【記録された死】第五章 習慣の罠
【記録された死】
第五章:中編②
黒瀬里奈の過去を追うのは、想像していたより骨が折れた。
財団の内部資料は、表向き整っている。
だが、整っているものほど、少し裏へ回ると不自然な継ぎ目がある。
「この人、昔、別の法人でも働いてた」
砧は資料をめくりながら言った。
「どこ」
「福祉系の公益団体。五年前に退職してる」
「退職理由は?」
「自己都合。だけど、内部では会計の責任問題があったらしい」
優奈はその一文を見て、少し目を細めた。
「責任問題、ね」
「何か知ってるのか」
「こういうのは、大抵“責任を押しつけられた”って言い換えると見えやすくなるのよ」
「言い換えるだけで?」
「人間の仕事なんて、たいてい言い換えで出来てる」
砧は苦笑して、次の書類を出した。
天城俊也が裏で集めた帳簿コピー。
そこには、修也が財団の補助金の一部を、別の名目へ振り替えていた痕跡があった。
「黒瀬が経理担当だったから、数字の不正には気づいてたはずだ」
「ええ。でも、気づいた人間が必ず止められるとは限らない」
「修也が脅した?」
「たぶん。もっと正確に言うなら、“お前も共犯だろう”と匂わせた」
優奈は椅子にもたれ、指先で机を軽く叩いた。
「つまり黒瀬は、過去に一度、似たような立場で潰されかけた。今度も同じことをされるのが怖かった」
「……それが動機か」
「少なくとも、十分すぎる」
だが、優奈はそこで終わらなかった。
彼女はむしろ、その“十分すぎる”という感覚に警戒していた。
「でも、まだ足りない」
「何がだ」
「犯人としての形が、きれいすぎる」
「きれい?」
「ええ。黒瀬里奈がやりました、で終わるなら簡単すぎる。こういう事件は、簡単に見えるほど一枚裏がある」
砧はその言葉を聞きながら、現場写真を並べていく。
薬ケース。
グラス。
メモ。
筆跡。
出入り記録。
さらに、秘書の持ってきた服薬簿。
「見てくれ」
砧はメモの一部を指した。
「この日だけ、夜の記録が二つある」
「二つ?」
「一つは理事長の筆跡。もう一つは、少し違う」
優奈は近づいて、紙をじっと見た。
確かに、同じように見せているが、書き出しの癖が違う。
特に“夜”という文字のはね方。
それが微妙に異なる。
「この二つ、同じ人が書いたように見える?」
「……見えない」
「でしょ」
「つまり、代筆か」
「代筆、というよりは“修正”ね」
優奈は椅子から立ち上がり、紙の横に現場写真を置いた。
薬ケースの位置。
メモの向き。
グラスの水位。
それを見比べながら、彼女は少しずつ話し始める。
「犯人は、理事長がいつも通り薬を飲むように見せたかった。でも、そのためには記録が必要だった」
「記録?」
「被害者が毎日薬を飲んでいたという証拠。つまり、服薬の習慣があったことを前提にしたい」
「それでメモを書き足した?」
「たぶんね。だけど、きれいに真似しようとして、逆に崩れた」
砧は息を呑んだ。
だが、まだ全貌は掴めない。
「じゃあ、黒瀬が修也を殺した方法は」
「そこが肝心。毒そのものじゃない」
「じゃあ何だ」
「習慣をずらしたのよ。ほんの少しだけ」
優奈は薬ケースの写真を指した。
「このケース、夜の薬が入る場所がある。でも、そこに“本来あるべきもの”がなかった可能性がある」
「薬を抜いた?」
「それだと単純すぎる。私は、もっと地味なやり方だと思う」
「地味?」
「例えば、理事長は夜に薬を飲んだあと、すぐ別の薬を飲むか、あるいは何かを一緒に口にする習慣があった。それを、ほんの少しだけ変えた」
砧は黙った。
現実的で、そして厄介な話だ。
派手な毒殺なら、調べればよい。
だが習慣の改変は、被害者自身が自分でやったように見える。
「そんなの、どうやって証明するんだ」
「証明する前に、再現する」
優奈はそう言って、砧に立ち上がるよう促した。
財団の休憩スペースに移り、二人は秘書の許可を得たうえで、保管されていた薬箱のレプリカと記録を使って状況を再現した。
もちろん、本物の薬ではない。
だが、どのタイミングで何を手に取るか、どの順番で机に置くかを確かめるには十分だった。
「理事長は、寝る前に必ずこの順番で飲んでいた」
