第43話
「......ねえ......」
暗闇の中から声が聞こえたような気がして意識が少しずつ浮上する。
「おねえ......」
「んぅ......?」
「お姉ってばー!」
息苦しさに身体をゆさゆさと揺さぶられる感覚も付け足されて、顔を上げるとそこには部屋着になった環樺が居た。
でも、なんか、マスクをしている。
「お姉大丈夫? 寝てた?」
「え、私、寝ちゃってた?」
環樺からの問いに、なぜこうなっているのかなにも思い出せず同じことを聞き返す。
「歯磨きして出たらお姉どこにもいないし、部屋に来てみたらうつ伏せでベッドに倒れこんでるし」
うつ伏せ? どうりでこんなに息苦しくて頭に酸素が回っていないのか?
なんでこんなことになってるんだっけ?
記憶は朧気で、なぜベッドに横になっているのか、そもそもどうして自分の部屋に居るのか。
環樺の顔をぼーっと眺めながらこうなる前の出来事を働かない頭で手繰り寄せるように思い返す。
えっと、環樺が帰ってきて、それからお風呂を沸かしてあるよって伝えに廊下に出て。
その時環樺に何かを言われたような......
「あ......」
近づかないで!!
ああ、そうだ。環樺に近づかないでって言われたんだ。私は、環樺に近づかないでって......
「ちょっとお姉~? お姉ってば!」
悲しみに暮れ、虚ろな瞳でぼーっとしている私に環樺は再び肩を揺らしながら声を掛ける。
「わかばぁ......」
「え!? お姉なんで泣きそうになってるの!?」
「だってぇ......環樺、私に近づかないでってぇ......」
「え? あ~......あぁ! そういうことね!」
私の言葉を聞いて、なぜかそれを言った側の環樺が、忘れていたことを思い出したようにいきなり慌て始める。
「違うのお姉! あのね、えっと......今日友達と一緒にご飯食べてきたんだけど......」
理由を話し始めた環樺は、どんどん語気が弱くなっていき、顔も少し赤くなって恥ずかしそうに目を逸らす。
私は相変わらず何も分からず、黙ったまま環樺の言葉の続きを待つしかない。
「そのぉ。じ......二郎系ラーメン食べてきたから、ニンニク臭くて......お姉に臭いって思われたくないから......」
「そ......」
それだけかああ。よかったああああ。
安心から、身体の力が抜けてベッドにぼふりと勢いよく仰向けに倒れこむ。
「もう! ビックリさせないでよ!」
「ごめんよ、お姉~」
「はあ~。だから今マスクしてるんだ」
「うん」
今思い返すと、帰ってきた時はマスクをしていなかったし、口元を抑えながら私の横を通り抜けていった。
それが匂いを気にしてのことだったらあの発言と行動も合点がいく。
でも。だからと言って......
「だからって、近づかないでなんて言わなくてもいいのに......」
抗議の意味を思いっきり込めて、環樺のことをジトーっとした目で睨みつけてみる。
「ご、ごめんってば~! あの時は匂いが気になりすぎて必死でぇ!」
わたわたと慌てながら言い訳を開始する環樺。
「家に帰ったら一瞬で歯を磨きに洗面所に飛び込むつもりだったのに、お姉がすぐ出てきちゃったからぁ!」
「ふふっ。それじゃあ今回だけは許してあげる」
「うぅ~、ありがとおねえ~......ごめんよ~」
「でも、そのかわり罰として......」
身体を半分起こして、ぺしょぺしょと申し訳なさそうにしおれている環樺の顔に両手を伸ばす。狙いは耳、に掛かっているマスクの紐。
それに手を掛けてマスクを外した。
「あ!」
「マスクはしちゃダメ~」
「か、返してー!」
「あはは、ホントだ。ニンニクの匂いがする」
「ぎゃああああああ!!」
「あははははっ!」
私からマスクを取り返したいけど、近づくとニンニクの匂いを嗅がれてしまうというジレンマと葛藤する環樺を見て楽しむことで、環樺を許すことにした。
冷静になってスマホで時間を確認すると、私が寝ていたというか気を失っていたのは五分程度だったみたいだ。
それから、罰のようなものの続きでマスクをするのを禁止したままベッドに横並びになってしばらく話した。
友達と遊びに行くのが決まってどうするか話し合っていた中、最近駅の方面に新しい二郎系ラーメンの店舗ができたから行こうということになったこと。
私達は二人とも今までそういう二郎系ラーメンといったものを食べたことがなかったので、今度二人でも一緒に行こうということにもなった。
