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錬金系の落ちこぼれ四男、辺境領主として無双する  作者: 穏やかな旅人


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第115話 ファラオ・ネクロス

覚醒種の咆哮はもう聞こえない。


レオンはミーラの肩を支えながら、蒼灰石の燐光が照らす通路を歩いていた。テモティエたちとはぐれてから、もう半刻以上が過ぎている。


夜が近い。


地下に昼夜の区別はないが、体の疲労がそれを告げていた。肋骨が軋み、魔力はほぼ空。ミーラは三日間何も食べておらず、足首を挫いている。これ以上進めば、危険が増す一方だ。


「ここで少し休もう」レオンはミーラを壁際に下ろしながら言った。


ミーラは干し肉を小さく噛みながら、通路の奥を見つめていた。蒼灰石の燐光が照らす範囲の外に、何か黒い影が見えた。


「レオンさん、あれは何ですか?」


「建物……か?」


レオンは目を細めた。通路の先に、壁面とは明らかに異質な構造物のシルエットが浮かんでいる。


「見てみましょう」


ミーラが先に立ち上がった。レオンと二人きりの地下空間。暗闇の中で男と二人。正直なところ緊張がないと言えば嘘になる。だがそれ以上に——学者としての好奇心が勝った。


レオンはミーラの後に続いた。


◆◇◆


それは——像だった。


通路の壁面に埋め込まれるようにして、巨大な石像が立っていた。頭部は崩落して失われているが、胴体と台座は残っている。両手を胸の前で交差させた姿勢。纏っている衣服の意匠は——レオンが知るどの時代のものとも異なっていた。


「かなり古い像ですね」ミーラが像の表面に触れた。「この石材……蒼灰石ではありません。もっと緻密で——」


「オベリクス石だ。ヘリオス帝国でも最上級の建材として使われた石材だ。今では採掘方法すら失われている」


像の台座に、石碑があった。レオンは袖で表面の埃を拭い、蒼灰石の燐光を近づけて文字を読んだ。


三行の文字が刻まれていた。


一行目——角張った荘厳な書体。ヘリオス帝国の碑文体だ。


二行目——丸みを帯びた、流れるような筆致。碑文体よりも古い。


三行目——幾何学的な記号のような文字。人間の文明以前の時代のもの。


「三つの言語が刻まれている」レオンは言った。


「一行目はヘリオス碑文体ですね」ミーラが覗き込んだ。「二行目は……これはセレーネ王朝の宮廷語ですか? ヘリオス帝国より三百年ほど古い文字体系です。三行目は……見たことがありません」


「イェログリフだ」


「イェログリフ?」


「原初聖刻文字。ヘリオス帝国よりさらに千年以上古い。大陸に人間の文明が興る以前の時代に刻まれたとされている。現存する資料はほとんどない」


ミーラが目を丸くした。「読めるんですか?」


レオンは一行目のヘリオス碑文体を指でなぞった。


「『我に従う者は太陽の栄光を得ん。我に背く者はオシリスの裁きを受けん』」


レオンは鼻を鳴らした。「ずいぶん大きく出たものだ」


この碑文を刻んだ者は、権勢を極めた支配者だったのだろう。だがそれがどうした。彼もその帝国も、歴史の闇に消え、残ったのはこの崩れかけた像だけだ。一世の梟雄も、結局は一握の黄土と化す。


「レオンさんは、どうやってヘリオス帝国の文字を学んだんですか?」


ミーラが好奇心に満ちた目で訊いた。大図書館でも、ヘリオス碑文体を読める研究者はほんの一握りだ。


「どうやって、か」レオンは苦笑した。


まさか——首元の吊墜に封じられた千年前の大魔法師の亡霊に、毎晩のように叩き込まれた、とは言えない。


「本で読んだ」


「本で読んだだけで碑文体が読めるようになるなら、大図書館の古代語講座は要りません」


「天才なんだろう」


「魔力値3の天才ですか」


レオンは肩をすくめた。ミーラは少し頬を膨らませたが、それ以上は追及しなかった。


「言いたくないなら、いいです」


言いたくないのではなく、言っても信じてもらえないだけだ。


◆◇◆


ミーラが像の裏手を覗き込もうとした。


その時——


「きゃっ——!」


ミーラが立っていた床面が、一気に崩落した。


レオンは反射的にミーラの腕を掴んだ。だが崩壊はレオンの足元にまで及び、二人の体が同時に暗闇の中へ引きずり込まれた。


下方から、強烈な吸引力が二人を呑み込んでいく。


底なしの闇だった。


レオンは左手でミーラを抱え、右手で短剣を抜いて壁面に突き刺した。ブラウエン鍛鋼の刃がオベリクス石に食い込み——


バキッ。


折れた。


石壁が硬すぎる。通常の蒼灰石とは比べ物にならない。


(——この石壁、何だ? 短剣を折るほどの硬度——)


