第17話 パネアドノ-4
追走劇はあっさりと幕を閉じた。息切れするまでもなく。
両者の足が止まったのは「もう逃げ場はないぞ」と言い放つにふさわしい場所。つまりは行き止まり。しかし、追い詰められた小太り少年はいまだ嗤笑を浮かべていた。
「それ、返せよ」
彼の手に筒状に巻かれた羊皮紙があることを確認できたからこそ、俺は語気を強めて言う。
「へへっ、へへっ、へへへへへ。ああー、楽しいなー」
あ……やばい。変なヤツだ。どうしよう。
こういう相手を過度に刺激すると、事態がよからぬ方向に発展しかねないため、いったん冷静になって対処を試みる。
「えっと、素直に返してくれればなにもしないからさ」
「なにもしない……?」
「うんうん」
「ぷっ、あははははははは。なにもできないの間違いだろうが。自分が下等生物だってことを自覚しろよな」
落ち着け、俺。こんなあからさまな挑発に乗ってはいけない。
見たところ、年齢は12、3歳くらい。自分は特別な存在であるという慢心を持っていてもおかしくない年頃だ。
俺がグッとこらえるだけで地図を返してもらえるのなら、どんな罵詈雑言だって受け流してみせよう。俺はこいつと違って「大人」なのだから。
そう自分を律していると、地図が小太り少年の手からストンと地面に落ちた。
「おい、口で拾うんなら返してやってもいいぞ?」
「あ?」
このくそガキの足元で跪けって? 冗談じゃない。そんなの死んでも嫌だ。
あー、やっぱりいいや。いかに自分が愚かで非力な存在であるのかを身をもって思い知らせてやろう。
俺はため息をひとつ吐き、ぎゅっと拳を握り締める。敵意はおそらく剥き出し。容赦はしない。狙いは肩。視界は真っ暗。
は……? なんだこれ? 急に目が見えなく――
「ぐっ!!」
突如、腹部がへこんだ。胃腸がぐちゃりと潰れかねない勢いで。当然、激しい痛みがやってくる。なにも見えないまま、訳がわからないまま、俺は前のめりに崩れ落ちた。
「バーーーーカ。俺様を睨んだお前が悪いんだぞ。そうやって頭を下げて反省してろよな」
い……いったい、なにが、起こったんだ……?
頭上から浴びせられた罵声。おそらくだが、ヤツに間合いを詰められたのだろう。問題は、その程度のことを推測で把握しなければならない今の状況。
俺は知っている。同じような症状を少し前に見た。ただの「偶然」か、それとも特定の人物によって引き起こされた「必然」か。
「うっ……」
痛みに負けじと顔を上げようとしたが、後頭部にぞんざいに乗せられた重りがそれを許してはくれなかった。
俺の抵抗に応じて変動する圧力でなんとなくわかる。ヤツの足だ。
「いいか、凡人。俺は神に選ばれた存在なんだよ――いや、待てよ。はは、はは、ははははは。そうか、俺が……俺こそが! お前ら凡人が崇拝すべき神なんだっ!!」
屈辱的以外のなにものでもない。そもそも、悪人とわかっていながら対話で解決しようとしたのが間違いだった。
依然として地面に額をつけている俺は、とにかく光を求めて、ひたすらに目をしばたたく。
なにも見えない状態では「奥の手」は出しづらい。あまりにもリスクが高すぎる。
俺にぶつかってきたあの大男と原因が同じなら、症状はおそらく一過性。
早く戻れ、戻れ戻れ戻れ戻れ、治れ治れ治れ治れ――
「やめてっ!!」
同じく頭上で響いた女性の叫び声。それは傷つけられた俺の自尊心にとどめを刺す救いの手だった。
俺を押さえつけていた圧力が消える――と同時に今度は肩に――ただし、加わったのは打って変わって愛を感じる優しい力。
「ライノ、大丈夫!?」
「あっ……」
戻った。眉をひそめた全身ずぶ濡れのフィンフィエ。そのようすがしっかりと見て取れる。
なんだか今なら暗闇から脱却できた喜びも、不意打ちで勝ち誇っていたデブへの怒りも、可視できてしまいそうな感じがする。
「これはこれは、5人目の落下者ちゃんじゃないか。水浴びは気持ちよかったかい?」
皮肉めいた小太り少年の発言で、フィンフィエの目つきが鋭くなる。
「あはは、そう睨んでくれるなよ。やめられなくなっちゃうだろう」
やはりフィンフィエが水路に落ちてしまったのは、こいつの仕業だったのか。
