第5話 オーバストール-2
自分の前世と思しき姿に「憑依」してから、5日が経過した。
2日掛かって、ようやく新しい顔を見ても身悶えしなくなったけれど、依然として俺は目覚めた部屋から動けずにいた。
もちろん本意ではない。俺は当然ながらライノの記憶を有していないのだ。
現状、ライノの両親とは病人なのをいいことになんとか首振りだけでコミュニケーションを取れてはいるが、しょせんその場しのぎ。いずれ化けの皮は剥がれてしまうだろう。
現状維持は悪手だ。なにか行動を起こさないと。
――コンコン。突然、空耳とも思えるほど小さいノック音が室内に響いた。
「――は、入るよ」
ドアの向こうから発せられたか細い声。私見ではあるが、中にいる者に伝えようとする意志がまったく感じられない。
あくまでも形式的な作法を行なっただけ。そう解釈するのが妥当。
やがてドアが開き、ひょっこりと顔を覗かせたのは、見知らぬ岸に流れ着いてから間もないうちに出会った、あの赤毛の少女だった。
今日もまたベッドで横になっているのだろうと内心決めつけていたのか、彼女は一瞬遅れて、椅子に座っていた俺に視線を向けてきた。
「……あっ、ライノ。え、えと、体調はどーお?」
胸に手を当て、眉尻を下げたその様相を見て、そこそこの警戒心を抱いてしまったことが少し申し訳なくなる。
彼女については、俺が最初に倒れたあの日から毎日ようすを見に来ている、とライノの母親が一方的に教えてくれていた。
まあ、どれも俺が激痛にねじ伏せられたあとだったらしいが。
俺の返答を待つ少女――名前は、名前だけは知っている。
「……あのさフィンフィエ」
「ん? なあに?」
ライノになりきるというのはあまりに無理がある行為だと早々にわかっていたからこそ、俺の頭にはひとつの打開策が浮かんでいた。
目の前にいるのはライノと同じくらいの年で、かつ親身に気遣ってくれるほどの関係値がある少女。
だったら――
彼女に嘘で打ち明けるしかない。
「この街って、なんて名前なのかわかる……?」
「え…………」
彼女の唖然としたその表情で、より胸が痛む。
記憶喪失を装う――ぽっかりと空いた大穴を埋めずにやり過ごすにはこれしかなかった。
目を見開いたフィンフィエはそろりそろりと足を動かし、そして、俺の頬に手を添えてきた。
「もしかして…………記憶が……」
俺は静かに首を縦に振る。
「で、でも、私の名前、呼んでくれたよね?」
罪悪感が芽吹く。
けれど、利用しようとしている相手を思いやり、できるだけ傷つかずに――なんてていのいい考えは、どうせ薬にはならないのだからさっさと捨てるべきだ。
俺は自分の頬に止まった純白の蝶を、望んで穢した手で覆う。
「フィンフィエの……君の顔と名前だけは……ずっと、頭にあったんだ」
時と場合と関係性によっては、感動的と捉えられる言葉。俺はそれを理解した上で悪用した。フィンフィエの瞳が潤みだしているのは、間違いなく俺のせいだ。
「そう、なんだ…………私だけ……」
そう呟いた彼女は、手を引き戻し、人差し指で目元を数回擦ったあと、やんわりと口角を上げた。
「ええと、パパとママには言ったの?」
「……まだ」
「私から伝えようか?」
ダメだ。それだと「記憶が戻る」までのあいだ、自由に行動させてもらえなくなるかもしれない。
「いや、待って。……その、お願いがある……」
「ん? いいよ、なんでも言って」
その無垢な優しさに対するお返しは、今しがた思いついたばかりの恥ずべき一計。
「……できれば記憶がないことは……秘密にしてほしい……」
「え、秘密って……ライノのパパとママにも?」
「うん……ふたりだけの、秘密……」
じわじわとフィンフィエの頬が赤らんでいくようすが見て取れる。
まだ、彼女が「ライノ」に対してどのような感情を抱いているのかは定かではない。
こうして好意的な反応を見せてくれてはいるが、会話を交わして感じ取った温和な性格というものは、ごく稀に殺人を犯す不届き者よりも計り知れないときがあるため安心はできないのだ。
「わかった、約束する。でも、どうして?」
「えーと……心配を掛けたくない、みたいな……」
「ふふ。やっぱりライノはライノだね」
いや、中身は別人なんだけどな……。
俺の無難な回答を都合よく解釈してくれたようすのフィンフィエは、急にハッとした表情をするや否や、半開きのまま放置されていた部屋のドアを閉めに行き、そして笑みを浮かべた。
「じゃあ、ライノがどんな人で、どんなふうに周りの人と接してたのかを教えてあげるね」
「ありがとう。あ、それさ、外で聴いてもいい?」
「え、いいけど……体調のほうは大丈夫なの?」
「うん、平気。ここ数日ずっと家の中にいたから気分転換したくて。それに、外に出たらなにか思い出せるかもしれないしさ」
いまさらだけど、記憶を失った人にしては流暢に喋りすぎか……?
まあ、不審に思われてはいないみたいだしいいか。
「それもそうだね。じゃあ私、ライノのママに言ってくるっ!」
幸いにも俺の懸念のひとつを頼まずして解消してくれるらしいフィンフィエは、そそくさと部屋を出ていった。
「………………はあー」
想像以上の精神疲労が……。
真面目に嘘を吐くのってこんなにも疲れるんだな。
でも、これでやっと外に出られる――。
それからフィンフィエが戻ってくるまでのあいだ、ほぼ無意識にため息が漏れ続けていたが、体内に充満した罪悪感が一緒に排出されることは当然なかった。
⭐︎
「ライノ、絶対に無理しちゃダメだからね」
太陽の光を全身で浴びられる一歩手前で、ライノの母親に念を押される。
「大丈夫ですよ。私がちゃんと看てますから」
代わりに答えてくれるフィンフィエ。
どうやらその言葉だけで十分だったみたいだ。互いにほほ笑み合ったのち、ライノの母親がフィンフィエの額に口づけをしたようすを見てそう思う。
程なくして無償の愛はこちらにも向かってくる。まぶたを閉じるとすぐにおでこの辺りでリップ音が鳴った。
ライノの母親の見た目や話し方からは、非常におっとり、ふわふわとした印象を受ける。
ただ、いくら気を許せそうだからといって、他人である「俺」が彼女に甘えていい理由にはならない。
この言葉だってただの習慣によるものだ――。
「じゃあ……いってきます」
「ええ、気をつけていってらっしゃい」