落下速度が加速する。ミーラがレオンにしがみついた。闇の中で二人の体が回転しながら落ちていく。


その時——レオンの目が、壁面の突起を捉えた。


左手を伸ばし、指先で掴んだ。全身の力を込めた。肩関節が悲鳴を上げ、折れかけた肋骨が軋んだ。


止まった。


二人は暗闇の中で、壁面の突起にぶら下がっていた。


「レオンさん……! ここは、どこ……!?」


ミーラの声が震えていた。レオンの腰にしがみつき、下を見ないようにしている。壁面は滑らかで、上には戻れそうにない。下は——底が見えない。


「わからない」レオンは正直に答えた。城塞の設計図にも、こんな空間は記されていなかった。


だが——さっきの碑文を思い出した。


あの三つの言語で刻まれた碑文。三行目のイェログリフは、まだ途中までしか読んでいなかった。だが見えた断片の中に——「此処に至る者」という意味の文字があった。


(まさか——あの碑文が、ここへの鍵だったのか)


あの碑文を読んだことで、封印された機構が作動した。千年以上前の罠だ。


「上には戻れない。下に行くしかない」


「底が見えないのに……!?」


「反響音からして、あと六、七メートルだ。先に俺が降りる。お前は俺の後に続け」


「でもレオンさん、お怪我が——」


「いいから黙って掴まっていろ」


レオンは突起から手を離した。


闇の中を落下し——着地した。石の床面。衝撃が肋骨を貫いたが、歯を食いしばって耐えた。すぐにミーラを受け止めた。


二人は暗い石の床の上に崩れ落ちた。


「……生きてますか?」


「生きてる」


◆◇◆


レオンは背嚢から蒼灰石の欠片を取り出した。地下の残留魔力を吸って微かに発光する。即席の灯りだ。


淡い燐光が周囲を照らし——二人は息を呑んだ。


巨大な空間だった。


天井は見えないほど高い。壁面はオベリクス石で構築され、漆黒に近い灰色が燐光を呑み込むように光を吸収している。


そして——六本の通路が、放射状に伸びていた。


どこまでも深い、暗い迷宮。


「設計図の範囲外です」ミーラが羊皮紙を広げたが、すぐに首を振った。「城塞よりもさらに古い構造物の中に落ちたみたいです……」


レオンは壁面に沿って歩いた。そして——岩壁の一角に、文字が刻まれているのを見つけた。


蒼灰石の灯りを近づけた。


イェログリフだった。さっきの石碑の三行目と同じ、原初聖刻文字。


レオンは一字一字を目で追い——そして、目を見開いた。


「……嘘だろ」


ミーラがレオンの表情を見た。この人がこんな顔をするのは初めてだ。


「何て書いてあるんですか?」


「『ファラオ・ネクロスの英霊、安息の地』」


レオンは壁に背を預け、蒼灰石の灯りを手の中で転がしながら言った。声は低く、だが押さえきれない驚きが滲んでいた。


「冥皇ファラオ・ネクロスの墓所だ」


「ファラオ・ネクロス?」ミーラは首を傾げた。「聞いたことがありません」


「当然だ。大図書館にも記録はほとんど残っていない」


レオンは続けた。


「ファラオ・ネクロスは、ヘリオス帝国の歴史上最も謎に包まれた皇帝だ。ヘリオス帝国の歴代皇帝は太陽神ラーの名を冠するのが慣例だった。ラー・アメンホテプ、ラー・セティウス、ラー・トトメシス——全て太陽の名を帝号に戴いている。にもかかわらず、この皇帝だけが冥界の神ネクロスの名を帝号に用いた。太陽の帝国の皇帝が、冥界の名を名乗る——極めて異例だ」


「なぜそんなことを……?」


「わからない。記録がないからだ。わかっているのは三つだけ」


レオンは指を立てた。


「一つ。ファラオ・ネクロスは壮年で突然退位し、皇位を息子に譲った。二つ。退位の理由は——伝説によれば、修行の果てに人の域を超える境地に達し、死すらも超越したためだとされている。三つ。退位後の消息は完全に不明で、墓所の所在も千年以上にわたって誰一人として見つけられなかった。——まさか、灰燼の城塞の地下に眠っていたとはな」


