第二十話 静都崩壊 前編
進軍は、あまりにも順調だった。
抵抗がない。迎撃も妨害も伏兵すらも何もない。荒野を抜ける風だけが、隊列の間をすり抜けていく。
魔族連合の軍勢。そしてクロアとラテア。誰もが理解していた。これは異常だ。
「……人類が、ここまで何も仕掛けてこないとは考えにくい」
コンスが静かに言う。その視線の先には交易都市フィリアがあった。
外壁、塔、門。すべてが整っている。だが全く動きがない。煙も、人の気配もない。
ネフティスが耳をぴくりと動かす。
「にゃ〜……静かすぎるにゃ」
バビが遠距離を測るように目を細める。
「……見張りがいない。いや、見せていないのか」
ゲブが腕を組む。
「どちらにせよ、気に入らん」
誰も反論しない。
クロアの演算が連続する。
(……索敵反応、低。異常値)
ラテアがわずかに視線を上げる。
「歓迎されてる、わけじゃないわね」
軽い調子。だが誰も笑わない。
やがて隊列が止まる。フィリアの正門、その目前。
巨大な扉は閉ざされていた。
暫しの沈黙の間に、風が止む。
その瞬間、音もなく門が動いた。
軋みはない。滑らかに、ゆっくりと開いていく。
まるで“待っていた”かのように。
街の内側が見えてくる。街路、建造物、だがやはり誰もいない。
この都市は空白だ。完全な空白。
ネフティスが小さく笑う。
「にゃは……これは分かりやすすぎるにゃ」
バビが短く言う。
「罠だな」
ゲブが頷く。
「間違いない」
コンスが静かに続ける。
「……ですが、ここで立ち止まる選択はありません」
事実だった。この都市を落とさなければ、すべてが無意味になる。
クロアの単眼が門の奥を見据える。
(……誘導。意図的開放)
だが。
(……回避不可)
結論はすでに出ていた。
ラテアが言う。
「行くのね」
端的な最終確認だった。クロアは短く答える。
「進入する」
迷いはない。セルケト不在のこの場で、その判断は重い。
だが誰も異を唱えなかった。
ゲブが前へ出る。
「ならば先陣は我らが切る」
ネフティスが軽やかに笑う。
「中がどんなでも、楽しそうにゃ」
バビが射線を確保し、コンスが全体を見渡す。
「各員、警戒を最大に」
全員が一歩を踏み出す。門を越える。
その瞬間、空気が変わった。
外とは違う。重く、静かすぎる。
まるで観測されているかのような。
クロアの内部で警告が走る。
(……環境異常)
だが遅かった、既に全員が中にいる。
背後で門がゆっくりと閉じ始める。
音もなく、逃げ道を断つように。
誰も振り返らない。全員が理解していた。
ここから先は、別の戦場だ。
静寂の都市フィリア。その内部で、何かが待っている。
相変わらず静かすぎた。
石畳。整然と並ぶ建物。開け放たれた店先。
生活の痕跡だけが、そこには残っている。
だが人がいない。
ネフティスが鼻をひくつかせた。
「……水の匂いがするにゃ」
確かに地面には湿り気がある。
この都市はまだ生きている。
水路、配管、貯水槽、そのすべてがまだ機能している。
そこでクロアの演算が異常を拾う。
(……生体反応、微弱。広域分布)
点ではない、面の反応。
都市全体に薄く、何かが存在している。
コンスが低く呟く。
「……妙です」
一歩進んだ、その時だった。
どこからともなく滴るような水音。
やがて霧が出る。薄い。だが確実に広がり、視界を曇らせていく。
「にゃ〜、これは嫌な感じにゃ」
ネフティスが姿勢を低くし、バビが周囲を睨む。
「視界が切れる……来るぞ」
次の瞬間、影が動いた。
人影。ゆらりと立っている。
しかし明らかに人とは違う。四肢の長さが揃っておらず、関節は不自然に曲がり、皮膚の下で何かが蠢いている。
目はない。代わりに裂けたような開口部があり、そこから水のような液体が滴っていた。
「……住民か」
誰かが言う。それを誰も否定できない。
異形の衣服はかつてのままで、生活感さえ漂わせている。
だがその中身だけが変わっている。
それが一体、二体、さらに増え、霧の中から次々と現れる。
