【足跡のない資料室】呼ばれたのは資料室
区民ホールの夜は、いつだって人の顔を少しだけ醜くする。
昼間は市民向けの催しで賑わう建物も、夜が更けると、蛍光灯の白い光だけが妙に冷たく残る。
再開発説明会の準備で、会議室にはまだ人の出入りが続いていた。
机の上には資料の束、未配布の案内状、押印済みの控え。
誰かが立った場所には、さっきまでの苛立ちが空気のように残っている。
「この資料、まだ揃わないのか」
低く苛立った声が、ホールの奥まで響いた。
声の主は、望月 浩司だった。
五十二歳。再開発の調整役として名目上は「地域との橋渡し」を担っている男だが、実際のところは、橋より先に通すものを選ぶ側の人間だった。
人当たりのいい笑顔を貼りつける一方で、裏では利権と圧力を同時に振り回す。
そういう男は、現場では嫌われる。
だが嫌われても、立場があるうちは誰も真正面からは逆らえない。
その望月の前で、会計・庶務担当の桐谷 由佳が淡々と書類をそろえていた。
三十四歳。黒っぽいスーツに、癖のないまとめ髪。
悪く言えば目立たない。
だが、資料の流れも鍵の所在も、誰より把握している優秀な社員である。
「回覧は終わっています。押印だけ、あと一か所です」
「あと一か所、ね」
望月は書類を受け取らず、机の縁を指で叩いた。
「毎回毎回、どうしてこんなに遅いんだ。準備が甘いんじゃないのか」
「予定どおりです」
「予定どおりでこの有様か」
由佳は返事をしなかった。
したところで、今の男は聞かない。
聞かない相手に言葉を重ねるのは、だいたい損だ。
少し離れたところでは、再開発会社の担当である伊勢崎 拓真が腕を組んでいた。
四十代前半。スーツは高そうだが、顔つきは常に攻撃的で、望月と並ぶと空気がさらに悪くなる。
「望月さん、その資料、うちの確認もまだ通ってませんよ」
「お前の確認が遅いんだろ」
「遅いんじゃない。順番が違うんです」
「順番を決めるのは現場だ」
「現場を壊してるのはあなたでしょう」
声が少し強くなる。
周囲の空気が一段冷えた。
「やめてくださいよ」
区民ホールの職員で、元部下でもある城戸 美咲が、二人の間に割って入った。
二十代後半。以前は望月の下で働いていたが、突然辞めたと聞いている。
今は別の立場でこの場所に戻ってきていた。
「ここで揉めても進まないです」
「お前には関係ない」
望月が吐き捨てる。
美咲の表情が一瞬だけ硬くなった。
だが、彼女は言い返さない。
言い返せないのではなく、言い返したくない顔だった。
「関係ないわけないでしょ」
そこへ、議員秘書の松永 千尋が入ってくる。
細身の女性で、言葉は丁寧だが目が鋭い。
地元議員の顔を背負っているだけあって、空気の読ませ方がうまい。
「この件、議会側も気にしてます。あまり騒ぎにしないでいただけますか」
「騒ぎにしてるのはお前たちだろう」
望月が鼻で笑う。
「説明会の前に、これ以上揉めるのは避けたいんです」
「なら、早く終わらせろ」
そこへ、警備員の早乙女 真が、ホールの奥の通用口から顔を出した。
五十歳前後。無口で、目つきは悪くないが愛想はない。
この建物の出入りや鍵の管理を任されている男だ。
「裏口の施錠、確認しました。資料室も閉めてあります」
「資料室は閉めるな」
望月が言った。
「最終確認がある。あとで使う」
「誰が使うんです」
「俺だ」
「……承知しました」
早乙女はそれ以上聞かない。
警備の人間は、聞かないことが仕事になる場面もある。
そのとき、由佳が配布用の書類を持って望月へ一歩近づいた。
「望月さん。こちら、最終確認用の控えです」
「どこで確認する」
「資料室でお願いします」
「資料室?」
望月は少しだけ眉を動かした。
部屋の奥、誰も使っていないような書庫兼資料室。
古いホールにある、埃っぽい小部屋だ。
「そこに、押印前の控えを置いてあります」
「そんなもの、今ここで出せるだろ」
「出せますが、確認の順番がありますので」
「面倒だな」
望月は吐き捨てるように言ったが、由佳は表情を変えない。
「すぐ終わります」
その言い方は、妙に静かだった。
静かすぎて、逆にひっかかる。
だが、望月はそれ以上疑わなかった。
あるいは、疑う気力すらなかったのかもしれない。
数分後、望月は資料室へ向かった。
廊下の照明はやや暗く、会場側から漏れる声は遠い。