二人で一緒に食べたら匂いもお互い様だからあまり気にならないでしょ。
「はいできた。うん、今日も良い感じ」
カチリとドライヤーのスイッチを切ると機械の駆動音と大きな風の音が鳴り止む。
環樺が誕生日にくれたヘアブラシとドライヤーを隣に置いてから環樺の髪に指を通して仕上がりを確認しそれに満足する。
私の部屋でしばらく話をした後、改めて環樺にお風呂を沸かしてあるよと伝え、お風呂上がりの環樺の髪を乾かしてあげていた。
「ありがとお姉。でもさぁ......」
「ん?」
お礼を言ってから環樺が振り返る。でも、いつもならもっと笑顔で嬉しそうにしているのに、今日はそうではなかった。
どうしたのかと思って見守ると、一瞬口ごもってから顔を上げて勢いよく言葉を続けた。
「誕生日から毎日髪乾かしてくれてるね!?」
「あれ、そうだったっけ?」
誕生日の日から思い返してみると、次の日はもちろん乾かしてあげた。その次の日も......うん、乾かしてあげた。その次の日も、乾かしてあげてるかも。
「......そうかも?」
昨日も乾かしてあげてるし、環樺の言う通りあれから毎日髪を乾かし合ってたみたいだ。
せっかく良いヘアブラシをプレゼントしてもらったから環樺にも使ってあげたいとは思ったけど、毎日になってしまっていたのは無意識だ。
「環樺、私に髪を乾かしてもらうの嫌だった?」
「そ、そんなことない! お姉に髪を乾かしてもらえるのは嬉しいけど。でも、このまま毎日続いていったら人としてダメになっていっちゃう感覚がぁぁ......」
頭を抱えて苦しむように呻く環樺。
「別に良くない?」
「わたしがお姉に髪を乾かしてもらわないと生きられない身体になったらお姉も困るでしょ!?」
「全然困らないけど」
「ぐっ......。それにこれじゃあわたしがしてもらいたいからプレゼントしたみたいになっちゃってるし!」
「まぁまぁ、それでもいいじゃん」
「うぅぅ......毎日してもらいたい気持ちと人間として自立はしていなきゃという気持ちがわたしの中で喧嘩してるぅぅ」
「でも嬉しいんでしょ?」
「嬉しいからこそ、こういうのは甘え過ぎにならないようにしなきゃなの!」
私としては毎日してあげたっていいんだけど、環樺が何か思うところがあるなら尊重してあげた方がいいか。
「それは一旦明日以降の私達に任せることにして、ご飯食べに行くよ」
「わたし食べてきたからお腹いっぱいだよ?」
「さっきの罰の続き。環樺は今日寝る時間まで私から離れられませーん」
「えぇ~しょうがないなぁ~」
割といつも通りではあるんだけど。
言葉とは裏腹に、ニヤニヤしながら乗り気みたいなのでそれ以上のやり取りは起こらず、部屋を出てリビングへ。
今日は自分の食べる物だけを準備すればいいので、適当に目玉焼きにウインナー、それと最近ハマっている玉ねぎサラダをお皿に盛って、朝ご飯のテンプレのようなメニューを完成させて席に着く。
パパッと手際良くここまで約十分。
「いただきます」
「はい、どーぞ」
まるで自分が作った物かのように私のいただきますに対して環樺が応える。
目玉焼きの黄身を割ると、トローっと白身の上を侵略していく。
目玉焼きはもっぱら半熟派だ。今日は醤油をかけているけど、気分次第で塩コショウだったりめんつゆだったりいろんな物をかけたりする。
皆、何か一つにこだわってこれ以外は認めないみたいに言う人が多いけど、こういうのは沢山選択肢を持った方が幸せだと思う。
こだわるというのは良いところもあるけど、逆を返せば自身の可能性を制限するということだ。
黄身の広がった目玉焼きを一口サイズに切り分けて口に運ぶ。うん、いつ食べても絶対に美味しい上に簡単なすごい料理だ。
でも、今日はいつもの食卓と違うところもあった。
それは何かというと——
「んふふ~」
チラッと目線を上げると、そこには両肘をテーブルについて両手であごを支えながらニコニコと楽しそうな環樺が居る。
今日は私の正面の席に座って私が食べる様子をじっと見ていた。
「流石にそんなにじっと見られると食べづらいんだけど」
「ええ~、だってお姉が近くに居て欲しいって言ったんじゃ~ん」
「そうだけどさあ」
「わたしはあんなこと言っちゃって反省してるからこうやってお姉の言うことをちゃんと聞いてるんだもーん」
今日はこの後寝る時間まで、調子に乗ってお手洗いやお風呂にまでついてこようとする環樺とその都度こういったやり取りをすることになってしまったのだった。




