【閉ざされた楽屋】 拍手が消えたあと
『閉ざされた楽屋』
第一章:プロローグ
月虹座の劇場は、終演後のほうが本性を見せる。
客席のざわめきが消え、拍手の余韻が薄れたころ、舞台袖はまるで別の場所のように冷えていた。
照明は半分だけ落とされ、床にはケーブルと台車、小道具の箱がまだ残っている。
華やかな舞台の裏側には、いつも少しだけ無様な現実がある。
それを一番よく知っているのは、舞台の上に立つ者ではなく、裏で段取りを握る者だ。
「霧島さん、明日の搬出表、ここで確認を……」
そう言ったのは、制作担当の真柴梓だった。
手にしているのは分厚いファイル。
地味な色のブラウスに、黒いカーディガン。目立たない。見過ごされやすい。
だが、月虹座の中で彼女ほど現場を知っている人間もいない。
霧島銀次は、そのファイルに目もくれずに笑った。
「あとでいい」
「でも、押さえておかないと明日困ります」
「困るのはお前だろ」
「……劇団全体の問題です」
銀次は鼻で笑った。
四十代半ばの舞台俳優にしては声も態度も大きく、劇場の空気を自分のものだと思っている男だった。
人前では愛想がいい。だが、裏方には容赦がない。
そういう人間は、舞台の外でも同じだ。
「真柴」
「はい」
「俺の楽屋に来い。細かいことはそこでやる」
真柴はわずかに視線を伏せた。
「承知しました」
そのやりとりを見て、銀次の妹で衣装担当の霧島透子が小さくため息をついた。
「兄さん、もう少し言い方あるでしょう」
「何がだ」
「梓さんに、いつもそういう言い方するの」
「仕事の話をしてるだけだ」
「仕事の話に見えないから言ってるの」
透子の声は低い。
兄妹の間には、長く積もったものがあるのだろう。
銀次はそれを気にする様子もなく、今度は演出助手の鳴海颯介へ目を向けた。
「舞台袖の照明、少し変えたな」
「はい。暗転後の導線を見直したんです」
「勝手なことをするな」
「勝手じゃありません。安全確認です」
「安全確認は俺がする」
鳴海は口を結んだ。
反論したいのは見えたが、相手が座長では飲み込むしかない。
若手女優の朝比奈未来は、その場の空気から少し離れたところで、視線を落としていた。
話しかけられたくない、というより、誰にも気づかれたくない顔だ。
「未来ちゃん」
透子が声をかけると、朝比奈は肩を揺らした。
「はい」
「今日は大丈夫?」
「……はい」
大丈夫、というには声が細すぎた。
だが、それ以上は誰も聞かない。
最後に現れたのが、舞台監督の篠原大悟だった。
大柄で、作業服のまま、少し息を切らしている。
「片付けはあと十分で終わります。霧島さん、袖の通路だけ、足元に気をつけてください」
「そんなに危ないか」
「少し、ケーブルが」
「だったら片付けておけ」
「……承知しました」
篠原は頭を下げるが、その目は一瞬だけ真柴へ向いた。
真柴は気づかないふりをした。
銀次はそのまま楽屋へ向かい、真柴を呼びつけた。
扉の向こうからは、かすかに声が漏れる。
「搬出表の件だ」
「はい」
「なんでこんなに面倒なんだ」
「前倒しで調整しているので」
「誰のための調整だ」
「劇団のためです」
「お前はいつもそうだな。堅い。融通が利かない」
真柴は何も返さない。
だが、その沈黙は服従というより、飲み込んだ怒りに近かった。
やがて、真柴が楽屋を出る。
表情は変わらない。
ただ、書類を持つ手だけが少し強かった。
「終わりました」
銀次はそれを聞いて、舞台袖のほうへ歩き出した。
「確認だけだ。すぐ済む」
「今ですか」
「今だ」
通路は暗転の準備で照明が落ちている。
片付け途中の床に、ケーブルの束が数本残っていた。
一見すれば、それだけのことだ。
だが、歩く者にとっては十分に嫌な導線だった。
「霧島さん」
篠原が慌てて声をかける。
「足元、気をつけてください」
「わかってる」
「念のため、こちらを先に……」
「うるさい」
銀次は苛立ちを隠さなかった。
彼は急ぎ足で舞台袖へ向かう。
その少し前を、真柴が静かに歩いていた。
「ここです」
真柴の声は低い。
「何がだ」
「確認する場所です」
彼女は足元を一度だけ見た。
そのあと、銀次が続く。
次の瞬間、銀次の足が滑った。
大きな身体が不自然に傾く。
片手が空を掴み、もう片方がケーブルの束を払う。
だが、払った先にはさらに不安定な床があった。
「霧島さん!」
鳴海が叫んだ。
透子が息をのむ。
篠原が駆け寄る。
だが、もう遅い。
銀次は舞台袖の段差で身体を打ち、そのまま床へ崩れた。
音は鈍く、短かった。
舞台の事故にしては静かすぎるほどに。
真柴梓は、数歩離れたところで立ち尽くしていた。
驚いている。
確かに驚いている。
だが、その驚きが本物かどうかは、誰にもわからない。
銀次は動かなかった。
そのまま、劇場の夜は少しだけ深くなった。
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翌朝、警察本部の会議室では、砧志朗が上司に呼ばれていた。
「この件、正式案件です」
管理官の声は硬かった。
「劇団側は事故で押し切りたい様子ですが、現場の状況がそれを許さない」
「事故に見せるための何かがあった、ということですか」
「そう考えている。お前が窓口になれ」
砧は資料を見た。
舞台袖の写真、転倒位置、関係者の証言。
どれも決め手には欠けるが、揃って見ると妙に噛み合わない。
「資料に記載のある外部協力とは?」
「七五三田優奈だ」
砧は顔を上げた。
「また、あの人ですか」
「そうだ。正式に依頼する。報酬は出す。かなり高い」
「……どのくらいですか」
「お前が驚くくらいだ。詳しくは知らなくていい」
その言い方に、砧は少しだけ息をついた。
上が本気で金を出すということは、それだけ放っておけない何かがあるということだ。
「わかりました。七五三田に話します」
会議室を出た砧は、すぐに彼女へ連絡を入れた。
通話がつながるまでの間、頭の中では何度も事件の資料を読み直していた。
滑った足。
不自然な通路。
静かすぎた真柴の顔。
これは、ただの事故ではないらしい。
『何』
いつも通り短い声だった。
「おはよう。面倒な事件だ」
『知ってるわよ。あなたの声でわかる』
「今回は私的ではなく警察からの正式依頼だ。」
『へえ』
「報酬も高い」
沈黙の間があった。
しかしそれだけで、砧には十分だった。
事件の概要を簡単に電話口で話し出す。
『劇場?』
「そうだ。舞台俳優の事故死ってことになってる」
『事故死、ね』
「たぶん違う」
『たぶん、じゃ弱いわね』
「現場を見ればわかるはずだ」
『わかった。高い報酬ってことなら行く』
「助かる」
『礼はいい。あとでちゃんと支払ってくれれば』
通話が切れる。
砧はスマートフォンを下ろし、無意識に拳を握った。
犯人がいるなら、きちんと暴きたい。
事故に見せかけたやり方なら、なおさらだ。
そう思う自分に、少しだけ熱が入っているのを感じる。
優奈に言わせれば、それは無駄に暑苦しいのだろう。
だが、こういう事件で黙っていられるほど冷めてはいなかった。
砧は資料を抱え直し、劇場へ向かう車に乗り込んだ。




