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19、開き直った社長って

 ちょうど二時間残業したところで、蓉子先輩は手打ちをするように声を上げた。

「よしっ、今日はここまででおしまい!」

「あ、わたしはあともうちょっとやっちゃいたいので、先に帰ってください」

「何言ってんの。国館社長を待たせちゃいけないから、一緒に帰るのよ」

 さりげなく先輩と帰宅時間をずらそうと思ったんだけど、やっぱり無理か。


 先輩に急かされて帰り支度を終え、一階のショールーム脇を通って社屋から出ると、来客用の駐車場に車を止めた国館社長が車の脇に立っていた。社長は愛想よく、わたしと先輩に声をかける。

「こんばんは。先ほど綿谷所長に駐車場に停めてもいいと言っていただいたので、お言葉に甘えることにしました」

「こんばんは。ウチの所長と行き合われたのですか?」

 わたしではなく先輩が社長に応えると、社長は先輩とにこやかに話し始めた。

「僕が路上駐車しようとしているところが、窓から見えたんでしょう。わざわざ出てきてくださったみたいです」

「そうですね。この辺りの路上は駐停車禁止じゃありませんけど、せっかく駐車場があるんですから」


 蓉子先輩も綿谷所長も、何でそんなにわたしと国館社長をくっつけたいの? ……周囲に下手に盛り上がられると、当人はテンションが下がったりするんだけど。


 先輩の斜め後ろで項垂れていると、不意に腕を引っ張られて社長の前に押し出された。

「それじゃ国館社長、美樹ちゃんのことをよろしくお願いします。美樹ちゃん、お疲れさまー」

「……お疲れさまでした」

 先輩はお疲れさまだけど、わたしはこれからお疲れなのよね……。

 ホントどうしよ? この状況。



 蓉子先輩の姿が見えなくなるまで見送った後、社長は助手席のドアを開けてくれた。今さら抵抗しても仕方ないと思い、わたしはおとなしく助手席に座った。

 わたしがシートベルトをしている間に、社長はフロントを回って運転席に乗り込む。わたしはおそるおそる訊ねた。

「あの……これからどこに行くんですか?」

 シートベルトをしながら、社長はにこっと笑いかけてくる。

「お腹、空いてますよね? 夕食を食べに行きましょう」

 それを聞いて、わたしはすかさず釘を刺した。

「絶対割り勘です。でもってリーズナブルなところでお願いします。そうじゃなきゃ食事をご一緒しませんから!」

 社長はハンドルを掴みながら、くっくと笑いをこらえた。

「そうおっしゃると思いました。とてもリーズナブルなところですから、安心してください」

 言いながらエンジンをかけ、車をスタートさせる。


 先週と変わらず物腰柔らかだけど、わたしは振り回されっぱなしで落ち着かない。最初からそういう人だったならそれなりに対応できたんだろうけど、別人のように変わっちゃったから自分の態度を変えるのが難しいのよ。ホント、先週までの気弱な社長はどこ行っちゃったの?

 困惑したわたしを乗せて、社長の車はすっかり日の暮れた街に滑り込んでいった。



 景色って、昼間と夜とじゃまるで違って見えるよね。だから、どこに向かってるのかさっぱりわからなかったの。国館社長に訊ねても「着いてからのお楽しみです」とはぐらかされるし。

 なので目的地に到着した時、わたしは唖然とした。

「ここ、ですか!?」

「そう、ここです」

「ちょ、ちょっと待ってください!」

 車から降りようとする社長を、わたしは慌てて止める。社長はドアを開けようとした手を止めて、わたしににっこり笑いかけた。

「そんなに警戒しないでください。粕谷さんが嫌がることは何もしませんから」

「そういう発言が出る段階で、すでにマズい状況でしょう!」

「それで言ったら、先週の金曜日の段階ですでにマズい状況だったと思いませんか? 思いとどまった僕に感謝してください」

「いえ、先週と今週とでは状況がまるで違──え?」

 喋っている最中に最後の言葉の意味を理解して、わたしは呆然として言葉を失う。

 えっと、それってつまり、社長は金曜日の夜からすでにその気があったってこと……?


 頭にかーっと血が昇ってくる。

 思ってもみなかった。わたしの社長のイメージは妙に清潔感があって、そういうことを今まで連想したことなかったから。

 そうだよね。特に何かあるわけでもなければ、恋愛にそういうことがからんでくるのは自然なことで──って、それじゃますますマズいじゃない!


