第6話 オーバストール-3
外に出ると、まず目の周りの筋肉が光を遮断すべく動いた。
冷静に――この眩みは、確かなる一歩の代償としてはひどく生ぬるいものだ。そう心に唱えつつ目が慣れるのを待った。
あ、まずい。フィンフィエが心配そうにこちらを見つめてきている。
「大丈夫?」
「ああ、うん。少し頭が痛むけど、全然歩けるよ」
「ほんとに無理だけはしないでね。えーっと、ここら辺はちょっとにぎやかだから、静かなところまで案内するね」
俺はこくんと頷く。
初めましての街並み。レンガ造りの家々が軒を連ねる光景もさることながら、行き交う人々が遊びや仕事、休息などを自分の意志で選択しているように感じさせる雰囲気が、見ていて新鮮であり、そこはかとない興味が湧く。
おそらく俺は前世――すなわち過去に戻ってきているみたいなのだが、その着地点がこうも栄え、発展した街であると、未来に飛ばされたのでは、とつい錯覚してしまう。
できることなら、すべての家屋が茅葺き屋根と予想している60年前のララカ村に行って、頭の中を整理したいところだ。
しばらく、なんの前触れもなく歌い始めたフィンフィエの鼻歌に耳を傾けていると、視界の大部分を占める色合いが赤褐色から緑へと変わっていき、フィンフィエが足を止めたときには、散在する家屋が自然との調和を図っている場所にいた。
「ここに座ろ」
そう言ってフィンフィエが指を差したのは、そこそこの高さがある石垣。
誤って落ちないように気をつけながら腰を下ろす。
「ライノの身の上話をする前にさ、ひとつだけ訊いてもいい?」
「ん、なに?」
「4日前の、ライノが最初に倒れたあの日のことで、なにか覚えてたりはしない?」
「ごめん、なにも……」
これに関しては、まったくもって嘘ではない。
「そっか……」
「なにか気になることでもあったの?」
「あー……うん。えっとね、実は私の部屋の窓が壊れてたの。それも一朝一夕じゃ直せないくらいまで」
「ちょっと待って。どうしてフィンフィエの部屋が出てくるの?」
「あ、ごめん。言ってなかったね。ライノはあの日、私の家に遊びに来てたんだよ」
――そうか、そういうことだったのか。だからあのときフィンフィエが近くにいたのか。
「じゃあ俺が倒れる瞬間も見てたってこと?」
「ううん。私、そのときママが作ってくれたお菓子を取りに行ってたから……」
尻すぼみに小さくなっていった彼女の声。
なんとなくだけれど、察せられる。それはきっと大事な人の大事なときにそばにいてあげられなかった悔しさだ。
「窓のことは、たぶん俺が倒れたときに頭かどこかを思いっきりぶつけちゃったんだと思う」
「それはないよ。ライノが倒れてた位置は窓から離れてたもん。それに目立った外傷はないってお医者さんが言ってたんでしょ?」
「ああ、そういえばそうだった」
厳密には、上唇の裏が切れてはいたけど……。
「あと、窓枠にね……指の跡がついてたの」
「指?」
「うん。なんか、窓の外に引っ張られたなにかが必死に抗おうとした、みたいな」
それを聞いた瞬間、頭の片隅に置いておいた小瓶の蓋が外れる。
と同時に、手の甲が急にくすぐったくなり、俺はフィンフィエそっちのけで目を落とした。
アリだ。たった1匹でパンくずのようなものを運ぼうとしている。さすがに仲間を呼んできたほうがいい。お前だけだとすべて運び切るまでには、少なくとも3往復は掛かる。
「――ごめん! 聴きたいのはこのことじゃないよね。えっと、じゃあライノの口癖から話そうかなっ」
壊れた窓と指の跡。
どれほど机の上が散らかろうとも、お気に入りの置物には傷がつかないよう注意を払うみたいに、動かすことすらしなかった疑問がひとつある。
――ライノの魂はどこにいったのか。
俺がこうして実際にライノの身体に乗り移っている以上、魂というあやふやな概念に疑義は唱えられない。
そう理解した上で、ライノの魂は心の奥底で深い眠りに就いていて、ブーセとしての目的を果たしたそのときに、この体を快く返還しようと考えていた。
しかし、先ほどのフィンフィエの発言内容で、苦難、苦境をいとわない俺の思わくが机上の空論となる可能性が生まれてしまった。
略奪者の衣は着心地が悪い。綺麗な肌を維持し続けてきたがゆえ、余計に。
たとえ復讐の果てに、ブーセとしての未来がなかったとしても、俺は「ライノ」に体を返してあげたい。
ブーセは俺で、ライノはライノであるべきなんだ。
ひたすらに考えすぎて脳が疲れてきたところ、不意に右頬を優しくつつかれた。
「ねえ、大丈夫?」
「ん? ちゃんと聴いてたよ。フィンフィエのほうが俺より1日早く産まれたんでしょ」
「そうそう。だから私はライノのお姉さんなの」
「……別に血は繋がってないだろ」
「そういう意味じゃないよお」
気がつけば、空は茜色に染まっていて、なんとなく自分の手元に目を向けてみると、そこにあったはずのパンくずは跡形もなく消えていた。
フィンフィエが軽やかに立ち上がる。
「ごめん、一気に喋りすぎたよね。聴くほうだって疲れると思うし。続きは明日にしよ」
「わかった」
素直に受け入れ、俺もフィンフィエに続こうとしたが、胸の前にパッと現れた小さな手によって、自力での起立を阻止される。
こういうのは普通逆だと思うけどな……。
「ありがとう」
差し伸べられた手を掴み、なるべく負担にならないように配慮しつつ、彼女の身長を抜いた。
「あのさライノ、私からもひとつ、お願いしてもいーい?」
「もちろん」
視線を外すフィンフィエ。
すると、待ってましたと言わんばかりの風が吹き、彼女の赤毛がそよそよと揺れた。
「……名前を……呼んでほしい……」
「え? さっきから結構呼んでると思うけど」
「うん……でも、もう1回呼んで? 忘れてほしくないから……」
理由はうまく言葉にできない。ただ純粋に、目の前の光景をずっと見ていたいと思った。
目を伏せたままの彼女は当然気づいていない。まばたきを惜しむほどの熱い視線を向けられていることに。
嘘にまみれた腹の底で煮込んでしまう前に、俺は彼女の要望に素直な気持ちで応えた。
「帰ろうフィンフィエ」
「――うんっ」
これでいい。
フィンフィエを利用すると決めたけれど、それは彼女の見えないところで済ませればいいだけの話。
誰であれ、人の悲しむ顔は見たくないのだ。
来た道に目をやる。
――が、左斜め前方にいる金髪の少女の姿が心に留まった。もっと言えば、心臓に針が刺さったような感覚に襲われた。
「待って、フィンフィエ。あの子は?」
「ん? ――ああ、あの子はイファナちゃんだよ」
「……俺と関わりはあった?」
「うーん、たぶんないと思う。私ですらほとんど話したことないもん。あの子、外に出るのはああやって家の前で本を読むときだけみたいなんだよね」
「そっか……」
どうして胸が苦しくなるんだ。
どうして吐き気がするんだ。
どうして右肩がうずくんだ。
――ただ瞳の色が、魔女と同じ赤色なだけじゃないか。




