第29話 次はあなたが生徒です
交際三十日目、火曜日。本当なら、今日で終わるはずだった。
あの日、莉奈から告白されて、俺がそれを受けて一か月。本来なら今日、莉奈から「全部罰ゲームでした」と言われる予定だった。
そして俺は、その前に莉奈を惚れさせて、自分の方が一枚上だったと笑うつもりだった。結果として、その予定はどちらも外れた。
朝、いつもの待ち合わせ場所へ向かっていると、前方から声が飛んできた。
「悠斗!」
顔を上げると、莉奈がこちらへ走ってくる。俺の前まで来ると少し息を整え、いつものように笑った。
「おはよう」
「おはよう」
挨拶を返した直後、莉奈がいきなり俺の腕へ自分の腕を絡めてきた。
「……何してるの?」
「何って?」
「腕」
「組んでる」
それは見れば分かる。
「朝から?」
「彼氏だから」
返事が早い。
「前こんなことしてなかっただろ」
「前は偽物だったから」
少し胸に刺さる言葉だったが、莉奈はすぐに俺を見上げた。
「今は本物でしょ?」
「……まあ」
「じゃあいいじゃん」
さらに密着してくる。日曜日に本当の恋人になってから、莉奈は明らかに変わった。
月曜日の朝から手をつなぐまでの時間が短くなり、帰りには自分から肩を寄せてきた。LINEも増えた。
昨夜なんて、十一時を過ぎても『まだ寝ない?』と送ってきたくらいだ。
そして今日は腕まで組んでいる。
「莉奈」
「何?」
「日曜から距離感変わりすぎじゃない?」
「そう?」
「そうだよ」
莉奈は少しだけ頬を膨らませた。
「だって、今まで結構我慢してたんだから」
「何を?」
「いろいろ」
「いろいろって?」
「秘密」
楽しそうに笑っている。その笑顔を見る限り悪いことではないはずなのに、なぜか俺だけ少し危機を感じていた。
学校が近づく。いつもなら、この辺りで手を離していた。
今日は莉奈が離れない。
「莉奈」
「何?」
「学校」
「うん」
「腕」
「うん」
「離さないの?」
莉奈は少し考えたあと、首を傾げた。
「もういいかなって」
「何が?」
「みんな知ってるし」
確かに付き合っていること自体は、もう隠していない。それでもこれはかなり目立つ。
「恥ずかしくない?」
「悠斗は?」
「……ちょっと」
「じゃあ慣れて」
「俺が?」
「うん」
簡単に言われた。結局、腕を組んだまま校門を通り、そのまま教室まで来てしまった。
入った瞬間、真帆が気づく。
「え?」
由依も見る。陸も、蓮も、揃って俺たちの腕へ視線を落とした。
「おはよ」
莉奈だけは普通だった。真帆がゆっくり口を開く。
「莉奈」
「何?」
「日曜、何があったの?」
莉奈が笑う。
「いろいろ」
またそれだ。
「それで急に?」
「うん」
真帆が今度は俺を見る。
「高瀬、大丈夫?」
「何が?」
「顔」
また顔。
「普通」
「全然普通じゃない」
陸まで笑い出す。
「完全に立場逆転してない?」
否定できない。蓮も少し呆れたように笑った。
「高瀬、頑張れ」
「何を?」
「いろいろ」
みんなそればかりだった。莉奈は自分の席へ向かう直前、俺の袖を軽く引いた。
「悠斗」
「何?」
「昼休み、一緒に食べよ」
「いつも一緒だろ」
「今日は隣ね」
席まで指定された。
「……分かった」
莉奈が満足そうに笑って離れていく。その背中を見ながら、真帆が小さく言った。
「完全に解放されたね」
由依も頷く。
「今まで我慢してた分が全部出てる感じ」
俺は二人を見る。
「何か知ってる?」
真帆が笑った。
「知らない」
絶対に何か知っている。昼休み。
宣言通り、莉奈は俺の隣へ椅子を持ってきた。ただ隣に座るだけならいい。
それなのに、肩が触れるくらいまで寄ってくる。
「莉奈」
「何?」
「狭くない?」
「狭くない」
「俺が狭い」
「じゃあそっち行けば?」
「机あるだろ」
「じゃあ仕方ないね」
絶対わざとだ。陸が弁当を食べながら笑っている。
「高瀬、前より喋るようになったのに、最近また静かだな」
「誰のせいだと思ってる」
「莉奈」
「正解」
莉奈が俺を見る。
「嫌?」
その聞き方はずるい。
「嫌じゃない」
「じゃあいいじゃん」