クロアの演算が即座に更新される。
(……感染型変異。宿主転移、可能性高)
コンスの声が震える。
「……水だ。生活用水に、何かが混入されている」
理解が広がった。この都市は最初から仕組まれていたのだ。
時間をかけて、確実に住民を兵器へ変えるために。
ゲブが低く唸る。
「……狂っている」
だが現実だ。
ネフティスが爪を構える。
「にゃは……これは、遊びじゃないにゃ」
影が走り、変異体が跳ぶ。速い。人ではありえない速度。
だが制御されていない、衝動性そのものだ。
クロアが迎撃の斬撃を飛ばす。変異体の肉が裂けるが、止まらない。
別の個体が迫り、さらに倒したはずの個体が動き出す。
肉が再構成され、滴る液体が地面に広がり、それが蠢く。
(……二次感染源)
クロアの警戒が跳ね上がる。
「接触、危険」
短く、全体へ伝達する。
コンスが即座に叫ぶ。
「近接戦闘を最小限に!距離を取って応戦!」
霧の中から無数に現れる、人だったもの。そのすべてが牙を剥く。
「……フィジカル・デルタ」
クロアが識別名を付与する。
目前の個体群を生体兵器として分類した。
それは、かつての住民だったもの。
都市が牙を剥く。
フィリアはすでに、内部から陥落していた。
フィジカル・デルタ。それは同じように見えて、同じではない。
個体ごとに動きも速度も強度も異なり、何より変異の深さが違う。
クロアの視界に差異が精査されて浮かび上がる。
(……感染進行度、段階差。個体ごとに脅威度変動)
斬り伏せた個体は軽い。骨格も筋力も、まだ人の範囲に近い。
だが別の個体は踏み込みが重く、地面が沈むほどに腕が太い。
振るわれる一撃には明確な質量があった。
そして、さらに奥で何かが現れる。
霧の中で影が膨らむ。大きい。いや、膨張しているのだ。
骨が軋み、肉が裂け、無理やり形を変えたような体躯。
二足歩行だが、もはや人ではない。歪な大熊に近い。
胸が裂けており、そこにある大口が開くと牙が見えた。
大熊が唸ると空気が震えるようだ。
「……デカいのが来たにゃ」
ネフティスが低く構える。
次の瞬間、それが液体を吐いた。
ただの液ではない。地面に触れた瞬間、石が溶け、煙が上がる。
(……腐食性。接触厳禁)
バビが即座に射る。矢が大熊の頭部を貫くが止まらない。
肉が寄って再生し形が戻る。
「……効きが浅い!」
さらに巨体が踏み込んでくる。質量に反した速度で踏み込んできたそれが爪を振るい、オークの盾兵が吹き飛ぶ。
そして胸の口が開く。喰らい付こうとしている。
「下がれ!」
ゲブが割り込む。大剣が叩きつけられ、肉が裂ける。
だが完全には断てず、再生が追いつく。
「……厄介だ」
短く吐き捨てた、その時、別の異変が起きた。
地面が盛り上がり、割れて、そこから根が伸びた。
肉のような、植物のような異形。それは定着し、動かないまま膨らみ、広がっていく。
そして霧が濃くなった。間違いなく植物型の異形から発生している。
「……発生源!」
コンスが即座に判断する。
「霧を生成している個体です!」
視界がさらに奪われる間にも敵が増える。
味方同士の位置が分からず、戦場が崩れ始める。
クロアの演算が加速する。
(……感染進行度=戦闘能力。時間経過=脅威増大。長期戦、不利)
結論。
(……殲滅優先順位、再設定)
クロアが前に出ると、上げる声が全体へ通る。
「高進行個体を優先排除。特に霧生成個体を最優先目標とする」
さらに続ける。
「接触を避け、遠距離攻撃を主軸に対処」
明確で、迷いがない。
戦場が再編される。
ネフティスが笑う。
「にゃは、やっと分かりやすくなってきたにゃ」
バビが位置を取り直し、ゲブが構え直す。コンスが指示を飛ばす。
混乱が、戦術行動へ変わっていく。
だが遅れて、霧の奥でさらに巨大な影が動いた。
ゆっくりと、しかし確実にこちらへ。
(……未確認大型個体)
クロアの視界が収束する。
この都市はまだ、底を見せていない。




