20、本当の理由
ここまで来てしまったからには、腹を括るしかない。
「粕谷さん、どうぞ」
そう声をかけられ、わたしはドアを押さえてくれている国館社長の脇を通って、部屋の中に入った。
相変わらず──というほどお邪魔したわけじゃないけど、モデルルームみたいに片付いたきれいな部屋だ。ふと思って訊ねてみた。
「このマンション、単身者用じゃないですよね? どうしてここを借りてるんですか?」
ドアを閉めて入ってきた社長が、わたしの隣で立ち止まって答えた。
「借りてるんじゃなくて、買ったんですよ。投資目的もあったので、家族用のものがいいかなと思いまして。でも相場が下落してしまったんで、それまで住んでいた賃貸を引き払ってここに住むようになったんです」
今、何かスゴい話を聞いたような気が……。
「あの、“投資目的”って……?」
わたしはおそるおそる訊ねるけれど、社長は何でもないことのように話し出した。
「ああ、日本では投資目的の不動産売買はあまり行われてないですからね。簡単に言えば、安く買って高く売るってことです。日本だと新築の人気が根強いので使わずにおいたんですが、不況でこのマンションも相場が買値より大幅に下がってしまいまして。売っても大損になるなら住んでしまったほうが、痛手が少なくて済みますからね。でも最近景気が回復してきて不動産相場も持ち直してきてるんですよね。じっくり待てば利益が出たかもしれないと思うと、残念なことをしました。ただ、近年は新築同様の中古物件も人気があるので、そのうちここも売却を考えるかもしれません」
えっと“安く買って高く売る”についてはわかってたんだけど、要するに社長は以前、この部屋を持っていた上に住まいが別にあったってこと? 簡単に“買った”って口にしたけど、分譲マンションって結構なお値段がするんじゃなかった? 都心部から離れてるからそんなでもなかったかもしれないけど、分譲マンションを購入する時って普通ローン組むよね? 社長は以前マンション販売士をしてたってことだけど、マンション販売士は稼ぐ人はかなり稼ぐともちらっと聞いたことがあるけど、社長の資産状況って一体どうなってるの? すっごい気になるけど、そんな個人的な話、聞くに聞けないよ~!
わたしが内心冷や汗だらだらで悩んでる最中に、社長は長袖シャツの袖ボタンを外して腕まくりをし、それからキッチンに向かって歩き出す。
「温めればすぐ食べられますので、ソファに座っていてください」
その声に我に返り、わたしは社長のあとについていく。
「あ、お手伝いしますよ」
「それでは料理をよそっていきますので、ソファのところのテーブルに並べていただいていいですか?」
お手伝いを断られると思ったのに、すんなり頼んでもらえて意外。でも手持ち無沙汰で待ってると落ち着かないから、ありがたいわ。
社長がお盆を出してくれたので、わたしは社長が器によそった料理を次々運んだ。たくあんとキャベツの浅漬けの盛り合わせ、肉じゃが、煮魚、具だくさんのお味噌汁、真っ白つやつやなご飯。
一通り並べたわたしは、感嘆の声を上げた。
「うわぁ、定食屋さんに来てるみたい。こんなに作るの、大変じゃなかったですか?」
キッチンから出てきた社長は、腕まくりしていたシャツを戻しながらちょっと照れくさそうに言った。
「二人分ですから、そうでもないですよ。昼休みに買い出ししておいたので、仕事を終えた後すぐに料理に取りかかれましたし」
何その段取り上手。ますます社長との女子力(?)の差を見せつけられるわ。
自分にがっくりきてお盆を抱えて項垂れていると、社長が隣まで来て顔を覗き込んできた。
