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七五三田優奈の観察録  作者: 有馬 茶


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【閉ざされた楽屋】 舞台袖に映る違和感

『閉ざされた楽屋』

第三章:前編

 月虹座の劇場は、外から見るよりも中のほうが古かった。

 だが、古いからこそ残るものがある。

 使い込まれた木の手すり、少し擦れた赤いカーペット、壁に並ぶ過去公演のポスター。

 どれも少しずつ色褪せているのに、妙に生々しい。


「こういうところ、嫌いじゃないわ」


 優奈が言った。


「珍しいな」


「新しいものはだいたい中身がない。でも古いものは、何か染みついてることが多いから」


「褒めてるのか、それ」


「もちろん褒めてないわ」


 砧は現場担当の警察官に案内され、舞台袖へ向かった。

 銀次が倒れた場所には白いテープが残り、足元のケーブル配置も記録されている。

 一見すれば事故現場だ。

 だが、事故としては妙に整っている。


「ここだ」


 担当が言う。


「霧島さんが転倒したのは、この通路だ。暗転明けの片付け直後で……」


「見せて」


 優奈は手を出した。

 担当が少し戸惑いながら写真を渡す。


 彼女はそれを数秒見たあと、言った。


「変ね」


「何がだ」


「事故のわりに、空気が軽い」


「転倒タイミング的に片付け終わったあとだったからじゃないのか」


「片付けたからこそ不自然なのよ。事故なら、もっと崩れてる」


 砧は現場を見回した。

 通路は確かに狭い。

 だが、通れないほどではない。

 それなのに、ケーブルの束や台車の位置が、まるで人をそこへ誘導するみたいに残されているようにも見える。


「何か気づいたか」


「転びやすいように見せられている」


「見せられている?」


「ええ。事故現場に必要なのは、偶然じゃなくて“偶然らしさ”だから」


 砧はその言葉をメモに落とした。

 偶然らしさ。

 たしかに、そういうものはある。

 完全な事故は、逆に不自然だ。


 関係者は別室に集められていた。

 最初に話を聞いたのは霧島透子だった。

 銀次の妹で、衣装管理を担当している。


「兄は、あんなふうに簡単に転ぶ人じゃありません」


「足元に無頓着だったと聞いてるが」


「無頓着でも、死ぬほどじゃないです」


 透子の声は少し強い。

 兄への怒りが混じっているのか、失ったことへの動揺なのか、どちらとも言えない顔だった。


 鳴海颯介は、何度も手元をこすりながら話した。


「僕は、照明のタイミングを少し変えただけです。危険なことはしてません」


「誰が指示したんだ」


「……真柴さんです。いや、正確には真柴さんが整理してた進行表を見て、僕が確認しただけで」


「曖昧だな」


「すみません」


 朝比奈未来は、質問に対して常に数秒遅れる。


「霧島さんとは何か揉めてたか」


「……いえ」


「本当に?」


「……はい」


 その返事は、あまりにも早く終わりすぎた。

 隠しているのは、何かある。

 だが、まだ引き出せない。


 篠原大悟は、現場責任者として疲れた顔をしていた。


「舞台袖の片付けは、いつも通りでした」


「いつも通り、というのは?」


「公演後の流れです。足場が危ないことは承知してましたが裏側ですので。ただし事故が起きるほどでは……」


「誰かが動かした形跡は」


「……わかりません」


「わかりません、か」


 砧は眉を寄せた。

 わからない、という言い方が、ただの無責任なのか、誰かをかばっているのか、まだ見えない。


 最後に、真柴梓が入ってきた。

 やはり静かだった。

 静かすぎるほどに。


「真柴さん」


「はい」


「昨夜、霧島さんと最後に話したのはあなただな」


「……はい」


「何の話をした」


「翌日の搬出と、進行表の修正です」


「それだけか」


「はい」


 あまりに簡潔な返答だった。

 砧はその静けさに、少しだけ引っかかるものを感じた。

 悲しみがないわけではないのだろう。

 ただ、それを見せる余裕すら削られているような気がした。


 優奈は真柴を見ながら、別室から持ってきた進行表を広げた。


「これ、あんたが持ってたものか」


「はい」


「修正があるな」


「公演中に変更が出ました」


「誰が書いた」


「霧島さんです」


「ふうん」


 優奈は余白の修正部分を眺めた。

 照明の確認。

 舞台袖へ向かう時間。

 搬出の確認。

 どれも、銀次を舞台袖に向かわせるには十分な理由になる。


「真柴さん、あんたは事故のとき、どこにいた」


「楽屋の外です」


「見てたか」


「……はい」


「なら、何が起きたかは見たな」


「見ました」


「どう見えた」


 真柴は少しだけ間を置いた。


「……霧島さんが、自分で足を滑らせたように見えました」


 砧は、その答えに内心で引っかかりを覚えた。

 “自分で足を滑らせたように見えました”。

 少し妙な言い回りが引っかかる。

 “自分で”というのは、まるでただの事故と言うことを強調しているようだ。


「その前後に、何か変わったことはあったか」


 砧が聞く。


「……ありません」


「本当か」


「はい」


 真柴は、そこで視線を落とした。

 その沈黙には、答えたくない何かがある。

 だが、まだ断定できない。


 優奈は真柴をしばらく見てから、床へ視線を移した。

 舞台袖の導線。

 片付け途中の床。

 そして、ケーブルの束。

 ひとつだけ、位置が妙に端へ寄っているものがある。


「砧」


「なんだ」


「これ、鑑識の時に動かしたか」


「……いや。何か今回のことに関係あるのか」


「まだわからない」


 優奈は立ち上がる。


「でも、少なくとも“偶然落ちていた”とは思わない」


 砧はその言葉にうなずく。

 事故に見せるためには、見せるための準備が必要だ。

 この現場は、その準備が少しずつ見えてきている。


 その日の最後に、優奈は舞台の上から袖への導線をもう一度確認した。

 足場そのものが壊れているわけではない。

 問題は、そこへ行くまでの心理と流れだ。


「人は、急がされると見えなくなる」


「ええ」


「それを作った人間がいる」


「それが真柴だと?」


「まだ断定はできない。でも、現場を一番知ってるのはあの女ね」


 砧は黙ってメモを取る。

 まだ全貌は見えない。

 だが、真柴梓の静けさが、少しずつ不気味に感じられてきていた。

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