ただ、鋭い眼差しを向けるものの、言い返しはしないフィンフィエ。
きっとヤツとの対話は不毛だと早々に判断したのだろう。思ったよりも冷静で、かつ思ったよりも頼りになる。
そんな彼女が手を口に添えて顔を近づけてきた。
「ねえ、急に目が見えなくなったりした?」
「えっ、うん。今の今までそうだった」
「やっぱり。私もね、あの人を追い掛けてたときに突然目の前が真っ暗になったの」
なるほど。ようやく点と点が繋がった。こいつは十中八九、魔法使いだ。神を自称するほどの高飛車な態度も、そう結論づけてしまえば納得できる。
魔法の特性はおそらく対象の視界を奪うこと。ただ、なにがきっかけで見えなくなるのかがまだわからない。
さっさと「イバラ」で拘束して終わりにしたいところではあるが、フィンフィエと魔法の成長度合いを合わせないといけない手前、彼女の前で圧倒するわけにもいかない。のちのち不審がられるほうが厄介だ。
となれば、最低限の魔力で確実に相手を無力化するために、いったんヤツの意識を俺から逸らす必要がある。
「気をつけて、フィンフィエ。たぶんあいつも俺らと同じだから」
宿屋でフィンフィエに植えつけた「不思議な力が芽生えたのは、あの蛇もどきの近くにいたから」という認識から逸脱した注意喚起ではあったが、彼女は戸惑う素振りもなく、黙って首を縦に振った。
どうやら俺の言ったことを過信しているわけではないみたいだ。
密談の内容を悟られないようにするためのフィンフィエの手がストンと落ちると、すぐに小太り少年がフンッと鼻を鳴らした。
「終わったか? 大方、どうやって盗られた物を取り返そうか相談してたんだろう? ムダムダ。お前らみたいなガキじゃあ、俺様には指一本とて触れられねえよ」
「いや、ガキはお前だろ」
つい心の声が漏れてしまう。
だが、ヤツの視線は反論した俺にではなく、横にいるフィンフィエに注がれていた。
「いひひ、よし決めた。そんなエロい姿でここに来た女のほうはあとでたっぷりかわいがってあげるとして、まずは身のほど知らずの愚か者を先に始末するとしようか」
来る。 神経をこれ以上ないほど尖らせる。歪んだ口元。荒れた肌。服に付いた食べこぼしのようなシミ。短い腕。ぴくんと動いた人差し指。
――思いっきり体を横に逃がす。が、またしても俺は光を失ってしまう。向かってきていたのは糸のようなもの。速い、というよりかは極めて細い形状をしていたため、視認すること自体が難しい。
とはいえ悲観はしない。この状況、なにも一方的に窮地に追い込まれたわけではない。
なにをどう警戒すればいいのかがわかったがゆえ、目がもう一度見えるようになりさえすれば、手加減ありでも成敗できると確信できたのだから。
そんな根拠のある希望を持ち、ひとまずは両腕を顔の前で構える――つもりだった。
俺がわざわざ見いだす必要もなく、活路がぱあっと開けた。
暗黒から漆黒へ。まず視界に入ったのは、半透明の黒い円盤。そして、ヤツの指から俺に目掛けて発せられた魔法の糸は、その障壁に阻まれ、明後日の方向に伸びていた。
「はえ?」
ギョッとする小太り少年。それはあからさまな隙だった。
魔法を使うまでもない。というか――
1発殴らせろ。
「ぶぅがっ!」
ありったけの力で殴ってやった。もちろん顔面を。
唾を宙に舞わせた少年は、勢いよく背中から倒れたのち、ピクリとも動かなくなった。両方の鼻の穴から血液がつーっと流れ出ている。
やりすぎと言われれば否定はできないが、なら悔い改めるのかと問われれば笑顔で否定してやる。
あとは、過度な暴力を目の当たりにしたフィンフィエがなんと言うのかだが――。
「えーっと……」
「んふふー。スカッとしたね!」
「え? ああ、うん」
「ささ、騒ぎになる前に早く逃げよっ」
さすがに杞憂だったか。まあ、いくらフィンフィエが慈悲深いといえど、これほどまでのクズは対象外となって当然ではある。
足元に転がっている、短い時間のうちに所持者が転々とした羊皮紙。俺はそれをさっと拾い上げる。
「――くしゅっ」
まずい。フィンフィエが風邪を引いてしまう。急いで宿に戻ろう。