秘書がそう言う。
「誰がその順番を知ってた」
「私と、黒瀬さんです」
その言葉に、優奈はすぐ反応した。
「どうして黒瀬さんが?」
「理事長が、夜の服薬管理を時々頼んでいたので……」
「時々、ね」
優奈はその一言を強く拾った。
“時々”という曖昧な言い方は、実は何かを隠すときによく使われる。
再現を始める。
薬を並べ、メモを置き、水を準備する。
被害者役の砧が、決められた順で手を動かす。
「このあと、すぐ机を離れる」
「違う」
優奈が止めた。
「普通の人間なら、飲んだあと数秒はその場にいる。残りの薬や水を確認する癖がある」
「そんなものか」
「ええ。だから、机から離れる前提で細工すると、動作の癖が崩れる」
優奈はそこで、机の端に残っていたわずかな水滴を指差した。
「これ。コップの縁に一度だけ手を添えた痕がある」
「拭けばわからないのに」
「拭いてないから残った。あるいは、拭く余裕がなかった」
砧は写真を見返す。
たしかに、グラスの位置がわずかにずれている。
ただ倒れた拍子ではない。
誰かが置き直した痕跡だ。
「黒瀬が触った?」
「可能性はある。でも、触っただけじゃ足りない。問題は、何を“見せたかったか”よ」
そのとき、外で小さな騒ぎが起きた。
沙耶が慌てて駆け込んでくる。
「すみません……」
「どうした」
「理事長室の前で、倒れていたメモを見つけて……」
「メモ?」
「はい。清掃の人が拾って、今こちらに」
沙耶が差し出した紙片には、短い走り書きがあった。
“夜の分、忘れずに”
それだけだった。
優奈はその紙を受け取る。
字は崩れている。だが、どこかで見たような癖があった。
「これ、誰の字?」
「理事長のもの、ではありません……たぶん」
「たぶん?」
「すみません。私には……」
砧はその紙片を見て、はっとした。
これは被害者のメモではない。
誰かが、被害者の服薬管理を“代行していた”と見せるためのものだ。
しかも、急いで書いたような雑さがある。
「優奈、これ……」
「ええ」
彼女は短くうなずいた。
「犯人は、理事長が自分で管理していたように装った。でも本当は、黒瀬里奈がかなり深く関わってる」
「確定か」
「半分はね」
優奈は立ち上がり、紙片を封筒に戻した。
「残りの半分は、黒瀬里奈が“なぜそこまでやったか”を突き止めること」
砧は、そこでようやく気づく。
単なる横領の隠蔽ではない。
ただの脅しに耐えられなかっただけでもない。
黒瀬には、もっと切実なものがある。
彼女は、修也に弱みを握られていただけではなく、
“再び同じように壊される”ことを恐れていたのだ。
その恐怖は、事件当夜の静けさに現れていたのかもしれない。
優奈は部屋の隅に視線を向ける。
そこには、事件当夜に使われたらしい予備の紙コップが積まれていた。
何気ない備品。
だが、彼女の目には違って見えている。
「砧」
「なんだ」
「この事件、被害者は薬を飲んだ“あと”に倒れたんじゃないかもしれない」
「どういうことだ」
「飲んだと見せるための流れがあって、その流れの途中で何かが起きた可能性がある」
砧は黙った。
「つまり、倒れた瞬間の見え方と、実際の順番が違う」
「……それで死因は?」
「そこは、あと一歩」
優奈は紙片を見つめたまま、淡々と言う。
「でも、もう黒瀬里奈を追い詰める材料は揃いつつある」
砧は深く息を吐いた。
ここまで来れば、次は対決だ。
論理で逃げ道を塞ぎ、証拠で足場を崩し、自白に追い込む。
そのとき、廊下の向こうで誰かの足音が止まった。
振り返ると、黒瀬里奈が立っていた。
彼女は、こちらを見ている。
だが、見ているのは優奈ではない。
その手にある紙片だった。
優奈は、わざと見せつけるように紙片を封筒へ戻した。
「……何か御用ですか」
黒瀬が言う。
声は相変わらず静かだった。
だが、ほんの少しだけ、先ほどまでとは違う。
追い詰められた人間の静けさだ。
「いえ」
優奈が答える。
「少し、整理しているだけ」
黒瀬は何も言わない。
そして、ゆっくりと踵を返した。
その背中を見送りながら、砧は確信する。
彼女はもう気づいている。
こちらが、何を掴んだのかを。
あとは、最後の一手だけだった。




