【記録された死】第四章 記録の綻び
【記録された死】
第四章:中編①
現場を離れたあと、砧は財団の応接室で関係者の話をもう一度整理していた。
優奈はというと、ソファの端に浅く腰を下ろしたまま、誰の顔も見ずに、窓の外ばかりを眺めている。
「で、何が見えた」
砧が尋ねると、優奈は視線を動かさないまま答えた。
「見えたものは少ない。でも、見えないものは多い」
「それは答えになってるのか」
「なってるわ。あなたはまだ“誰がやったか”を考えてる。でも私は、まず“何を隠しているか”を見る」
砧はメモをめくった。
榊原修也の死は、心疾患の急変として処理されかけている。
だが、財団の関係者たちの証言が噛み合わない以上、それだけで片づけるには早すぎた。
「榊原恒一は、兄貴と揉めてた。相続か、理事長職か、どっちかだろうな」
「両方かもしれないわね」
「三浦沙耶は、理事長に何か言われてた。怯えてる感じもあった」
「女が怯えてると、すぐ色恋にする人間が多いけど、そういう浅い話じゃなさそう」
「牧野誠は?」
「運転手として、出入り記録に穴がある。だけど、彼一人で現場をどうにかできる感じじゃない」
「天城俊也は、監査役として帳簿を見ていた」
「ええ。あの男は数字に強い。けれど、数字に強い人間は、逆に“何が数字にされていないか”に気づかないことがある」
優奈の言葉は、ひどく淡々としていた。
だが、たしかにそれぞれの人物像が少しずつ輪郭を持ち始めている。
砧はふと、黒瀬里奈のことを思い出した。
最初に見たときの静けさ。
質問に答えるたび、ほんのわずかに間があること。
あれは、単に慎重なだけではない。
「黒瀬里奈はどう見る」
優奈はそこで初めて砧を見た。
「静かすぎる」
「それだけか」
「それだけで十分よ。静かな人間は、二種類いる。何も知らない人間と、知りすぎてる人間」
「で、どっちだ」
「今はまだわからない。でも、どちらにしても面白い」
砧は、その“面白い”という表現に少し顔をしかめた。
優奈にとって事件は、あくまで解く対象だ。感情の重さで見ていない。
そこに割り切れなさを覚えることもあるが、彼女がいなければ、自分はまだ出口のない迷路をうろついていただろうとも思う。
そのとき、応接室の扉がノックされた。
入ってきたのは、財団の秘書だった。細身の女性で、目の下に疲れが濃く出ている。
「失礼します。理事長の服薬記録ですが……」
「見せて」
優奈が即座に言う。
秘書は少し驚いた顔をしたが、用意していた記録簿を差し出した。
優奈はそれを受け取り、ページをめくる。
「毎日同じ時間に、同じ種類の薬?」
「はい。理事長はきっちりしていましたので」
「きっちり、ね」
優奈はその言葉をなぞるように呟いた。
記録には、朝・昼・夜の服薬時間がきれいに並び、特に夜の記述が細かい。
だが、ある一行だけ、紙の上で少し浮いて見える。
「この日の記録、誰が書いたの」
「理事長ご自身です。ほかの日も、だいたい」
「だいたい、ということは例外がある」
「はい……忙しい日は、私が代わりにメモすることもありました」
砧はその会話を聞きながら、ふと気づく。
記録の筆跡が、完全に同じではないのだ。
「優奈」
「見つけた?」
「筆跡が混ざってる」
優奈はうなずいた。
「ええ。しかも、単に代筆しただけじゃない。誰かが“理事長の字に寄せて”書いてる」
「そんなこと、できるのか」
「真似はできる。でも、真似にはクセが出る」
彼女は記録簿を閉じた。
「この事件、毒殺みたいな派手なものじゃない」
「じゃあ何だ」
「習慣を使った殺し方」
砧は少し黙った。
習慣。
被害者が毎晩のようにやっていたこと。
毎日繰り返すものなら、そこに少しだけ手を入れれば、本人も気づかないまま結果だけが変わる。
「薬をすり替えた?」
「まだ断定はしない。でも、少なくとも“飲んだ”という事実そのものが重要ではない気がする」
「どういう意味だ」
「飲んだように見せることができれば、実際に何を飲んだかは曖昧にできる」
砧は、その一言で背筋がわずかに冷えるのを感じた。
