第3話 ララカ村-3
追われなかったことに関しての安堵と疑問。
とはいえ、それらを抱えていられるほどの余裕はない。
村の最北端。ある民家の裏手。
音を抑えながら積もった落ち葉を足で払うと、黒く変色した四角い木の板が現れる。
その木板が隠しているのは、子どもか細身の女性にしか通れそうにない小さな穴。
薄暗い空にお別れを告げる。
ここからは手触りと記憶だけが頼りだ。
光のない地下道。
憂き目に遭い、もう死んでもいいと思っていたのだが、一転して生に縋った理由を掲げてひたむきに進んでいく。
一縷の望みというよりかは、もっと稚拙な想い。
ただただ「生きている人」に会いたい。ほんの少しでいいから誰かの腕の中で目を瞑りたい。そんな現状打破から遠く離れた気休めが今どうしようもなく欲しい。
…………欲張り、かな……。
暗中模索を続け、ようやく光を見つける。簡素な木製の扉の隙間から漏れ出た微光。
ここは眠れぬ夜に家を抜け出した俺を幾度となく迎え入れてくれた場所でもある。
赤く染まった左手。血で汚ごしてしまうとわかっていながらも、俺はそれを使って扉を押し開ける。
奇跡的なバランスで山積みになった本と、自分だけの居場所を取り合っているかのように散らばった紙だらけの部屋。そして、中央に鎮座している液体が満ちた鉄製の大釜。
――よかった、いつもと変わらない。
「シャムルおばさん……?」
自分でも内心驚くほど弱々しかった呼び掛けは、入室してすぐに役目を果たす。扉のそばに置いてある椅子にその人は座っていたのだ。
「ブーセっ! 無事――とは言いがたいわね」
「シャムルおばさんこそ、その腕……」
「ああ、火が飛んできたの。明らかな意志を持った、ね」
遠回しに魔法でやられたと話すシャムルおばさんの左腕は、その大部分が焼け焦げており、かろうじて炭化から逃れた部分に関しても、生々しい発赤が広がっていた。
俺は医者の息子でもなければ、医学書によだれを垂らしたことがあるわけでもない。なにより、脳は混乱から脱したがっている。
今優先すべきことは少なくとも傷の舐め合いでは決してないはずだ。
「……あいつらはなんなんですか?」
「あれはラーディックロックの魔法使いたちよ。多くの国民には秘匿されていることだけれど、今やこの国の実権を握っているのは、数十年前に王都に根を張った彼らなの。現国王に関しては完全に傀儡の王と化しているわ」
説明を聴いても情景がまったく浮かばないのは、俺がララカ村から遥か西にある王都ラーディックロックに訪れたことがないからだろう。
「なんで、そんなヤツらがこの村を襲ってるんですか? それにシャムルおばさんを捜してるって言ってましたよ」
「え、もしかして彼らと会話を交わしたの?」
「はい」
「魔法は使った?」
「……はい。ほとんど効きませんでしたけど」
「そう……さっきの大きな音はブーセだったのね……。なら、すべてを説明してあげられるだけの時間はなさそうね」
え、俺が魔法を使ったから時間がなくなる……? どういうことだ……?
「あの……俺、教会のほうからじゃなくて、北の抜け穴から入ってここに来ました、よ……」
シャムルおばさんが首を横に振る。
「彼らの中に際立って小さいのがいたでしょう?」
「あ、はい。女の子、ですよね」
「顔も見たのね。あれが――魔女よ」
魔女。昔、シャムルおばさんが突拍子もない話を添えて教えてくれた特異な存在。
あらゆる魔法を扱うことができると言われているそれには、俺の脳内に浮かぶ不可解な点をひとつ解消する特徴を持っていた。
――魔女は歳を取らない。
それが脚色された情報でないのなら、あの赤目の少女は、59歳のシャムルおばさんよりも年上の可能性だってありうるということになる。
途端に童顔に動揺したあのときの自分を殴りたくなった。
「本当に実在したんですね」
「ええ。彼女なら魔法の痕跡からブーセの現在地特定するなんて造作もないことでしょうね」
そうか、そういうことか。俺は逃げ切れたんじゃない。あえて逃がされたんだ。それも「シャムル」という人物の名前を聞かされたあとで。
「じゃあ早くここから離れましょう!」
「無理よ。水晶の魔法で村が囲われた時点で逃げ道は断たれてしまったもの」
俺が木に登ってその水晶を飛び越えたように、この村で一番高い教会からロープかなにかを使ってうまいことやれば出られるかも、と一瞬考えたが、自分とシャムルおばさんの負傷具合を見て、絶望する。
「……ごめんなさい。俺がここに来なければ、シャムルおばさんは助かったかもしれないのに……」
そう反省を述べると、シャムルおばさんがフッと笑った。
「なにを言っているの。私はここにブーセが来ることに賭けていたのよ。どうやらまだ天はこんな私の味方でいてくれているみたいね」
「それは、どういう……」
「ブーセ、あなたはまず殺されたりはしないわ。魔女の目的は王都にマヴィルギーを集めることだもの」
「王都に? い、いったい、なんのために……?」
「詳しくは私もわからないわ。でもそれが善行のためではないことは、あの非道さが物語っているでしょう?」
多くの無辜の民を虐殺。間違いない。
それによくよく思い返せば、チャミが殺される直前に突き出された手の高さが著しく低かった憶えがある。おそらくだが、チャミの息の根を止めた張本人はその魔女だ。
「そもそも、ヤツらはなんでシャムルおばさんを捜してるんですか?」
シャムルおばさんは魔法を使えない、はず。
この村に来たのはたしか、魔法使いの血液を不正に入手したことが露見して王都を追放されたからだと、彼女自ら言っていた。まさかそれが関係しているのか?