 ここは社長が住んでいるマンションの地下駐車場。──確かにリーズナブルになりそうだわ。社長の部屋で手料理をごちそうになるんなら。


 でも、今の話を聞いたからには、ますます社長の部屋に上がるわけにはいかない。

 拒否の意思表示としてわたしがシートベルトにしがみつくと、社長は苦笑して小さくため息をついた。

「食事をするだけです。その後はちゃんとご自宅までお送りすると約束します」

「でっ、ででででも!」

 焦ってろくな言葉も出てこない。

 そんなわたしに業を煮やしたのか、社長は眉間にしわを寄せてしばし考え込んだ。その後、悲しそうな顔をしてわたしの顔を覗き込む。

「僕の気持ちは、そんなに迷惑ですか? ならそうだと、はっきり言ってください」

 真剣なまなざしに、わたしは返答に詰まる。

「あ、あの……」


 迷惑なんかじゃない。ただ困るだけで。

 わたしは社長の気持ちに応えられない。でも社長とのつながりを断ってしまうことも惜しくて、返事を先延ばしにしている。

 ずるいのはわかってる。でも……。


 目を合わせていられなくて俯くと、間近から社長のあっさりした声が聞こえてきた。

「つまり迷惑だと言えない程度には、僕を受け入れてくれているということですね」

「は!?」

 わたしは間抜けた声を上げて、思わず社長を見る。社長は“さっきの悲しそうな顔は何だったの?”と訊ねたくなるほどにこやかだった。

「夕食を一緒に食べるだけです。あなたには指一本触れません。でしたら、外で一緒に食事をするのと何ら変わりがないと思いませんか? ね?」


 社長の言ってることは間違ってない。間違ってはいないけどなんか違うと思うんですけど!


 私が動揺しているうちに、社長は車から降りて助手席に回ってきた。そしてドアを開き何食わぬ顔で言う。

「僕がシートベルトを外したほうがいいですか? そうしますと、ちょっと粕谷さんの前に身体を屈めさせていただかなくてはならないのですが」

 それって天然? 確信犯? どちらなのか、確かめることはできなかった。そうされた時にどれだけ身体が接近するか想像してしまい、慌ててシートベルトを外して降りるしかなかったのよ。



 地下駐車場から暗証番号を打ち込んでエレベーターに乗ると、わたしは扉脇の操作盤の前を陣取った。逃げたい心理が働く時、人は奥へ奥へと逃げたくなるけど、エレベーターでは逆効果だってよく注意喚起されてるもんね。操作盤に手が届かなくなり、逃げ道がふさがれてしまうので、操作盤の前を確保するのが一番安全なのだとか。一番の安全策は、怪しいと思った人とは一緒に乗らないことだろうけどね。

「まだ警戒してるみたいですね」

「ひゃ!」

 よそ事を考えて気を散らそうとしていたわたしは、突然すぐそばで聞こえた声に驚いて、変な声を上げてしまう。わたしのおバカ。意識しすぎだっての。背後では、国館社長が懸命に笑いをこらえている。

何なの? その余裕。腹が立ってきて、わたしは今まで聞くに聞けなかったことを口にしていた。

「先週末から一体どうしちゃったんですか? 社長にしては、何だか強引すぎます」

 振り返ったものの目を見ることはできなかったので、社長はさらに笑いを洩らす。それから穏やかな口調で言った。

「オフィスリフォームの完成予定日は、来週の金曜日ですよね? あと二週間足らずしかありませんので、なりふり構っていられないんです」


 口調穏やかだけど、言ってることコワい。“なりふり構っていられない”って何なの?


「……何か、開き直ってませんか?」

 おそるおそる訊ねると、社長は苦笑した。

「開き直りもしますよ。何しろあと二週間足らずで、粕谷さんを口説き落とさなくちゃならないんですから」

 社長の目が肉食獣のようにきらりと光った気がして、わたしは思わずエレベーターの角に身を寄せてしまう。そんなわたしに、社長は苦笑した。

「そんなに怯えないでください。先ほども言いましたように、粕谷さんには指一本触れませんから」


 この時タイミング良くエレベーターが停まり、扉が開く。

 ホントにここで降りていいんだろうか? 引き返したほうがよくない? 私。

 社長に警戒の目を向けながら躊躇っていると、社長は額に人差し指を押し当てて「うーん」と唸った。それから悪戯っぽく目を輝かせる。


「エレベーターから降りてくださいませんか? それとも金曜日の夜のように、また僕が抱き上げて降ろしてさし上げたほうがいいですか?」

「ま、“また”って……」

 要するに社長は、わたしを抱き上げてエレベーターから降ろしてくれたことがあるってことよね? いや、土曜日の朝に社長の部屋にいたことを考えれば、金曜日の夜にそうやって運んでくれただろうとわかるけど。わかるけど、でも!

 金曜日に運ばれた時のことを想像して多分真っ赤になっているだろうわたしに、社長は少し屈んで顔を近づけてくる。

「抱き上げてもよろしいでしょうか?」

 だっ、ダダダダメです!

 わたしは心の中で叫んで、慌ててエレベーターを降りる。続けて降りてきた社長は、わたしの後ろでちょっと傷ついたように言った。

「降りていただけたのはありがたいですけど、僕に抱き上げられるのがそんなに嫌だったのかと思うと残念ですね」


 先週までの社長からは想像もつかなかったセリフ。

 何でわたしを口説く気になったのか知らないけど、開き直った社長ってコワいよ!

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