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七五三田優奈の観察録  作者: 有馬 茶


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18/22

【足跡のない資料室】 なぜ動かしたか

 区民ホールの資料室は、建物の奥にひっそりとあった。

 蛍光灯の白い光は薄く、棚には古いファイルと箱がぎっしり並んでいる。

 紙の匂いがこびりついた、長く使われている建物特有の空気だった。


「ここか」


 砧が言うと、現場担当の刑事が頷いた。


「はい。望月 浩司は、この机の前で倒れました。棚の上の資料を取ろうとして、体勢を崩したらしいです」


「らしい、か」


「目撃者の証言ではそうです」


 優奈は部屋を一周見回した。

 机、棚、踏み台、回覧箱、押印済み控え。

 どれも一見、普通だ。

 だが、普通のはずのものが、少しずつ妙に見える。


「ねえ」


 優奈が言った。


「この部屋、事故にしては片付きすぎてるわ」


「片づいてるか?」


「ええ。倒れた人間がいる部屋のわりに、乱れ方が少ない」


 砧は床を見た。

 棚の下には書類が少し散っているが、全体はそこまで崩れていない。

 事故なら、もっと何かがぶつかって、もっと雑になるはずだ。


 そこへ、関係者の聞き取りが始まった。

 最初に入ってきたのは伊勢崎拓真だった。

 再開発会社の担当で、望月と最も口論が多かった男だ。


「俺は何度も言ってましたよ。あの人、現場を舐めてるって」


「舐めてる、とは」


 砧が聞く。


「書類だけ見て、現実を見ない。ああいう人間が一番危ない」


「殺すほどか」


「……そこまでは言ってません」


 伊勢崎は少しだけ目を逸らした。

 完全には否定しない。

 それがかえって怪しい。


 続いて城戸美咲が入ってくる。

 望月の元部下だった女だ。

 目元は強いが、どこか疲れた顔をしている。


「望月さんのことは、正直、好きじゃありませんでした」


「率直だな」


「隠しても意味ないですから」


「理由は」


「私のとき、あの人は最後まで責任を押しつけようとしたんです」


 美咲はそこまで言って、口を閉じた。

 砧はその沈黙を見逃さない。

 相当な恨みがあるのは明らかだ。


 松永千尋は、その次だった。

 きっちりした服装で、言葉も整っている。

 だが、目はずっと周囲を計算している。


「望月さんとは、説明会前に何度か話していました」


「何をだ」


「再開発についてです。議会側として、無理はしてほしくなかった」


「無理をしていたのは向こうか」


「……ええ、まあ」


 松永は曖昧に笑った。

 何かを知っている顔だが、全部は言わない。


 早乙女真は、最後まで無口だった。

 警備員として、資料室や通用口の鍵を扱う男だ。


「当夜の施錠は、俺がやりました」


「資料室もか」


「ええ」


「誰が開けた」


「……由佳さんです。会計書類の確認で」


 その一言で、砧はメモを取った。

 やはり、桐谷由佳が鍵と書類の両方に触れられる立場にいた。


 そして、最後に入ってきたのが桐谷由佳だった。

 相変わらず静かで、無駄に動かない。

 座っているだけで、空気の温度が少し下がるような女だった。


「桐谷さん」


「はい」


「望月さんと最後に話したのは」


「資料の確認です」


「資料室に呼んだのも、あなたか」


「……ええ」


「どういう用件だった」


「押印前の控えを見ていただくためです」


 声は平坦だ。

 感情がないというより、感情を見せる必要がないと考えているような返事だった。


 優奈はその様子を見ながら、机の上の踏み台を指した。


「この踏み台、元からこの位置?」


「……いえ。少し動かしたと思います」


「誰が?」


「わかりません」


「わからない?」


「はい。資料を取るために、どなたかが……」


 由佳はそこで言葉を切った。

 その“どなたか”という言い方に、少しだけ逃げがある。

 だが、それだけではまだ犯人にはならない。


 砧は室内の棚を見上げた。

 上段のファイルは、ほとんど未整理だ。

 中段にだけ、使う頻度の高い資料が固めてある。

 望月がそこへ行く理由はある。

 だが、それを誰が作ったかはまだ見えない。


「望月さんは、何を探してたんです」


「再開発関連の最終確認書類です」


「誰が触れた」


「……私です」


「その書類、今あるか」


「あります」


 由佳が差し出した書類を、砧が受け取る。

 押印済みの控え。

 回覧欄。

 確認の印。

 ごく普通の事務書類だ。

 だが、どこか一か所だけ、印が新しい。


「これ、誰の押印だ」


「望月さんの確認印です」


「事故の直前に?」


「そうです」


 砧はそれを見て、少しだけ眉を寄せた。

 確認印があるということは、望月は書類を見た。

 つまり、資料室へ自発的に来たように見える。

 その流れ自体は自然だ。

 だが、自然すぎる。


 優奈は棚の横にある小さなメモを拾い上げた。

 そこには短い走り書きがある。


「“至急、確認を”……ね」


 彼女が読み上げる。


「これ、誰が置いた」


「……わかりません」


 由佳の返事は短い。

 だが、その一瞬の間に、砧は少しだけ引っかかった。

 知らない、ではなく、わからない。

 その違いは小さいようで大きい。


 やがて、関係者同士の会話が始まる。

 伊勢崎が松永を見て鼻で笑う。


「議会側が口を出しすぎたんじゃないですか」


「うちは関係ありません」


「関係あるだろ。望月さんを急かしてたのはそっちだ」


「急かしたのはあなたたちでしょ」


 城戸が間に入る。


「やめて。今は誰が悪いかじゃなくて、どうしてあの人がここにいたのかを考えるべき」


「それを決めるのが一番怪しい人間だったら?」


 伊勢崎が由佳を見た。

 由佳は何も答えない。


 早乙女が低い声で言う。


「資料室の鍵は、俺が管理していた。けど、今夜は由佳さんに一度渡してる」


「なんでだ」


「押印の控えを出すためだ」


「なら、触れたのは彼女か」


「……そうなる」


 砧は、その会話を全部メモに落とした。

 皆が皆、少しずつ望月を嫌っている。

 そして、少しずつ誰かに責任を押しつけたい顔をしている。


「面倒ね」


 優奈がぽつりと言った。


「全員、何かを隠してるわ」


「だろうな」


「でも、隠し方の上手い人が一人いる」


「誰だ」


「今は言わない」


「なんでだ」


「言ったら、あなたが先に納得するから」


 砧は苦笑した。

 この女は、こういう言い方を平然とする。


 優奈は資料室をもう一度見回した。

 書類の流れ。

 踏み台の位置。

 控えの印。

 そして、静かに立っている桐谷由佳。

 ここには、事故に見せるための材料がそろいすぎている。


「砧」


「なんだ」


「この事件、たぶん“転んだ”んじゃない」


「じゃあ何だ」


「転ばされた、のほうね」


 砧はその言葉を聞き、顔をしかめた。

 まだ全貌は見えない。

 だが、少なくともこの部屋の中に、事件の流れを作った人間がいる。

 そしてそれは、声の大きい男たちではなく、いちばん静かな女なのかもしれない。

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