「お好みに合いませんでしたか? 土曜日の朝食を嬉しそうに食べてくださったから、和食にしてみたんですが」
わたしは慌てて顔を上げ、小さく手を振った。
「いっ、いいえ! 好きです! こういう食事に飢えてたのに、いざご飯を食べに行ったりすると、どうも洋食ばかり選びがちで。あと居酒屋とか」
社長はほっとしたように笑顔を見せる。
「お酒好きですもんね」
「あー……ははは」
落ち込むわ~。わたしってばそういうところにしか行ってないみたい。実際それに近いんだけど。一人暮らしを始めてから、自炊ってろくにしてないんだよね。最初は仕事に慣れるのに精一杯で自炊する余裕がなくて、仕事に慣れてきた頃には自炊しなくても生活費をやりくりできるようになっちゃってて。飲み屋で散財する代わり、家で食べる食事は極力安く抑えてる。朝は食パン一枚だし、夜はコンビニで買ってきたサンドイッチ一個ですますこともあるしね。野菜がたくさん挟まれてるサンドイッチを選べば、栄養バランスもばっちり──かもしれない。って自慢にも何にもならないよ……。一人暮らしは社長のほうが長いかもしれないけど、社長くらい一人暮らしを経験したところでわたしにここまでのことは無理だわ。
こういう人が自分の彼氏になるってどーよ……と思ってわたしははたっとする。何考えてるの! 社長と付き合うつもりなんかないくせに。
そのクセ、社長に迎えに来てもらったり、手料理をごちそうになったり。自分の図々しさに呆れ返ってしまう。
きっぱり言えばいいだけのことじゃない。“社長とは付き合えません”って。
そんな簡単なことが、わたしはできずにいる。
社長を傷つけたくないから。社長とのつながりを断ってしまうのが惜しいから。
だったら付き合えばいいじゃない。本当はそれを望んでるクセに。
そう。わたしは社長に惹かれてる。
だからこそ、社長とは付き合えない。
蓉子先輩に言われたように、貸し借りの話はただの言い訳だ。最初は、“わたしまで社長を追いかけ回したりしないんで安心してください。”という意味だった。
それを今では、自分を守るための盾に利用している。
付き合うということは、お互いのことをもっとよく知り合うということ。
わたしは自分の過去を知られるのが怖い。
わたしの過去を知った社長に、幻滅されてしまうのが。
「何を考えてるんです?」
わたしははっと我に返る。すでに帰りの車の中。
社長は食事が済むと、食器の片付けもそこそこに、約束通り車を出してくれた。
今はもう、アパートの前。お礼を言って車から出なきゃ。そう思ってドアを開けようとするけれど、社長は「ちょっと待って」と言いながらわたしのほうを向く。
車という限られた空間の中。社長は身体が大きいし、上体をひねってこちらに向けられれば、妙な圧迫感があって。
その近すぎる距離にうろたえて、わたしの声は裏返った。
「社長!?」
とっさに身体をドア側に逃がしてしまう。そんなわたしの態度に、社長はびっくりして身を引いた。
「すみません。怖がらせてしまいましたか?」
「い……いえ」
わたしが言えたのはこれだけだった。
だって、本当のことなんて言えない。
近づかれてどきっとしただなんて。もっと近づいてほしいって思ったなんて。
アパートの常夜灯の明かりが差し込んでいて、夜だというのに車の中はそこそこ明るかった。
社長の顔もよく見える。わたしが怯えたと思って傷ついた表情も、顔の造作の一つ一つまで。男らしい太い眉。骨ばった頬。日本人にしては高めで通った鼻。頬から顎にかけてのラインはほっそりしていて。やわらかそうでない薄い唇は、触れたらどんな感触がするのかと──って考えるな、わたし!
