が崩れ、骨となり、粉となった。


三体目。四体目。五体目。全て同じだった。


◆◇◆


レオンが蝋封を剥がし続ける間、ミーラは部屋の構造を観察していた。


壁面の紋様。天井の高さ。横穴の配置。蝋封遺体の向き。——すべてが、ある法則に従って配置されている。


ミーラの眉が寄った。


「レオンさん」


「何だ」


「この部屋——おかしいです」


レオンは手を止めた。


「おかしい?」


「この部屋の規格が、帝王の墓所にしては——格が低すぎます」


ミーラは壁面を指差した。


「大図書館の記録によれば、ヘリオス帝国の皇帝の墓所は『ラーの間』と呼ばれる形式で建造されます。天井に太陽を象った金の円盤。壁面に帝王の事績を記した浮彫り。そして何より——帝王の棺は部屋の中央に、台座の上に安置される。頭部は必ず北を向く」


レオンは部屋を見渡した。天井に金の円盤はない。壁面に帝王の事績の浮彫りもない。そして部屋の中央に台座はなく——蝋封遺体は全て壁沿いの横穴に安置されている。


「……帝王の間ではない、ということか」


「はい。この配置は——『従者の間』です。帝王に仕えた神官たちを埋葬するための、副葬室。帝王の墓所の手前に設けられる、従者のための部屋」


ミーラは蝋封遺体の紋章を一体一体確認していった。


「全員、隼と七つの星——帝王の紋章です。だが光輪がない。大神官の印がない。つまりこの十数体は全員、一般の神官。帝王本人はもちろん——最高位の大神官すらも、ここにはいない」


レオンの目が細くなった。


「帝王の本殿は、この部屋のさらに奥にあるはずだ、と?」


「本来ならそうです。従者の間の奥に帝王の本殿がある。——でも」


ミーラは部屋の奥に目を向けた。奥の壁に扉がある。だがその扉の脇に——もう一つ、横穴があった。


他の横穴と違い、蝋封されていない。だがそこに——何かがある。


「あの横穴だけ、他と配置が違います。壁沿いではなく、扉の脇——帝王の本殿への入口を守るような位置に、一体だけ別に安置されている。これは従者の間の中で、帝王に最も近い位置です。もしここに大神官がいるなら——帝王への最後の守り手として、ここに葬られたはずです」


レオンは頷いた。


「見に行こう」


◆◇◆


扉の脇の横穴に近づいた。


そこに横たわっていたのは——蝋に覆われていない遺体だった。


蝋封されていない。神秘的なエネルギーにも包まれていない。


だが——干からびた肉体が、形を保って残っていた。


骸骨ではない。干物のように乾ききった皮膚が骨に張り付き、髪は白く変色している。だが人としての姿を完全に留めていた。衣服すら——ぼろぼろではあるが、残っている。


他の神官たちは蝋封を剥がした瞬間に粉となって消えた。蝋がなければ数千年の時間に一瞬で呑み込まれる。にもかかわらず——この遺体は、蝋封なしで数千年を耐え抜いていた。


『……馬鹿な』


オグリの声が震えていた。


『蝋封なしで干屍が残っている。数千年だぞ。この者は生前、どれほどの力を持っていた……尋常の神官ではない』


ミーラが膝をつき、干屍の胸元を確認した。


紋章があった。他の神官たちと同じ隼と七つの星——だがこの紋章だけは、隼の周囲に太陽の光輪が加えられていた。


「——大神官の紋章です」


ミーラの声が震えた。


「ファラオ・ネクロスに直接仕えた最高位の神官。帝王の右腕。この人が——帝王の本殿への入口を守るように葬られている。最期まで帝王を守ろうとしたんです」


「だが帝王はいない」レオンは静かに言った。


ミーラは頷いた。


「従者の間に一般神官。入口に大神官。——でも、その奥にあるはずの本殿に、帝王がいるかどうかは——」


「いないだろうな」


レオンの声は確信に近かった。


「三百年前——エルデンハイム王国の北方辺境で、大規模な地殻変動があったと聞いたことがあるか?」


ミーラの表情が変わった。さっきまでの沮喪が消え、大図書館の弟子の顔になった。


「……あります。地殻変動で地下遺跡が露出し、そこから一体の遺体が発見された」


「ファラオ・ネクロスの遺体か」


ミーラの目が見開かれた。


「……レオンさん、なぜそれを?」


「この墓所の構造が教えてくれた。従者の間がある。大神官がいる。——だが帝王の本殿が空なら、遺体は外部に持ち出されたということだ。千年以上封印されていた墓所から帝王の遺体だけが消えている。外部からの略奪でなければ、地殻変動で墓所の一部が露出した可能性がある」