全部これで押し切られる。真帆が莉奈を見る。
「前まで、高瀬が女子に話しかけられるだけで気にしてた人とは思えないね」
「今も気にするよ」
「じゃあ何が変わったの?」
莉奈は迷いなく答えた。
「私が彼女だから」
自信がすごい。日曜までの莉奈なら、こんな言い方はしなかった。
罪悪感も、一か月という期限も全部なくなった。その結果、元々持っていたものが全部出てきたらしい。
俺への好意まで。全部。
放課後。二人で学校を出ると、莉奈がすぐに手を出してきた。
「悠斗」
「はい」
もうそこは慣れてきた。握った瞬間、莉奈が指を絡めてくる。
これはまだ慣れていない。
「待て」
「何?」
「普通につなげばいいだろ」
「こっちがいい」
「何で?」
「彼女っぽいから」
「十分彼女だよ」
「もっと」
何を目指しているのか分からない。駅までの途中で、莉奈がさらに肩を寄せてきた。
「ねえ」
「何?」
「今日で三十日だよ」
やっぱり覚えていた。
「うん」
「本当なら今日で終わりだった」
「そうだな」
莉奈は少し黙り、絡めた指に力を入れた。
「終わらなくてよかった」
「うん」
そこは俺も同じだった。
「俺も」
答えると、莉奈が嬉しそうに笑った。
「じゃあ今日、家行っていい?」
「うち?」
「うん」
「いいけど」
返事をしてから、嫌な予感がした。
「何するの?」
「何でそんな警戒するの?」
「最近の莉奈見てたらするだろ」
「失礼」
莉奈が頬を膨らませる。
「凛ちゃんにも会いたいし、彩花さんにもこの前の話したいし」
「それならいいけど」
「それなら?」
莉奈が笑う。
「何想像したの?」
「何も」
「顔赤いよ」
「うるさい」
完全に遊ばれている。高瀬家へ着く。
玄関を開けると、いつものように声をかけた。
「ただいま」
「お邪魔します」
すぐに凛がリビングから顔を出す。
「莉奈さん!」
嬉しそうだった。日曜に怒っていたのが嘘みたいだ。
もちろん全部なかったことになったわけではないが、凛なりに区切りをつけてくれたのだと思う。
「今日来るって聞いてないです」
「今決まった」
「お兄ちゃんが誘ったの?」
「私」
莉奈が答える。凛が俺を見る。
「へえ」
「何その顔」
「別に」
絶対別にではない。リビングへ入ると彩花姉もいた。
「莉奈ちゃん、いらっしゃい」
「こんにちは」
「今日三十日目だよね?」
やっぱり覚えている。
「はい」
莉奈が笑う。
「本当なら最終日でした」
彩花姉は一瞬だけ表情を変えたが、すぐに笑った。
「じゃあ今日は記念日?」
「何の?」
俺が聞く。
「嘘の交際が終わるはずだったのに終わらなかった記念日」
「長い」
「じゃあ本物三日目記念」
「毎日記念日作るなよ」
凛が笑う。
「莉奈さんならやりそう」
「いいかも」
莉奈が本気で考え始める。やめてほしい。
俺がソファへ座ると、莉奈も隣へ来た。いつもなら少し距離を空ける。
今日はぴったりだった。肩が触れる。
彩花姉がすぐ気づく。
「……近くない?」
「そうですか?」
莉奈は普通だ。
「近いよ」
俺が言う。莉奈がこちらを見る。
「嫌?」
またそれだ。
「嫌じゃないけど」
「じゃあいいじゃん」
彩花姉が笑い出した。
「悠斗、完全に負けてる」
「何に」
「全部」
そのとき玄関が開いた。
「お邪魔しまーす」
嫌な声がする。拓真だった。
「何で来た」
リビングへ入るなり聞く。
「凛ちゃんに会いに」
「帰れ」
「お前、本物の彼女できた途端冷たくない?」
元々だ。拓真は莉奈を見る。
「水瀬もいるじゃん」
「いるよ」
莉奈が普通に答える。拓真は今度は凛へ向かった。
「凛ちゃん」
「嫌です」
「まだ何も言ってない」
「映画なら行きません。ご飯も行きません。買い物も散歩も無理です」
「俺の選択肢全部消された」
「まだありますよ」
拓真の顔が明るくなる。
「何?」
「帰る」
「それ前も聞いた」
何も変わっていない。そこだけは少し安心した。
しばらくして母さんも帰ってきた。莉奈を見ると、もう驚きもしない。
「あら、いらっしゃい」
「お邪魔してます」
「夕飯食べていく?」
「はい」
