泣かないでください。
ノエルさんははぁはぁ息を吐いていたけど、やがてその場にあぐらをかいて座った。
「もーいい。疲れた。あんたに怒るのも、れーじょーやるのも」
そして「ん」と手を振った。なんですかね?
「すわっていいよっ!」
ああ、そういうことなんですね。では遠慮なく。
私はノエルさんの前に座った。
「近……いや、もういいや」
ノエルさんは耳をかきながら言った。
「で」
なんでしょうか。
「……お前、さ。その、さ」
凄く言いにくそう。
だけど、何度も怒らせてるから黙って待つよ。私は反省出来る蚊です。
「……す、す…す~」
ノエルさんは口をすぼめて変なことを言い出した。
まずい。また壊れちゃった?
「あの、ノエルさん。ご無理はなさらず」
「好きなもの、何っ!!」
わあ、びっくり。
ノエルさんの顔、真っ赤。
大声の出しすぎですよ。
だけどその質問なら答えられます。
「牛乳!」
「はっ?」
「私、牛乳が大好きなんです。時々思います。この世界に牛乳があってよかった! もし牛乳が無ければ私は一生、何か足りないと思いながら過ごす人生を送ったはずです。一日三飲牛乳。朝起きて牛乳。夜寝る前にも牛乳。いくら飲んでも飲み飽きることはありません!」
「……ぷっ、あははっ」
私が語っていると、ノエルさんが笑った。
初めて見た。笑顔の方が素敵!
「お前さー。こういう時に好きな食べ物のこと言わないだろ。話広がらないじゃん。こういう時は普段どうやって過ごしてるかとか言うんだよ」
なるほど、そういうものなんですね。
普段している好きなこと?
「あとは睡眠でしょうか?」
「バカ。じゃあ今から二人で寝ましょうってのかよ」
バカって言われた。だけど、その声色は優しい。
えー、他には、そうだな。
「あとは、運動? えーっと、あとは、ぬいものなんかも。お母さんに教わってるんです」
「……うーん、なんか、違うなぁ。縫い物は、ボクが出来ないし」
ノエルさんはしばらく考えるようなそぶりを見せて、立ち上がって壁の棚の方に歩きはじめた。
「じゃあ、本でも読むか。お前、普段どんなの読んでるんだ?」
「本の事は知ってます。お勉強の時にも読みますよ!算術とか、歴史とかが書いてある奴ですよね」
ノエルさんは振り返って、なんだか圧力のある目で私を見た。
「じゃ、簡単な奴から読ませてやる」
そして私はノエルさんに本を渡された。
物語、って奴だった。ある森の妖精が、動物たちの悩みを聞く話。
なるほど。人間はこの架空の世界を楽しんだりするんだね。
虫の悩みも聞いてくれたりして。あ、いいかも。
女神さまよりももっと優しい妖精が、血を吸わせてくれるの。絶対潰したりしないで。
そんな想像をしているとなんだか楽しくなってきた。
物語の楽しみかた、分かったかも。
私はページをめくりながらノエルさんを見た。
本を読むその目は、さっきまでに見たどの色とも違う。
えーと、これは、落ち着いてるって奴です。
視線に気付いたのか、ノエルさんは私と目を合わせた。
「何?分からない所でもあったか?」
「いえ、ノエルさんを見ていました」
「……あんま、じろじろ見るな。ボクはそれ、好きじゃないんだ」
あ。
また、やってしまいました。
「ごめんなさい。嫌わないでください」
ノエルさんは、本に目を落とした。
「……バカ。嫌いには、ならないから。だから、いちいち謝るな」
「はい。分かりました。ノエルさんに嫌われたくありませんから」
「だから……もういい。話しかけられても嫌じゃないから、自由に過ごせ」
ノエルさん。一見ぶっきらぼうに見えて、その中身は優しい血でいっぱいなんですね。
「そうだ、ノエルさん!」
「……何?」
「私が好きなもの、まだあるんです。聞いてくれますか?」
ふふふ。ひとつ、思いついちゃったよ。
私は本を置いて、手でずりずりしてノエルさんに近づいた。
ノエルさんはちょっと身を引いた。
でも逃げる感じじゃない。だから、良いって事だよね。
改めて私は、ノエルさんの顔を見る。
ノエルさんの顔。ノエルさんの匂い。
触っていなくても、ノエルさんの身体の熱が、なんとなく伝わってくる。
いい。いい。
こうしてそばにいるだけで、なんだかあたたかい!
「あの、ノエルさん。私って、近い年齢の人が周りに居なくて。毎日、お勉強して、遊んで、色んな大人の人と喋って」
ノエルさんはじっと聞いてくれている。
「別に私は、それでも良かったんですけど。楽しかったんですけど。でも、こうしてノエルさんと知り合えて。今までより、ずっと楽しいんです。さっきまでよりも! なんででしょう。自分じゃそうは思わなかったんですけど、さみしかったんでしょうか? いえ、きっとそうです。私、さみしかったんです。友達が居なくてさみしかったんです! だからこうして、ノエルさんと一緒に居れることが、嬉しくて、たまらないんです!」
今気づいた。ノエルさんの目、泉みたいに、光が揺れてる。
私はその綺麗なものを見ながら、言った。
「私、ノエルさんが大好きです!」
私は人間が好き。だけど、お話をした人はもっと好き。
優しいお父さま、お母さんも大好き。おまけで少し多めに注いでくれる牛乳屋さんも好き。いつも落ち着いてる研究所の先生も好き。
怒りっぽくて、時々壊れるけど、私を嫌いにならないって言ってくれたノエルさん。
私が周りをぷんぷん飛び回っても、手で払うだけで絶対潰さない。だからノエルさんのことも大好き。
そう思って言っただけなのに。
「ごめんなさい。ごめんなさい」
ノエルさんを抱きしめる。
お母さんが時々私にそうするみたいに。小さい頃よくしてくれたみたいに。
ノエルさんの目から出た熱い液体がドレスの胸元に染み込んでくる。
これは、涙。赤ちゃんの頃流したから分かる。
嫌な時に流れるもの。それを、私が流させてしまった。
「違う、違うぅ……」
ノエルさんは違うって言いながら涙を止めようとしなかった。
「ごめんなさい。泣かせてしまって、ごめんなさい。本当にごめんなさい」
どうしたら止めてくれるのか分からなくて、私はごめんなさいを続けた。
ノエルさんは、泣き止まなかった。