これは半分嘘だった。レオン自身がそこまで推理したのではなく、オグリが耳元で囁いていた。だがミーラの前では、自分の推理として語った。


『……小僧。今のはなかなかうまくやったな。儂の仮説をさも自分の考えのように語りおって』


(お前の仮説だって認めたら、首からぶら下がってる吊墜の説明をしなきゃならないだろうが)


ミーラは息を呑み、そして——語り始めた。


「三百年前、地殻変動で露出した遺跡から、ファラオ・ネクロスの遺体が発見されました。ラーの代行者。ヘリオス帝国の冥皇。——数千年の時を経ても朽ちることなく保存されていた」


「どうなった」


「大陸中の勢力が群がりました。ザンクトハイム家、ケルム・アルカナム、三大貴族、王家——すべてが手に入れようとした。最終的に——大図書館とザンクトハイム家で分割されました」


レオンの目が鋭くなった。「帝王の遺体を分割した?」


「大図書館が胴体と頭部を。ザンクトハイム家が両腕を。他の勢力には何も渡らなかった。ケルム・アルカナムは激怒して、当時の院長が王宮に押しかけたという記録があります」


『なるほどな。ザンクトハイム家がこの城塞に来ている理由がわかった。三百年前にラーの代行者の腕を手に入れた一族だからこそ、さらなる遺産が眠っていると嗅ぎつけた』


(ケルム・アルカナムも同じか。三百年前に取り分を逃した恨みがある)


『おそらくな。三つの勢力が同時にこの城塞に集まったのは偶然ではない。——だが奴らはまだここには辿り着いていない。この場所を知っているのは今のところ、お前とこの小娘だけだ』


レオンはミーラに訊いた。


「大図書館が得た遺体は今どうなっている?」


「最深部に封印保管されている——とされています。でも長老たちは一様に否定します」


「否定するだろうな。ラーの代行者の肉体だぞ。公にすれば世界中の勢力が攻め落としに来る」


「はい。——でも古記録の中に一つだけ、ファラオ・ネクロスの本来の紋章のスケッチが残されていたんです。翼を広げた隼。開いた目。七つの星。帝王の紋章では隼の目が閉じていますが、ラーの代行者としての紋章は目が開いている」


「二つの紋章か。帝王としての顔と、神の器としての顔」


「そうです。帝王にして神の器。二つの顔を持つ者——それがファラオ・ネクロスです」


◆◇◆


レオンはもう一度、干屍を見下ろした。


苦悶の表情を浮かべたまま数千年を過ごした大神官。帝王の遺体は三百年前に運び出され、分割された。一般の神官たちは蝋に覆われて眠りについた。この大神官だけが——蝋封もなく、剥き出しのまま、帝王の本殿への入口を守り続けていた。


帝王が運び出されたことを、この大神官は知っていたのだろうか。知らなかっただろう。とうの昔に死んでいたのだから。だが——死してなお、この場所を動かなかった。帝王の最も近くで、最後まで。


そして——干屍の傍の床面に。


乾いた血のような赤黒い色で、文字が刻まれていた。


イェログリフだった。


これまでのどの碑文よりも古い字体。石に彫られたのではなく——血で床面に書かれていた。数千年を経てなお赤黒い色を保っている。この大神官の全身の精気を凝縮して刻み込んだ、最期の言葉だ。文字そのものが凄まじい力を宿しており、近づくだけで空気が重くなった。


『……読むぞ』


オグリが沈黙した。長い沈黙だった。


『——「神よ、応えよ。我らは千年を捧げた。なぜ沈黙する。汝の沈黙は——永遠か」』


レオンはその言葉を声に出した。


「『神よ、応えよ。我らは千年を捧げた。なぜ沈黙する。——汝の沈黙は、永遠か』」


沈黙が落ちた。


蝋封もなしに数千年を耐え抜いた干屍。ファラオ・ネクロスに最も近かった大神官。太陽神殿の最高位の存在。——その人物が死の間際に残したのは、帝王への言葉ではなかった。


神への問いだった。


千年を捧げた。祈り続けた。だが神は——応えなかった。


ファラオ・ネクロスはラーの代行者と呼ばれた。だがこの大神官は、最期の瞬間にそれを疑った。帝王は本当に神の代行者だったのか。神は本当に存在したのか。千年の信仰は——沈黙で報いられただけだったのか。


ミーラの目に涙が浮かんでいた。悲しみではない。畏怖だった。


「……この人は、最後まで答えが欲しかったんですね」


「ああ。これだけの力を持った人物でも、神の沈黙を破ることはできなかった」


『……あるいは、神など最初からいなかったのかもしれんがな』



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