返事が早い。完全に慣れている。
母さんも笑った。
「じゃあ手伝って」
「はい」
莉奈が立ち上がる直前、俺の肩へ軽く手を置いた。
「待ってて」
「どこにも行かないけど」
「一応」
そのままキッチンへ向かう。俺は莉奈の背中を見ていた。
拓真が隣へ座る。
「なあ」
「何?」
「水瀬、めちゃくちゃ変わってない?」
「……だろ?」
拓真が笑う。
「お前が引くくらいだから相当だな」
「最近ちょっと距離が怖い」
「いいじゃん」
「よくない」
「なんで?」
俺はキッチンを見る。莉奈は母さんと何か話しながら笑っている。
「このまま行ったら、そのうち逃げ場なくなる気がする」
拓真が数秒黙った。それから呆れたように言う。
「贅沢すぎる悩みだろ」
「違う」
「好きな彼女が距離近いだけじゃん」
「お前には分からない」
「分かりたくても凛ちゃんが近づいてくれないんだよ!」
声が大きい。凛が振り返る。
「先輩、うるさいです」
「ごめんなさい」
弱い。夕食後。
莉奈が漫画を借りるため一緒に二階の俺の部屋に上がった。
「これ?」
「それ」
「凛ちゃんが面白いって言ってたやつ」
「持ってっていいよ」
「ありがと」
莉奈が本を取る。そのまま下へ戻ると思った。
でも、戻らない。俺を見る。
「何?」
「悠斗の部屋って、二人だと静かだね」
「下戻る?」
「まだいい」
何がまだなんだ。莉奈がベッドの端へ座る。
「悠斗も座れば?」
「何で?」
「立ってたら話しにくい」
理屈は分かる。少し離れて座る。
すると莉奈がこちらを見た。
「遠い」
「これくらい普通」
「朝は腕組んでたのに?」
「外と部屋は違うだろ」
「何が?」
全部違う。俺だけがおかしいのか。
莉奈が少し近づく。俺も少し逃げる。
また近づく。
「待って」
「何?」
「何で近づくの?」
「彼氏だから」
「それ万能じゃないから」
莉奈が笑う。
「悠斗、緊張してる?」
「してない」
「してる」
「してない」
「顔赤い」
「部屋暑いだけ」
かなり苦しい。莉奈がさらに少し近づき、俺はとうとうベッドの端まで追いやられた。
もう逃げ場がない。
「莉奈」
「何?」
「近い」
「知ってる」
「何する気?」
聞くと、莉奈が少し考えた。
「何してほしい?」
駄目だ。絶対に勝てない。
「下戻ろう」
立とうとした瞬間、莉奈が俺の袖をつかむ。
「逃げるの?」
「逃げてない」
「逃げてる」
完全に楽しんでいる。
「悠斗」
「何?」
「日曜日」
「うん」
「次は悠斗からって言ったよね」
確かに言った。キスのあと。
俺からでもいいかと聞いた。
「今日とは言ってない」
「私も今日とは言ってないよ」
「じゃあ何」
「思い出してもらっただけ」
絶対嘘だ。俺は本気で思った。
このままではまずい。何がまずいのか、自分でもよく分からない。
でも高校二年生の俺にはまだ早い何かへ、莉奈だけがどんどん進んでいる気がする。
「一回下行こう」
「なんで?」
「喉渇いた」
「私取ってくるよ」
「俺も行く」
「一人でいいよ」
逃げ道まで塞がれた。本当に。
俺の貞操が危ない気がする。そのときドアが開いた。
「お兄ちゃん――」
凛だった。その場で止まる。
俺と莉奈を見る。莉奈は俺の袖をつかんだまま。
俺はベッドの端まで追い込まれている。数秒の沈黙のあと、凛が静かにドアを閉めた。
「待て!」
慌てて立ち上がり、ドアを開ける。廊下には凛。
その後ろには彩花姉。さらに、美咲姉まで帰ってきていた。
最悪だ。
「違う」
俺が言う。彩花姉が笑う。
「何が?」
「何もしてない」
「誰も聞いてないけど」
莉奈も部屋から出てくる。全然慌てていない。
「莉奈ちゃん」
彩花姉が聞く。
「最近、悠斗にかなり積極的じゃない?」
「そうですか?」
「朝も腕組んでたって凛から聞いた」
情報が早すぎる。莉奈は少し考えたあと、素直に頷いた。
「今まで我慢してたので」
またそれだ。美咲姉が莉奈を見る。
「我慢?」
「はい。最初は嘘だったから、あんまり本気っぽいことしちゃ駄目だと思ってて」
俺も初めて詳しく聞く。莉奈は少し恥ずかしそうに続けた。
