【記録された死】第三章 整然とした現場
【記録された死】
第三章:前編
榊原アート財団のビルは、外から見ると立派だった。
ガラス張りの外壁、磨かれた石材、無駄に広いエントランス。
資金がある組織ほど、見せ方に金をかけるものだと優奈は思った。
「こういう建物って、だいたい中身が空っぽなのよね」
車を降りるなり、優奈はそう言った。
「全部がそうとは言えないだろ」
「少なくとも、見た目に自信がある組織は、だいたい実務が雑」
砧は反論しようとして、やめた。
たぶん半分くらい当たっている。
二人が通されたのは、最上階の理事長室だった。
昨夜の現場はすでに鑑識が入り、必要最低限の片付けが済んでいる。
だが、事件の空気だけはまだ抜けきっていなかった。
部屋の中央には、榊原修也が倒れていた位置を示すテープが残っている。
机の上には、書類、グラス、薬のケース、そして飲みかけの水がある。
一見すると整然としているのに、全体がほんの少しずつ噛み合っていない。
「……変ね」
優奈は入室して数秒でそう言った。
「何がだ」
「人が死んだ部屋のわりに、空気が軽い。もっと言えば、死の痕跡が少ない」
「片付けたからじゃないのか」
「片付けたから、余計に不自然なのよ」
優奈は机の前に立ち、指先で空中をなぞるようにして見回した。
砧はその横で、鑑識が残した記録を確認する。
「現場保存は完全じゃないが、主要なものは押さえてある。
死因は今のところ、心疾患の急変と見られている」
「見られている、ね」
「違うと思うのか」
「違うかどうかはまだ言わない。でも、“突然死”にしては、準備された感じが強い」
優奈は机の上の薬ケースを見た。
小さなケースには、朝・昼・夜の仕切りがあり、それぞれに整然と薬が入っている。
几帳面な人間の持ち物にしては、あまりにきれいすぎる。
「この人、毎日同じ時間に薬を飲んでいた?」
「記録ではそうだ。秘書が管理してた」
「秘書は?」
「今は別室で待機」
「いいわ。あとで話す」
そのとき、扉の外から足音が近づき、数名の関係者が案内されてきた。
まず入ってきたのは榊原恒一だった。
兄の死に対する悲しみより、苛立ちの方が勝っているような顔をしている。
「何なんだよ、こんな朝から」
恒一は部屋を見るなり、眉をひそめた。
「亡くなった夜のことを聞くためです」
砧が答えると、恒一は鼻で笑った。
「聞いたところで、兄貴は勝手に死んだわけじゃないのか」
「勝手に死ぬ人間なんていませんよ」
「……そうかい」
恒一は不機嫌そうに壁へ寄った。
修也と似た顔だが、表情には一切の余裕がない。
次に入ってきたのは三浦沙耶だった。
昨夜の華やかなスカーフはなく、淡い色のブラウスに変わっている。
眠れていないのか、目元には疲れが出ていた。
「申し訳ありません。私は、昨夜は最後まで残っていました」
「誰と一緒に?」
砧が聞くと、沙耶は一瞬だけ言葉を詰まらせた。
「理事長と、黒瀬さん、それから少しだけ天城さんも」
「少しだけ?」
「監査の話で……」
優奈は、その言い方を聞いて何かを覚えたように視線を上げた。
沙耶は、必要以上のことを言わないようにしている。
いや、言えないのかもしれない。
続いて牧野誠が入ってきた。
彼は昨夜と同じく神経質な顔をしていたが、今朝はさらに落ち着きがない。
「昨日、理事長をお送りしたのは私です。ですが、部屋を出たあと、もう一度戻ったかどうかは……」
「曖昧なのか」
「申し訳ありません。時間が押していて……」
砧はメモを取りながら眉を寄せる。
“時間が押していた”という言い訳は、遅延の理由としてはよくある。
だが、事件の夜にそれが出てくると、とたんに怪しくなる。
最後に入ってきたのは天城俊也だった。
外部監査役の彼は、他の三人に比べて落ち着いていた。
感情を抑えているのではなく、最初から感情の波が小さいタイプに見える。
「朝早くから大変ですね」
「あなたも関係者の一人です」
砧が言うと、天城は軽くうなずいた。
「ええ。ですから、知っていることは話します」
優奈はその男を数秒見たあと、口を開いた。
「あなた、昨夜は監査資料を見ていた?」
「はい。理事長室で少し」
「少し、ね」
「何か?」
「いいえ。言い方が似てると思っただけ」
天城は表情を変えなかった。
だが、ほんの一瞬だけ視線が動いたのを、優奈は見逃さなかった。
最後に、黒瀬里奈が入ってきた。
他の関係者と同じように疲れているはずなのに、彼女だけは表情の崩れ方が違った。
眠れなかった人間の顔ではなく、眠らずに済ませた人間の顔に見える。
「おはようございます」
声は静かだった。
「座ってください」
砧の言葉に、黒瀬はわずかに頭を下げ、壁際の椅子に座った。
手は膝の上で揃っている。落ち着いているというより、必要以上に動かさないようにしている印象だった。
優奈はその様子を見て、心の中でひとつ数えた。
静か。
過剰に静か。
これは、何かを隠している者の沈黙に近い。
「昨夜、理事長から呼ばれたのはあなたですよね」
砧が聞く。
「はい」
「何のために?」
「書類の確認です」
「部屋にいたのはどのくらい」
「十分ほどです」
「そのあと、すぐ出た?」
「はい」
黒瀬は淡々と答えた。
