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七五三田優奈の観察録  作者: 有馬 茶


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【記録された死】第六章 日常は日々変わる

【記録された死】

第六章:後編

 関係者をもう一度集める場所として選ばれたのは、榊原修也の理事長室だった。

 死んだ男がいた部屋に、死の翌日にもう一度全員を座らせる。

 それだけで、空気は十分に重くなる。


 砧は扉の前で一度立ち止まり、優奈を見た。


「本当に、ここでやるのか」


「ええ」


「黒瀬が認めるとは思えないが」


「認めさせるのよ。自分からね」


 優奈は平然としていた。

 その冷たさが、砧にはむしろ頼もしい。


 部屋には、恒一、沙耶、牧野、天城、そして黒瀬里奈が揃っていた。

 皆、互いの顔を見ないようにしている。

 人はこういうとき、視線の置き場に困る。

 逃げ場がないからだ。


 優奈は机の前に立ち、関係者を順に見回した。


「さて。そろそろ整理しましょうか」


 誰も返事をしない。

 それで構わないとでも言うように、彼女は続けた。


「榊原修也さんは、心疾患で倒れたのではありません。少なくとも、自然死だけで説明できる死ではない」


 恒一が眉をひそめる。


「何が言いたいんだ」


「簡単です。あの部屋では、死ぬ前に“死んだように見せる準備”がされていた」


「準備?」


 沙耶が小さく息を呑む。


「ええ。薬。メモ。水。全部。あまりにも整いすぎていた」


 優奈は机の上に、現場写真を一枚ずつ並べた。

 砧がそれを補足する。


「服薬記録に、代筆の痕跡がありました。さらに、理事長が普段使っていたメモ帳と、現場のメモの筆跡が一部違う」


「それだけで殺人か?」


 恒一が苛立って言う。

 優奈は彼を見ずに答えた。


「それだけではありません。問題は、誰がそれを用意できたかです」


 彼女の視線が、ゆっくりと黒瀬へ向いた。


「黒瀬里奈さん。あなたです」


 部屋の空気が止まる。


 黒瀬は顔色を変えなかった。

 いや、変えないようにしていたのかもしれない。

 だが、その指先だけが、わずかに揃えられた。


「……どうして、私なんですか」


「理由は三つ。ひとつ、あなたは理事長の服薬管理に関わっていた。ふたつ、あなたの筆跡が記録の一部と一致した。みっつ、理事長があなたを脅していた」


 黒瀬の唇が、ごく小さく動く。


「脅し……?」


「あなたは、以前の職場で会計上の責任を押しつけられかけた。そこを修也さんは知っていた。だから、再び同じ立場に落とすぞと暗に言った」


「……」


「彼はそういう人間だったのでしょう。人を追い詰め、逃げ道を塞ぎ、最後に“助けてやる”と言う」


 沙耶が目を伏せた。

 恒一は唇を噛む。

 牧野は何か言いかけて、やめた。

 天城はただ静かに聞いている。


 優奈は続けた。


「でも、あなたは殺人の手口として毒を使ったわけではない。もっと地味で、もっと確実な方法だった」


「……何を言ってるんです」


「習慣です」


 優奈の声は静かだった。


「修也さんは毎晩、決まった順番で服薬していた。そこにあなたが介入した。飲む順番を変えたのか、記録を修正したのか、あるいは“飲んだように見える”状況を整えたのか。方法は一つではない。でも、結果は同じです」


「そんなの……証明できるんですか」


「できるわ。あなたのメモ帳、服薬簿、現場写真、そして出入り記録。全部、少しずつ噛み合っている」


 砧が資料を差し出す。

 黒瀬はそれを見た。

 自分の字に似せた記録。

 自分しか知らないはずの服薬の順番。

 整えたはずの部屋に残った小さな違和感。

 逃げ道は、もうない。


「黒瀬さん」


 砧が穏やかに言う。


「昨夜、理事長室を出たあと、あなたは本当にすぐに離れましたか」


「……」


「誰かが部屋に戻る前に、もう一度何かをしましたね」


 黒瀬は黙った。

 その沈黙は、もはや否定ではない。


 優奈は少しだけ目を細める。


「あなたは、殺意を持って部屋へ入ったんじゃない。最初は、ただ自分を守りたかっただけだった。けれど、修也さんはあなたの恐怖を利用した。だから、あなたは一線を越えた」


「……違う」


 初めて、黒瀬の声が揺れた。


「私は……あの人に、もう二度と壊されたくなかっただけです」


「それが、殺意の言い訳になると思う?」


「違う。でも……」


 黒瀬はそこで言葉を止めた。

 目を伏せ、長い息を吐く。


「……あの人は、私を助けるふりをして、ずっと首を絞めていたんです」


 それは、ようやく漏れた本音だった。

 部屋の誰も、それにすぐ返せなかった。


 優奈は淡々と続ける。


「つまり、あなたは修也さんが倒れるように仕向けた。直接の毒ではなく、持病と服薬の組み合わせを利用して」


「……」


「そして、現場を整えた。自分が疑われないように。けれど、整えたはずの痕跡が、逆にあなたへつながった」


 黒瀬はもう何も言わない。

 だが、目の奥に、諦めと怒りが同時に宿っている。


「……私がやりました」


 その一言は、ほとんど囁きだった。


「でも、殺そうとしたわけじゃない。あの人は勝手に……」


「未必の故意だ」


 砧が静かに言った。


 黒瀬は顔を上げる。

 砧の声は厳しいが、感情を押しつけてはいない。

 だからこそ、なおさら逃げられない。


「自分が何をしたか、わかってるはずだ」


 黒瀬は目を閉じた。

 そして、しばらくしてから、力なく肩を落とした。


「……はい」


 それ以上はもう、抵抗しなかった。


 恒一が荒く息を吐く。


「兄貴は、本当に……」


「黙って」


 優奈が遮る。


「あなたたちが何を思っていたかは、事件とは別の話よ」


 恒一は何か言い返しかけたが、やめた。

 沙耶は顔を伏せたまま、拳を握っている。

 牧野は天井を見ている。

 天城はただ、静かに書類へ目を落とした。


 優奈は最後に、黒瀬へ一歩だけ近づいた。


「あなたは頭がいい。でも、頭がいい人間ほど、自分の感情を“合理的”と勘違いしやすい」


「……」


「今回は、その勘違いで負けた」


 黒瀬は、答えなかった。

 ただ、少しだけ笑ったようにも見えた。

 苦笑ではない。敗北を認めた者の、乾いた顔だった。


 砧が警察官として手錠を用意し、黒瀬に近づく。

 彼女は抵抗しない。

 その静かな受け入れ方が、かえって重かった。


 部屋の外に出ると、朝の光が廊下に差し込んでいた。

 事件は終わった。

 だが、そこに残るのは勝利ではなく、ただ片づいたという実感だけだった。


 優奈は階段を降りながら、ふと砧に言う。


「あなた、さっき少しだけ遅かった」


「何が」


「黒瀬に聞くタイミング」


「……ああ」


「でも、あれでよかった。詰めすぎると、相手は黙る」


「褒めてるのか」


「半分だけ」


 砧は苦笑した。

 その顔を見て、優奈は少しだけ目を細める。


「まあ、今回はあなたにしては上出来だったわ」


「それはどうも」


「次もこの調子なら、もう少し報酬額を考えてもいい」


「結局そこか」


「当然でしょ」


 そのやり取りは、事件の重さを少しだけ軽くした。

 それでも、黒瀬里奈の静かな告白は、しばらく耳の奥に残り続けるだろう。

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