現場にあったあの整い方。
薬ケースの並び。
グラス。
メモ。
それらが、単に几帳面な習慣の結果ではなく、“そう見せるため”のものだとしたら。
秘書が不安そうに立ち尽くしていると、応接室の外から沙耶の声が聞こえた。
呼び止めるより早く、彼女が顔を出す。
「すみません。黒瀬さんが、少し体調を崩したようで……」
その言葉に、優奈はぴたりと動きを止めた。
「黒瀬里奈が?」
「はい。顔色が悪くて……でも、休むほどではない、と」
優奈は、ほんの少しだけ口角を上げた。
笑ったように見えなくもないが、実際には違う。獲物が動いたときの、あの目だった。
「案内して」
沙耶は戸惑いながらも頷いた。
廊下の先、小さな休憩室で黒瀬は水を飲んでいた。
顔色はたしかに悪い。だが、倒れそうな弱さではなく、何かを押し殺したあとに残る疲労に近い。
「大丈夫ですか」
砧が声をかけると、黒瀬は薄く首を振った。
「少し……眠れていないだけです」
「昨夜のことがあったからですね」
「ええ」
優奈はその会話を聞きながら、黒瀬の手元に視線を落とした。
紙コップ。
薬の入っていたであろう小さなポーチ。
そして、机の端に置かれたメモ帳。
「それ、見せて」
「え?」
「メモ帳」
黒瀬は一瞬だけ迷ったが、すぐに差し出した。
優奈はそれを受け取り、ぱらぱらとめくる。
「几帳面ね」
「仕事ですから」
「仕事の割に、字が揺れてるページがある」
黒瀬の目がわずかに動いた。
「……疲れていたので」
「そう」
優奈はそれ以上追及しない。
だが、砧はその“揺れ”のページに何かがあるのだと察した。
ページの端には、服薬時間らしき数字と、短い買い物メモ。
よくある手帳の使い方に見える。だが、先ほどの記録簿と照らすと、いくつかの時刻が合わない。
「黒瀬さん」
砧が穏やかに聞く。
「昨夜、理事長の部屋を出たあと、誰かに会いましたか」
「いいえ」
「本当に?」
「……覚えていません」
その答えに、部屋の空気が少しだけ変わった。
覚えていない。
つまり、覚えていないと言えば済む程度のことが起きていたのか、あるいは覚えたくないことがあったのか。
優奈はメモ帳を閉じ、黒瀬に返した。
「いいわ。今はそれで」
「……何がですか」
「あなたが、どれだけ丁寧に隠しているか、よ」
黒瀬は返事をしなかった。
その沈黙を、優奈は肯定に近いものとして受け取ったようだった。
応接室に戻る途中、砧は低い声で尋ねる。
「黒瀬が怪しいのか」
「怪しい、というより、隠し方が下手」
「下手?」
「ええ。隠す人間は、もっと平然としてる。あの人は“隠してる自分”を気にしすぎてる」
「それって、つまり……」
「事件の中心にいる可能性は高い。少なくとも、被害者と強い関係があったのは間違いないわ」
砧は口を閉じた。
まだ断定ではない。だが、優奈の言葉には妙な説得力がある。
見えていないものを、彼女は見えているふりではなく、本当に組み立てているからだ。
その夜、もう一度記録と現場写真を照らし合わせた優奈は、机の端に置かれた薬ケースを指先で示した。
「これ、ひとつだけ動いてる」
「どれだ」
「夜の分」
「……本当にわかるのか」
「わかるわよ。綺麗に並べてあるものほど、少し動いただけで気づく」
砧は写真を見直す。
たしかに、夜の区画だけ微妙に位置が違うように見えた。
それがただの撮影角度なのか、それとも意図的に手が触れた結果なのか。
今はまだ、そこまでは言えない。
だが、ひとつだけはっきりしている。
この事件は、たった一度の衝動で起きたものではない。
もっと前から、誰かが少しずつ準備していた。
習慣を読み、弱みを知り、ほんの小さな改変を積み重ねる。
そうして作られた死なら、見た目ほど単純ではない。
優奈は窓の外を見たまま、静かに言った。
「次は、黒瀬里奈の過去を洗うわ」
「どうしてだ」
「理由がある人間ほど、今は黙るのよ」
砧は、その横顔を見た。
彼女はもう、犯人の目星をつけ始めている。
まだ名前ではない。
でも、輪郭は見えた。
事件は、たしかに前へ進み始めていた。