慌てて打ち消したけど、いけないことを想像しかけたのがはずかしくて、頬が熱くなってくるのを感じる。
社長と目を合わせていられず、わたしはおどおどと視線をさまよわせた。
こんなことしてたらダメだ。どっちつかずのわたしの態度は、社長を傷つけてしまう。
社長はいい人だ。
約束を守って、わたしに指一本触れてこなかった。わたしを怖がらせないようにと距離を置いてくれた。食事は美味しくて、いろんな話をして楽しませてくれようとした。自分のこととなると口が重たくなるわたしに気付いて、さりげなく会話を逸らしてくれて。
社長はきっと、訊ねたいのを我慢してくれているのだろう。拒み切れずにいるくせにYesとも言わない、わたしの胸の内を。
そんないい人を、わたしの都合で振り回しちゃいけない。
ようやく心を定めることができて、わたしはもう一度社長と視線を合わせる。そして口を開いた。
「国館社長、社長のお気持ちは嬉しいんですけど、やっぱり」
「粕谷さん、ダメです」
未練を断ち切ろうと懸命に絞り出したわたしの声は、社長の声に遮られてしまう。
社長は真剣な目でわたしを見据えて言った。
「時間をくださいと言ったはずです。オフィスリフォームが終わるまで。時間をいただけないのなら、僕はあなたを諦めたりしません。リフォームが終わる時に決着をつけるのと、それ以降も僕につきまとわれるのと、どちらがいいですか?」
この言葉にわたしは唖然とする。
一呼吸置いた後、わたしは思わず声を上げた。
「何ですか!? その二択は!」
どっちを選んでも不利じゃない。つきまとわれるのも困るけど、社長と向き合わなきゃならないのも困る。
ぐるぐる悩んでいるわたしに、社長は追い打ちをかけた。
「僕の正直な気持ちです。振られるにしても、僕のことをあなたに知ってもらってからにしたい。そうでなければ諦めきれません」
食事の時は一歩退いた態度を取ってくれていたのに、また強引に迫ってくる。
そして、わたしはそれが嫌じゃないから始末に負えない。
半ばやけくそになって、わたしは一歩踏み出した。
「……わたしのどこがそんなにいいんですか?」
わたしはなりふり構わず追いかけたくなるような女じゃないって自覚してる。見た目はそこそこ悪くないと思うけど、五人もの女性をたった二日で追い払ったかわいげのない女だ。男性にしてみれば、普通敬遠したいタイプのはず。
なのに社長は目元を赤らめて、口元を手で覆いそっぽを向いた。
「言えません。……言えば粕谷さんは、もっと逃げたくなるでしょうから」
思わぬ返答に、わたしは口も聞けなくなる。
その言い方、余計気になるんですけど!
しばらく口をぱくぱくさせていると、社長は口元を覆ったまま、ちらりと視線を向けてきた。
「明日の朝、迎えに行ってもいいですか?」
「まだ前の話が終わってないのに、何で次の話に移るんですか!?」
わたしが思わずツッコミを入れると、社長は気まずげに目を伏せた。
「ですから、僕もなりふり構っていられないんです」
なりふり云々はともかく、話に脈絡がないのが困るんです。──と言い出したらいつまで経っても話が終わらないと気付き、わたしは簡潔に済ますことにした。
「……朝迎えに来るのだけは勘弁してください」
時間は計ってないけど、アパートに着いてからかなりの時間話し込んでしまっただろう。実はたまに通りかかる人の視線が、気になって仕方なくなってもいる。
ドアを開けて外に出ると、社長は助手席に身を乗り出してわたしを見上げた。
「じゃあ明日も夕方に迎えに行きますね。昼にまた電話します。……おやすみなさい。部屋に入るまで、ここで見てますから」
控えめな微笑みに、わたしの胸はどきんと高鳴る。その笑顔は反則だと思うのよ。好かれたいけど好きになってもらえる自信がないと言われてるようで、手を差し伸べてあげたいような庇護欲をかきたてられる。大きな大人の男の人に対して何考えてんのよと思わないでもないんだけど、一度頭についてしまった考えはなかなか離れない。
わたしは何とか引きはがそうとして、社長から目を逸らした。
「今日はありがとうございました。おやすみなさい……」
「……おやすみなさい」
もう一度告げられた挨拶は寂しそうだったけど、わたしにはどうしようもない。
社長の告白を受け入れるつもりはないし、もし受け入れたとしてもいつかは壊れてしまう。
どのみち先のない恋だから。
笑顔を返す気力もなくドアを閉めると、わたしはとぼとぼとアパートの階段を上がった。
社長の車にちらっと目を向けただけで自分の部屋に入ると、電気を点けただけでその場に佇む。社長の車が遠ざかる音を、土間に立ったまま聞き入っていた。