そのとき、ホール全体を包むように、ぶつ、と音がした。
照明が一瞬、落ちる。
「停電?」
誰かが言った。
次の瞬間、また灯りが戻る。
だが、そのわずかな暗転で、建物の空気は別物になっていた。
「望月さんは?」
美咲が顔色を変える。
「資料室だ」
早乙女が言った。
「いま見に行く」
伊勢崎が先に歩き出す。
松永が続き、由佳だけが少し遅れた。
資料室の扉は、半開きになっていた。
中を覗いた早乙女が、すぐに声を上げる。
「……救急車を!」
机の脇に、望月 浩司が倒れていた。
棚に肩を打ち、床に頭をぶつけたらしい。
腕は不自然な角度で曲がり、資料の束が散っている。
足元には踏み台があり、その位置は妙にずれていた。
医師が来たとき、望月はすでに息をしていなかった。
転落でも刺殺でもない。
しかし、事故と呼ぶにはあまりに整いすぎ、あまりに不自然だった。
そして何より、由佳がそこに立ったまま、少しも動揺していなかったことを、砧志朗は後で知ることになる。
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翌朝、警察署の廊下はいつも通りの騒がしさだった。
だが、その騒がしさの中心にいる清宮は、いつもより一段と不機嫌そうだった。
四十代半ばの中間管理職。
上には媚び、下には強い。典型的な部下に好かれない上司。
「砧、お前、この捜査資料まだ出してないのか」
「出しましたよ」
「もっと丁寧に出せ。情報が少ない」
「丁寧に作っていたら、今度は急げって言うでしょう」
「言うに決まってるだろ。こっちだって上から詰められてるんだ」
砧は顔をしかめた。
署内の電話はひっきりなしに鳴っていた。
鑑識、生活安全、広報、そして捜査一課。
机の上には現場写真、聞き取りメモ、区民ホールの平面図。
砧はそれらを一つずつ並べ、線を引き、時間を確認し整理する。
地味だが、こういう仕事は嫌いじゃない。
現場を歩き、証言を拾い、証拠の流れをつなぐ。
それが警察の仕事だと思っている。
「そういえば、七五三田へ連絡せよ、とのことだ」
「現場のことは信用していないようだな」
清宮は鼻を鳴らした。
現場の空気が、ただの事故ではないと訴えている。
思うところはあれど、砧はスマートフォンを取り出し、優奈の番号を呼び出した。
数回の呼び出し音のあと、低く乾いた声が返ってくる。
『何』
「おはよう。面倒な事件だ」
『知ってるわよ。いつものこと』
「また上層部からの話になってる」
『へえ』
ほんの少しの間があった。
その沈黙で、砧には十分だった。
「現場を見ればわかるはずだ」
『わかった。行く』
「助かる」
『礼はいい。あとで報酬はだしなさい』
通話が切れる。
砧はスマートフォンを下ろし、深く息をついた。
望月 浩司の死は、ただの事故には見えない。
書類、動線、停電、資料室。
全部が少しずつつながっている気がした。
でも証拠がない。
優奈が区民ホールへ来たのは、その日の昼過ぎだった。
「で、どのくらい?」
第一声がそれだった。
「最初にそこか」
「当然でしょ。正式依頼ってことは、さぞいい報酬額なんでしょう」
「まぁな」
「ならやるわ」
優奈は資料を受け取ると、ページをめくりながら言った。
「被害者は?」
「望月 浩司。区民ホールの資料室で倒れて、そのまま死んだ」
「事故に見える?」
「見える。でも、違う気がする」
「あなたの気がする、は結構当たる」
「嬉しくないな」
「褒めてもないわ」
優奈は資料をめくった。
全員の顔写真、関係性、当夜の行動。
その目はもう、事件の中に入っている。
「容疑者は」
「再開発会社の伊勢崎拓真。元部下の城戸美咲。議員秘書の松永千尋。警備の早乙女真。会計・庶務の桐谷由佳」
「多いわね」
「全員、望月を嫌ってる理由はある」
「素晴らしい。わかりやすい事件ね」
優奈はそう言って、少しだけ口元を動かした。
興味があるときの顔だった。
「資料室で死んだのね」
「そうだ。書類を確認しに行かされた直後に倒れた」
「事故に見せるなら、資料の流れが鍵になる」
「……そういうことだと思う」
「なら、まず現場ね」
優奈はそう言い、立ち上がった。
砧はその横顔を見ながら、少しだけ安心する。
面倒な事件だが、この女なら進められる。
そう思えるだけで、いくらか気が楽だった。
区民ホールへ向かう車は、静かに走り出した。