だが、答えが滑らかすぎる。覚えていたことをそのまま並べているのではなく、何度も頭の中で練り直したような印象がある。
優奈は机の上の薬ケースに目を向けた。
「薬を飲む場面は見た?」
黒瀬は少しだけ間を置いた。
「……見ました」
「全部?」
「ええ」
「何の薬かも?」
「理事長の個人的な服薬ですので、詳しくは」
「いいえ。詳しくなくていい。見たかどうかだけ聞いてるの」
「……見ました」
その返答に、優奈は満足した様子も見せず、ただ視線を移した。
黒瀬の指先が、ほんの少しだけ揃えられる。
緊張の表れだ。だが、それ以上に、答えることそのものを嫌がっている感じがある。
砧は続けて、部屋の配置を確認した。
「理事長はこの机で薬を飲んだんですね」
「はい」
「水はこのグラス」
「ええ」
「飲んだあと、急に苦しみ出した?」
「そうです」
「誰かが手を出したようには見えなかった?」
黒瀬は首を振った。
「わかりません。ただ、理事長は……少し前から体調が悪そうでした」
「少し前、というのは?」
「詳しくは……」
「曖昧ですね」
「すみません」
黒瀬はそこで黙った。
その沈黙に、責められた者の反発はない。
ただ、もう余計なことは言わないという決意だけがあるようだった。
優奈はその様子を見ながら、机の上のものを一つずつ観察した。
薬ケース。水。書類。封筒。万年筆。
特に気になったのは、薬ケースの隣に置かれたメモだった。
「これ、誰が書いたの」
優奈が指さす。
砧が確認する。
メモには簡単な服薬の注意と、翌日の予定らしき短い記述がある。
「理事長の筆跡だな」
「本当に?」
「……少なくとも、そう記録されてる」
優奈はメモに顔を近づけた。
字は整っている。けれど、整い方が少し違う。
几帳面な人間が普段書く字より、やや硬い。
まるで、普段とは違う力の入れ方で書かれたような――。
「この人、夜中にメモを残す癖はあった?」
「あるらしい」
「誰が言ったの」
「秘書だ」
「ふうん」
優奈は短く息を吐いた。
癖があるというなら、なおさら違和感は手がかりになる。
人間の習慣は、雑にいじると必ずどこかに歪みが出る。
「で、昨夜ここにいた人間は、全員それぞれ何かを見たわけね」
「そういうことになります」
「でも、見たものは一致してない」
「……そうだな」
砧もその矛盾に気づき始めていた。
誰もが“その場にいた”と言う。
だが、誰も同じことを言わない。
そこで、警備担当の者が持ってきた記録表が渡された。
理事長室への出入り記録、エレベーターの使用時間、地下駐車場の発着時刻。
どれも一見、きちんと管理されているように見える。だが、細部にわずかな空白がある。
優奈はそれを見て、薄く笑った。
「なるほど。みんな、言えることは言うのに、言いたくないことだけ綺麗に抜けるのね」
「抜け?」
「ええ。たぶん、抜けてるのは記憶じゃない。都合よ」
砧はその言葉を、メモに書き留めた。
まだ断定はできない。だが、事件の輪郭は少しずつ見え始めている。
その後も聞き込みは続いた。
恒一は兄の死を悼むより、遺産や理事長職の行方に苛立っているように見えた。
沙耶は修也から何かを強く言われていたようだが、内容をはっきりとは口にしない。
牧野は夜間の移動記録にあやふやな部分がある。
天城は数字の矛盾を見ていたが、それをどこまで追っていたのか曖昧だ。
そして黒瀬は、質問には答えるが、必要以上のことを一切言わない。
部屋の中で、優奈だけが薬棚の前に立っていた。
彼女は薬を一つも触らず、ただ並び方を見ている。
「砧」
「なんだ」
「この薬、きれいに並びすぎてる」
「几帳面なんだろ」
「違う。几帳面な人間は、もっと崩れる。これは“崩れたくない人間”の並べ方よ」
砧はその意味を考える。
だが、まだ掴みきれない。
「それと、このメモ」
「さっきの?」
「ええ。書いた本人は、あとから見返すために残したのかもしれない。でも、見返すための情報にしては、ちょっとだけ不自然なところがある」
「どこだ」
「今は言わない」
「なんでだよ」
「言ったら、あなたが先に納得してしまうから」
砧は苦笑した。
相変わらず嫌な言い方をする。だが、優奈が何かをつかみかけているのは確かだった。
黒瀬がそのやり取りを、遠くから見ている。
表情は変わらない。
だが、その目だけが、ほんの少しだけ優奈の手元に向いた。
優奈はそれに気づいていた。
気づいたうえで、あえて何も言わない。
まだ釣り上げるには早い。
魚が自分から水面に出るまで、静かに待てばいい。
「とりあえず」
優奈は薬ケースの前から離れ、砧の方へ戻った。
「この事件、自然死では終わらないわね」
砧は小さくうなずいた。
それだけで十分だった。
部屋の外では、朝の光が少しずつ強くなっている。
しかし、この理事長室に残る空気は、昼の明るさとは無縁だった。
死んだ男の机の上に置かれた、たった一枚のメモ。
整いすぎた薬。
揃いすぎた証言。
そして、静かすぎる黒瀬里奈。
優奈は窓の外を一度だけ見て、心の中で事件の骨を組み立て始めていた。
砧はその横で、彼女の口から出てくる言葉を待つ。
読者に見える材料は、もう十分に揃い始めている。
あとは、どこから綻びが出るかだけだった。




