第5話:九条家の食卓と、笑顔の猛獣
九条家の玄関を開けた瞬間、香ばしい醤油と砂糖の甘い匂いが鼻をくすぐった。今夜の献立は、予定通り「すき焼き」らしい。
「ただいま……」
「お帰り。随分と賑やかなお帰りね」
玄関先で三指をついて待っていたのは、母・志乃だった。おっとりとした笑みを浮かべ、割烹着に身を包んだその姿は、どこからどう見ても優しい「お母さん」だ。
けれど、その後ろに控える父さんとお兄ちゃんが、置物のように直立不動で冷や汗を流しているのを見て、私は思い出した。九条家で一番怒らせてはいけないのは、お札を操る父さんでも、天才術師のお兄ちゃんでもない。言霊使いの母さんなのだ。
「あら、そちらの方は?」
母さんの視線が、私のすぐ後ろに立つ白耀へと向けられた。
父さんとお兄ちゃんが「ひより、こっちへ!」と私を引き寄せ、白耀に対して再び殺気を漲らせる。
「志乃、油断するな。そいつは九尾の狐だ。ひよりと勝手に契約を結びおった不埒な輩だぞ!」
「そうだよ母さん! 今すぐ追い出さないと、ひよりが毒されてしまう。僕の清らかな妹が、こんな得体の知れない狐に……!」
父さんとお兄ちゃんの必死の訴えを、母さんは「あらあら」と首を傾げて聞き流した。そして、白耀の顔をじっと見つめると、ふふっと花が咲くように笑った。
「まあ、随分と綺麗な顔をした狐さんね。それに、ひよりをずっと守ってくれていた霊気の持ち主でしょう? 懐かしいわ。十年前、ひよりが神社の石段で寝ていた時、お礼のように残されていたあの温かな守護の気配……あなただったのね」
「……ほう。人の身でありながら、我が隠蔽を見抜いていたか。九条の女房、お前は骨があるな」
白耀が少しだけ感心したように目を細める。
母さんは動じることなく、玄関のドアを大きく開け放った。
「いいわよ。ひよりの恩人さんなら、今夜は特別に一皿用意しましょう。……ただし」
母さんの笑顔が、ほんの少しだけ深くなった。
その瞬間、家の空気が凍りついたような気がした。
「うちの娘を傷つけたり、悲しませたりするような真似をしたら……その綺麗な尻尾、全部引き抜いてお漬物の重石にしてしまうから。分かったかしら?」
「…………承知した」
あの不遜な白耀が、一瞬だけ身を引いた。
最強の九尾を言葉だけで気圧す母さん、やっぱりこの家で一番恐ろしい。
こうして、世にも奇妙な「五人」のすき焼きパーティーが始まった。
居間のちゃぶ台を囲み、中央には湯気を立てる大きな鉄鍋。お肉が焼けるいい音がしているけれど、食卓の空気は極寒だった。
「ひより、ほら。このお肉、柔らかそうだよ。あーん」
「ちょ、お兄ちゃん! 自分で食べられるってば!」
お兄ちゃんが必死に私の世話を焼こうとする横で、白耀は涼しい顔で私のお皿に春菊を盛り付けてきた。
「ひより、野菜も食べねばな。我の契約者は、健康でなくては困る」
「貴様っ、ひよりの皿に勝手に箸を伸ばすな! それに春菊はひよりの好物ではないはずだ!」
父さんが割り箸を槍のように構えて白耀を威嚇する。
「黙れ、猪。ひよりは先ほど、我の力を借りて自ら拳を振るい、妖を粉砕した。それほど体力を使う戦い方をするのであれば、栄養バランスを考えねばならんだろう」
「……ひより、本当にパンチで倒したのか?」
父さんが泣きそうな顔で私を見る。私はお肉を頬張りながら、こっくりと頷いた。
「うん。なんかね、お札を投げるより『当たれ!』って思って殴る方が、力がスッと通る感じがしたんだよね。白耀の力が、私の動きにぴったり合うっていうか……」
「「…………」」
父さんとお兄ちゃんが絶望したように顔を見合わせた。
愛する娘と妹が、大妖怪の力を借りて物理アタッカーとして目覚めてしまった。それは祓い屋の家系として、あまりにも予想外の成長だった。
「いいじゃない。ひよりらしくて」
母さんが悠然とお肉を口に運びながら言った。
「九尾の加護を得た物理除霊……。新しいわね。明日から、お父さんに体術をもっと教わりなさい。白耀さんも、娘の指導をお願いね?」
「ああ、任せておけ。我の愛おしい契約者を、世界で一番強い花嫁に育ててやろう」
「誰が嫁にやるかぁーーー!!」
父さんの怒号が夜の九条家に響き渡る。
白耀はそれを受け流し、私の頬についたタレを指でそっと拭った。その指先が熱くて、私はすき焼きの熱さのせいにして、顔を赤くするしかなかった。
私の十八歳の誕生日は、これ以上ないほど騒がしく、そして温かな夜になった。