「死を超越した……? 大魔法師よりも上の境地があるということですか?」


「伝説では、大魔法師の遥か上——『神域デウス・レグナム』に至ったとされている。神域に達した者は不死の体を得ると言われている」


「不死の体……! そんなことが本当に——」


「ない」レオンはあっさりと否定した。「伝説にすぎない。どんな境地に達しても、生ある者は寿命から逃れられない。ファラオ・ネクロスも結局はここに葬られた。——だが」


レオンの目が、六本の通路の奥の闇を見据えた。


「ファラオ・ネクロスが生涯をかけて集めた魔導技術は本物だ。ヘリオス帝国の最高峰の秘術。ホルスの秘儀。オシリスの封印術。ラーの核融炉。——そしておそらく、テラフォーマーもここにある。皇帝の副葬品としてだ。ヘリオスの皇帝は最も貴重な技術を墓に持ち込む慣習があった。生者に渡すよりも、冥界に持っていくことを選んだ」


「なんて、もったいない……」ミーラが思わず呟いた。


「千年後の俺たちには好都合だがな」


ミーラは改めてレオンを見つめた。ヘリオス碑文体を即読し、イェログリフまで解読し、千年前の皇帝の帝号の意味から歴代皇帝の命名慣例まで諳んじている。


(この人は一体、何冊の本を読んだんだろう……)


◆◇◆


「さて」レオンは立ち上がった。「通路が六本ある。どれが正解だと思う?」


ミーラは六本の通路を見回した。どれも同じ幅、同じオベリクス石で造られている。見た目には全く区別がつかない。


「……わかりません。設計図もないし、手がかりが——」


「北だ」


「え?」


「ファラオ・ネクロスの命格は、ヘリオス帝国の占星体系——ホルス星命典アストラル・コーデックスでは『アヌビスの座』に属する。冥界の神アヌビスの方位は北だ。ヘリオス帝国の人間は死者の安息所を命格の方位に合わせて建造した。墓所の本殿は必ず北にある」


「ホルス星命典……」ミーラが呆然と呟いた。「そんな書物、大図書館にも現存していませんよ……?」


レオンは答えなかった。


ミーラは頭の中で計算した。ヘリオス碑文体。イェログリフ。ファラオ・ネクロスの命格。ヘリオス帝国の占星体系。ホルス星命典。——現存しないはずの古代文献の内容を、この男は当たり前のように口にしている。


(本で読んだ、なんて嘘に決まっている。でも……じゃあ、誰に教わったの?)


「でも」ミーラは疑問を口にした。「地下で、どうやって北を判別するんですか?」


レオンは微かに笑った。


「簡単だ」


レオンはしゃがみ、床面のオベリクス石に手を当てた。


「この石の目を見ろ。石目の流れは鉱脈の走向で決まる。ヴォルフスブルク山脈は南北に走っている。石目がこの方向に流れているということは——こちらが北だ」


レオンは迷いなく立ち上がり、六本の通路のうち一つに向かって歩き出した。


ミーラは慌てて後を追った。


(石の目で方角を判別する……? ホルス星命典に、そんな技術まで載っていたの……?)


「おい」レオンが振り返った。「迷宮には罠がある。俺が踏んだ場所だけを踏め。壁にも像にも触るな。俺が許可するまで」


レオンの口調は命令的だった。まるで自分より何十歳も年上の師匠が弟子に言い聞かせるような。


ミーラは少し不満だった。大図書館の弟子として、命令されるのには慣れていない。だが——さっきの落とし穴のことを思い出し、素直に頷いた。


「……はい」


レオン自身も気づいていなかった。オグリに毎晩知識を叩き込まれ続けた結果、無意識に師匠のような口調が移っていることに。ミーラに対して、まるで弟子に接するような保護的な話し方になっている。


二人は北の通路に入った。


オベリクス石の壁面に、時折イェログリフが浮かび上がった。千年以上前の文字。失われた帝国の記憶。ファラオ・ネクロスの名が、幾度も繰り返し刻まれている。


レオンの首元で、吊墜がかすかに振動し続けていた。


『——小僧。この先にあるものは、儂の想像を超えているかもしれん。心しておけ』


オグリの声が、珍しく緊張を帯びていた。


(何がある?)


『わからん。だからこそ心しておけと言っている。冥皇ファラオ・ネクロスの墓所だぞ。千年以上封印されていた。ヘリオス帝国の最高技術が眠っている。テラフォーマーどころの話ではない可能性がある』


レオンは前を向いた。


暗い通路の先に——かすかに光が見えた。蒼灰石の燐光ではない。もっと強い、金色に近い光。太陽のような色だ。


ミーラもそれに気づいた。


「レオンさん、あの光は——」


「ああ。——行くぞ」


二人は、光の方へ向かって歩き続けた。


ファラオ・ネクロスが千年前に封じた墓所の奥から、金色の光が脈動していた。


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