しばらくの沈黙が流れる。
先ほどまで矢継ぎ早にまくし立てていた彼女の唇はぎゅっと結ばれていて、なんとなくそれが嫌に感じた。
「シャムルおばさん?」
「え……ええ、そうね……王都から追い出される前に焼却した文書を、誰かが私の知らないところでこっそり複製していて、それが25年越しに見つかったのかもしれないわね……」
ただでさえ情報過多なのに、計り知れない内容で目が回る。
定かなのは、正確なことはシャムルおばさんにもわからないということだけ。
「そんなに見られたらまずい――」
核心に触れようとしたそのとき、すぐそばの扉が小さく揺れた。続きの言葉を吐かずに息を呑む。扉を撫でた微風。その意味は――。
「……来たみたいね」
そう呟いたシャムルおばさんは立ち上がり、部屋の中央に位置した黒い大釜に手を掛けた。
「あなたはこれを使って逃げなさい」
「え……それってたしか、うまくいけば自分の前世の姿を映し出せるかもしれないってだけのやつじゃ……」
「ごめんなさい。ちゃんと説明してあげたいのだけれど、今は時間がないの」
すでに自分の生き死にが手元にないことは理解している。
ただ、そんな状況であっても一抹の冷静さを保っていられたのは、きっとシャムルおばさんの俺を見る目がいつものように温かったからだ。
「……どうすればいいですか?」
「最終調整は済ましてあるから、あなたはここに頭を沈めるだけでいいわ」
そんなので……いや、考えるのはやめよう。
もう決めたんだ。初めて尊敬という感情を抱いた相手ことを一途に信じ切ると。
大釜の前に立つ。
決して綺麗とは言えない黒と紫のマーブル模様をした液面。くわえて、熱しているわけでもないのに、ぶくぶくと泡が立っている。
「そのまま、動かないで――」
背後からシャムルおばさんの声。その直後、肩甲間部の辺りにチクっとした痛みが生じた。
されるがまま。足の指すら動かさない。当然だ。ペンが書ける物だと教えられていないのにもかかわらず、1枚の白紙を急に手渡されたようなものなのだから。
右側にある机の辺りで鳴ったやや甲高い音で、いつの間にか閉じていた目を開ける。
痛みと音の正体、なによりシャムルおばさんの顔を見たいがために体を動かそうとしたが、それらの欲はまったくもって満たされることはなかった。
でも、俺が本当に欲していたのはこれだ。こういうふうにぎゅっと抱きしめられたかった。
「大丈夫よ。ただ元に戻しただけだから」
耳元でささやかれる声が、片腕の抱擁が、彼女の体温が、醜い感情で埋まっていた俺の心に小さな隙間を作ってくれる。
「今はわからないことだらけだと思うけれど、賢いあなたならきっと私の意図を汲んでくれるはず」
賢くない俺でも気づいていた。
「……シャムルおばさんも……一緒に……」
彼女の言葉に送別の意が孕んでいることを。
「ふふ、そうしたいのは山々なんだけどね、どうやら私の前世はあまり長生きをしてくれなかったみたいだから」
返ってきたのは訳のわからない否定。
すると、ほんの少しだけ、回された腕に力が入ったのを感じた。
「それにねブーセ、私はとても残忍な学者なの。本質はあの魔女とだって大差ない。だって、ララカ村の人たちは私が殺したようなものなんだもの。あとあとあなたに恨まれることになったとしても、それは仕方ないと思うわ。でも……それでも、これだけは覚えておいて。
魔法なんてものはこの世にあってはならないのよ」
抱擁が終わる。隔離されていた時が吸い込まれるように元の位置に戻り、またいやらしく刻み始める。
「さあ、行きなさい」
シャムルおばさんに背中を軽く押される。
今の俺はその微弱な勢いに身を任せるしかなかった。
けれど、液面に鼻先が触れる寸前で、すぐ後ろから大きな物音がし、思わず振り返ってしまう。
噴出する血しぶき。宙を舞うシャムルおばさんの頭。
それが最後の光景だった。
「――んっ!?」
ああああつい、とけ……………………――――。