「途中からは好きになったけど、今度は本当のこと言ってないのが気になって」
それで日曜まで、自分からブレーキをかけていたらしい。
「今は?」
美咲姉が聞く。莉奈は俺を見る。
そして笑った。
「もう何も隠してないので」
怖い。美咲姉も少し笑う。
「なるほどね」
「美咲姉」
「何?」
「助けて」
三人とも止まった。彩花姉が首を傾げる。
「何から?」
俺は莉奈を見る。
「こいつ」
「悠斗?」
莉奈が不満そうな顔になる。
「こいつ最近、本当に距離おかしいから」
「彼女なんだから普通でしょ」
「普通じゃない」
「どこが?」
「全部」
彩花姉が吹き出す。凛まで笑っている。
「お兄ちゃん、本当にヘタレ」
「うるさい」
美咲姉だけは少し考えていた。そして莉奈を見る。
「莉奈ちゃん」
「はい?」
「悠斗のこと、本当に好き?」
莉奈は迷わなかった。
「はい。すごく好きです」
俺の方が恥ずかしい。美咲姉が頷く。
「じゃあ次はあなたの番ね」
莉奈が首を傾げた。
「私?」
「うん」
彩花姉が意味を理解したらしく、楽しそうに笑う。
「なるほど」
凛まで笑った。嫌な予感しかしない。
「何?」
俺が聞く。誰も答えない。
美咲姉はそのまま莉奈を見る。
「今まで私たちは、悠斗にいろいろ教えてきたの」
「知ってます」
「女の子との距離とか」
彩花姉が続ける。
「服とか、デートとか」
凛も続く。
「LINEとか、今の女子が何考えるかとか」
全部。俺が今まで教わってきたことだった。
美咲姉が少し笑う。
「でも、一つだけ全然教えられてなかったみたい」
「何を?」
莉奈が聞く。三人の視線が俺へ向く。
美咲姉が答えた。
「本気で好きな女の子を前にしたとき、ヘタレない方法」
「待て」
嫌な方向へ進んでいる。彩花姉が莉奈の肩へ手を置く。
「だから次は逆」
「逆?」
凛が答える。
「莉奈さんが生徒」
「何の?」
美咲姉が俺を見る。ものすごく楽しそうだった。
「このヘタレを、その気にさせる授業」
「待て」
本当に待ってほしい。莉奈の目が変わる。
さっきまでより明らかに興味を持っている。
「それ」
一歩、三姉妹へ近づく。
「受けたいです」
「受けなくていい!」
誰も聞いていない。彩花姉が莉奈をリビングへ連れていく。
「まず悠斗の弱点から教えるね」
「彩花姉!」
「いっぱいあるよ」
「やめろ!」
凛も後ろからついていく。
「お兄ちゃん、耳弱いですよ」
「何で知ってるんだよ!」
「小さいころ触ったら逃げてたから」
「そういう意味じゃない!」
美咲姉まで笑いながらついていく。
「莉奈ちゃん、焦らなくていいからね」
「はい」
「でも待ってるだけだと、悠斗はずっと待つから」
「分かります」
「分からなくていい!」
俺だけ廊下に残された。リビングから、四人の笑い声が聞こえる。
少しして父さんが帰ってきた。
「何してんの?」
「分からない」
「莉奈ちゃん来てる?」
「いる」
父さんがリビングへ行こうとする。俺は腕をつかんだ。
「父さん」
「何?」
「今日だけは味方して」
「何があった?」
俺はリビングを見る。莉奈と三姉妹が楽しそうに話している。
完全に、新しい同盟ができていた。
「俺、貞操の危機かもしれない」
真真剣に言う。父さんは数秒俺を見たあと、肩を叩いた。
「頑張れ」
「助けろよ!」
父さんまでリビングへ行った。誰も味方がいない。
一か月前。俺は思った。
そっちがその気なら、一か月でその唇を奪ってみせる。それがどうしてこうなった。
彼女の唇を奪うはずだった俺は、先に唇を奪われた。本物の恋人になった途端、その彼女の愛情は暴走し始め、とうとう三姉妹まで彼女の味方についた。
リビングから莉奈の声がする。
「悠斗!」
「何?」
「ちょっと来て」
ものすごく嫌な予感がする。
「何の話?」
聞く。莉奈が笑った。
「授業の実践」
「行かない!」
家中に笑い声が響いた。一か月で彼女の唇を奪う。
その勝負は、たぶん俺の完敗だった。でも悪くない。
むしろ、これから先も何度だって負けてもいいと思う。ただし。
三姉妹。お前たちは絶対に、余計なことを教えるな。
――完。




