第4話 オーバストール-1 惟識暦600年
「――――――ノ――――イノ――」
……声が……する…………うる、さい……ああ……すぐ横で誰かが叫んでるんだ……。
…………あと……なんか、呼吸がしづらい……。
……あ……うつ伏せになってるからか…………。
腕の力を使って上半身を押し上げると、まず虎の体の模様みたいな木目と目が合う。
すぐに状況把握に努めてみるも、ずっしりとした体の重さが靄となって、ひと息つけそうな答えにはなかなか辿り着けない。
――床が揺れている。激しくて、ときどき規則的な振動。
あれ? さっきまでそばで騒いでいた人は……?
膝をお腹の前に持っていき、上半身を完全に起こす――と、間を置かずして衝撃に襲われた。
それは質量こそ大したことはなかったものの、そこそこの勢いが乗った突進――そう、なに者かに抱きつかれたのだ。
一瞬だったので焦点が合わず、顔を確認することはできなかったが、華奢な体格や肩まで伸びたさらさらとした赤毛からして、おそらく女の子だろう。
「よかった、本当によかった。痛いところはない?」
耳元で発せられた透き通った声が頭に響く。
やはり、自身の体調があまりよくないことだけは確かだ。
とりあえず、この人にはいったん離れてもらおう。
恐怖とも取れる心配を手で優しく押しのけると、それは微塵も反抗することなく従ってくれた。
が、しかし、赤毛の少女の顔がいざ視界に入った直後、俺は地獄を見た。
咄嗟に手で側頭部を押さえる。
前触れもなく現れたのは、脳天から鋭利ななにかを刺し込まれ、無造作にかき混ぜられているとしか思えないほどの激痛。
「うっ……ぐ……うう…………くっ……」
瞬く意識。
――――分厚い本が落下したような音――――額が感じる床の冷たさ――――――左手で掴んだ机の脚――――――喚き声――――――――痛い――――――――――
⭐︎
最初に倒れてから3日が経った――と誰かが言っていた。
目を覚ましてはまた激しい頭痛に苛まれ、悶え苦しみ、気を失う。それを繰り返して繰り返しての、3日。
そして、今は夜。
円盤状のガラスを鉛線で繋ぎ合わせた小窓から差し込む月明かりは、なんとも形容しがたい模様を白い毛布に映し出していた。
木製のベッドから降りて、違和感に今一度触れる。
くわえて、覚醒しているあいだに自然と集まった断片的な情報たちも一緒に並べて考える。
爪の形なのか、表情筋の柔らかさなのか、鼻で呼吸をしたときの通りのよさなのか、なにが最初に引っ掛かったのかはわからないが、自分の身に起こっている異変には嫌でも気づいていた。
それに、この声も――
「あー、あー」
そして、明らかに俺に向けられた「ライノ」という呼び名。
……俺は……俺じゃないのかもしれない…………。
バカバカしく、かつ常軌を逸した推測だが、敗走の一途を辿ったあの日の記憶には、それらしき根拠が確かにあった。
シャムルおばさんは言った。「あの大釜」は自分の前世の姿を映し出すものではないと。
シャムルおばさんは言った。「あの大釜」を使えば、魔女の手から逃げられると。
シャムルおばさんは――
「あっ……」
思考の邪魔をしてきたのは、意図せずこぼれ落ちてきたひと粒のしずく。
……またか。
昨日も一昨日も、ずっと体と心の噛み合わせが悪い。
あの日、抗う機会もなくすべてを失った俺は自暴自棄になり、挙げ句、濁流に呑まれ、あろうことか流れに逆らっていた木の枝にしがみつき、そして、その枝を犠牲にしてまでして生きている。
決して悲しみに溺れてはいけない。色を失っていたとはいえ自分で選んだ道なのだから。
「………………ふう……」
とにもかくにも、推測の答えは磨かれた金属か、はたまたそれに近しいなにかがあればすぐに導き出せる。さらに言うなら、雨潦でも構わない。
目下の不安の種はふたつ。
ひとつは自分の顔に見知らぬ仮面がこびりついているかもしれないという恐怖そのもの。ただ、これに関して言えば覚悟はもうできている。
よって、一番気にすべき問題は、あの頭が割れるような痛みだ。
何度か繰り返してわかった。あの頭痛には確固たる誘因がある。
赤毛の少女、「ライノ」の父と母――最初は漠然と人の顔を見ると引き起こされるものだと思っていたのだが、昨日の、口振りからして医者と思われる老爺の顔を見たときには、特に痛みは生じなかった。
人の顔が引き金になっているわけではないと踏む根拠はまだある。窓の外の景色だ。初めてこの部屋の窓を開けたとき、悶えるほどではなかったものの、頭がズキズキしたのを憶えている。
…………いや、いったんやめよう。
こんな少ない判断材料であれこれ考えていても仕方ない。
それに、日が経つにつれて、生じる痛みがだんだんと弱まっているのも事実。
きっと一過性の病状だ。ただ歯を食いしばっていればいい。
とはいえ――
「はあ……」
転んだ拍子に尖った石が突き刺さるのと、自らの意志で刺さりに行くのとでは訳が違う。
聴覚のお手隙具合からして、夜は更けている。今倒れるのはどうにももったいない。
「よし」
俺は手燭を持ち、未知から情報を少しでもすくわんとするために、「ライノ」の部屋を出た。
⭐︎
音を立てぬようゆっくりとドアを閉める。
「……ふう」
これといった問題もなく、元いた部屋に戻ってこられた。
小鳥が水飲みを始めてから飛び立つまでくらい短い時間で行った見慣れない家の中の探索。
ただそれでも、収穫はあった。
隣の部屋で見つけた、この1枚の羊皮紙。
その場で熟読してもよかったのだが、誰かに見られてしまったときの言い訳をひねり出す難しさと、読み終えたら返しにいかなければならない面倒さであれば、そんなの天秤に掛けるまでもなかった。
この紙に書かれているのは「ライノ」の病状についての記録だ。
といっても、温かみのある文章から察するに、あの老医によるものではなく、「ライノ」の父親か母親のどちらかが記述したものなのだろう。
筆者の特定はともかく、注目すべきはこの日付だ。
惟識暦600年――。
シャムルおばさんは「魔法はこの世にあってはならない」と言っていた。そして、俺になにかを託した。
そうだ。俺はあのとき、是が非でも生きながらえようとしていたわけではない。渡された曖昧模糊ななにかを背負った瞬間、強い使命感に駆られたからあの大釜に顔を突っ込んだのだ。
……そういうこと、だったのか。
シャムルおばさんがしつこく教えてくれていたからしっかりと覚えている。
――魔法が生まれたのは、惟識暦601年だ。
魔法さえなければ、母さん、父さん、ミノリル、シャムルおばさん、ララカ村のみんなが殺される未来は訪れない。訪れようがない。
俺はそっと膝を突き、羊皮紙とは別の、見つけたくはなかった物――廊下に置きっぱなしになっていた水の入った木桶に、顔と蝋燭の火を近づける。
さあ、向き合うのを躊躇ってきたこの検証で、進むべき道を決定づけよう。
そして、水鏡に仄めいた面貌が瞬く間に脳内で炸裂する。
薄れゆく意識の中で俺ができたのは、率直な感想を漏らすことだけだった。
「うっ…………誰だよ……お前…………――――」




