ノエルは気づいてしまった。
まずい。この後に何が起きるかは、知りすぎてるくらい、知ってる。
ダメだ。今だけはダメだ。
これは、駆け引きなんだ。涙は、降伏宣言でしかない。
だから泣いちゃダメだ。
そう思った時には、涙はボクの目からこぼれていた。
その時、顔に何かが当たった。
「いっ!?」
風だ。突風が吹いた。
なんでこのタイミングで。
砂がぱちぱちと顔に当たって、ボクは目を閉じるしかなかった。
眼に溜まった涙が大粒の雫になって落ちるのが自分でもわかった。
最悪だ。
これじゃ大泣きじゃないか。
……本当に、最悪だ。
ボクは、次にデュオが投げかける言葉に備えて、身を縮こませるしかなかった。
バカにするよな、こんな奴。そうに決まってる。
だけど、その時は一向に訪れない。
恐る恐る顔を上げると、あいつは。
ボクに背を向けて、立っていた。
奴の服が、風にはためいている。
どうして? 状況が掴めないボクに、奴が背を向けたままで、言った。
「あの、ガーネット・ファロンは、お前にとって、そういう奴か」
「……そうだ。……そうだよ。ボクにとっては本当に大切な人なんだ」
ボクが涙を手で拭いながら言うと、奴は、「そうか」とだけ返した。
そして、背中を向けたまま、言った。
「ところで俺様は寛大にもてめぇを許してやることにした」
「……はぁ?」
なんだ。口調が、元のこいつに戻ってるぞ。
デュオはやれやれとでも言うように手を広げた。
「胸ぐらをつかまれた。本来なら絶対に許さねぇことだが、同じ公爵子女のよしみで、無かった事にしてやる。つまり、ここでは何も起きてねぇし、何も見てねぇ。いいな?」
何も、起きてない。
ボクは、指に残る湿りに目をやった。
もしかしてそれは、これのことか?
……もしかしてこいつは。
気にするなって、言ってるのか?
ボクの、涙を見て?
……。
むかつく。
ボクは、涙の跡を入念にこすってから、デュオの方に踏み出した。
「かっこいいじゃん。さっき、あんなにどーようしてた癖に」
「うっ」
「それも、見なかったことにして欲しい、ってことか?」
デュオの隣に立ち、その顔を覗く様に、見上げてみる。
「おっ、お前がそれで満足するなら、そういう解釈で構わねぇ」
背中を丸めている奴の目はボクの視線から逃げていく。
……昂った感情が、涙と一緒に流れたみたいで。
ボクは、素直な気持ちで奴の顔を観察できた。
いかにも、わざとらしく魅力をアピールするような顔の作り。
それが、柔らかさを帯びているように、今は、見えた。
だから、かな。
その言葉は、自然と、ボクの口から、出てしまった。
「ガーネットに、会いたいのか?」
「あ――」
デュオは顔を背けた。
――勢いで、余計なことを言ってしまったかも。けど、何故かその事への後悔は芽生えなかった。
だって、こいつの反応が。
「会い、いや、会いたくな、いや、会い」
「……なんだよ、はっきりしない奴だな」
「だ、だって、あいつ、こわ……」
そこまで言った時、デュオの目がすうっと、焦点を取り戻した。
「……こわ?」
「なんでもねぇよっ! つうか、馴れ馴れしくすんじゃねぇ!」
奴は、ずんずんと、歩いて、腕立て伏せをしている奴らの方に行ってしまった。
「やべぇ、デュオが戻ってきた!」
「てめぇら何休んでんだぁ!? 俺が見てないからってタルんでんじゃねぇ!」
「オーーッス!!!」
「……うるさ」
ボクは、耳に手を当てて倒した。
あいつらの声も、他の音も、全部がくぐもっていく。
――話は終わり。
追いすがるつもりもない。
知るべきことは、もう、知れたと思う。
後は、整理するだけ。
ボクはガーネットの為にどう立ち回るべきなのか。
だけど、今は、頭を動かしたくなかった。
ボクは、全てをくぐもらせたまま、校舎の方へ、元来た道を引き返す。
何かが引っかかっている。強烈な、何かが。
それはまだ、ボクの前に姿を現していない。
だけど、すごく嫌な予感がする。
何か、ボクにとって嫌なことが起きそうな――。
「きゃあっ!?」
「うわあ!?」
ぽむっ、と、何かに当たり、ボクは尻餅をついてしまった。
目の前でスカートが揺れる。
見上げると……顔が見えなかった。
「申し訳ありませんの。大丈夫でして?」
「あ、ああ。い……一切痛くなかった」
目の前に手が伸びてくる。きれいな、女性の手だった。
女の人は上手にボクを引き上げ、立たせてくれた。
その時、ボクは気づいてしまった。
美人だった。気の強そうな顔は、だけど、愛想のいい笑顔に彩られている。
金髪の髪も毛先まで油断なくセットされている。
そして……すごく、すごい。
何か、自分の理想に向かって練り上げている、そんな印象を持つ容姿だった。
だけど、それが気になった訳じゃない。
彼女はボクの顔を見て一瞬怪訝そうにした後、ニコッと笑って言った。
「では、失礼しますの」
そして彼女はボクの横を通り過ぎた。
何かひと言、なんて余裕はなかった。
――彼女の目は、最初、ボクを見ていなかった。
それはボクが何度も経験してきた視線の動き。
ボクと仲良くしてくれる人々も、一度はしたことのある動き。
ボクの、"獣憑き"の耳を見てから、ボクの顔に目線を落とす動き。
それが、ボクが抱いていたもやもやを、晴らした。
晴らしてしまった。
あるのに気付かなかった訳じゃない。ないから気付かなかったんだ。
デュオは。
あいつは、一度もそんな風に、ボクを見なかった。
膝の力が抜けそうになり、ボクは思わず壁に寄り掛かってしまった。
二人目だ。
ボクの人生で、ボクをそんな風に見なかった奴。
氷が解けるみたいに、ボクの中で麻痺していた部分が、動き始めた。
ボクの特異な部分を見ようともしない。そんなの、やろうとして出来るものじゃない。
それが全てを決める訳じゃないことだって知ってる。だけど、ボクはあいつと、たくさん喋ってしまった。
あいつの言葉、行動、様子、何もかもが一つの答えに向かって整理されていく。
デュオ・ヴァルナート。
あいつは……。
いい奴だったんだ。
じゃあ……。
じゃあ、大丈夫じゃないか。
――やめろ。
ガーネットは。
――やめてくれ。
ボクの頭は、勝手に、答えを弾き出した。
ガーネットの幸せを願うなら。
デュオ・ヴァルナートとガーネットの関係において。
ボクは、何もしなくていい。




