第3話:お札はいりません、殴るので
白耀の手を握った瞬間、私の体の奥底から心地よい熱がじわりと広がった。
それは指先までを一本の芯で通すような、不思議な感覚。視界を遮っていた重い霧が晴れるように、神社の境内の景色が鮮明に浮かび上がる。
夜の空気の中に、今まで知らなかった「流れ」が見える。
白耀から私へと、絶え間なく清らかな力が流れ込んでいるのが分かった。
「ひより、来るぞ」
白耀の静かな声。
神社の拝殿の陰から、どろりとした黒い影が這い出してきた。
それはいくつもの手足を持った、異形な姿。言葉にならない唸り声を上げ、ひたひたと石畳を滑るようにこちらへ向かってくる。
「……九尾の、契約者……。その魂、我らに……」
妖は、空気を震わせるような嫌な声を出し、鋭い爪を振り上げた。
十年前の私なら、怖くて足がすくんでいただろう。けれど、今の私の目には、その妖の動きが水の中を泳ぐ魚のようにゆっくりと感じられた。
「白耀、これを使えばいいの?」
私はカバンのポケットから、父さんに持たされていたお札を一枚取り出した。
けれど、白耀はフッと口角を上げた。
「お札か。……それも良いが、お前のその『鍛えた体』を信じてみろ。我の力を、お前の拳に少しだけ預ける。あとは、ただ狙いを定めるだけでいい」
白耀が私の肩にそっと手を置くと、右拳にじんわりと熱が集まった。
お札を指に挟み、父さんたちが唱える呪文を思い出そうとしたけれど、どうにも実感が湧かない。
それよりも。
踏み込んで、打つ。
その方が、今の私にはずっと自然に思えた。
私は幼い頃から、父さんに勧められて空手道場に通っていた。
「妖が見えなくても、自分の身は守れるようになれ」と言われて十年間。私は一度も休まず、拳を突き出してきたのだ。
「……ふぅ」
一呼吸。
妖が飛びかかってくる瞬間、私は一歩、前へ踏み込んだ。
石畳を蹴る音さえ、夜の静寂に溶けるほど軽やかだった。
妖の爪が私の髪をかすめるより早く、私はその懐へと滑り込む。
腰をひねり、右拳を妖の胸元へ、吸い込まれるように突き出した。
ボッ、という静かな音。
私の拳が妖に触れた瞬間、黄金色の淡い光がその体に染み渡った。
衝撃で吹き飛ばすのではない。
九尾の圧倒的な霊圧が、妖の邪な存在そのものを内側から「消去」していく。
「あ……」
妖は悲鳴を上げる間もなく、雪が溶けるようにその姿を消していった。
後に残ったのは、キラキラと夜空に消えていく、綺麗な光の粒だけ。
「……消えちゃった」
自分の拳を見つめ、私は呆然とした。
父さんやお兄ちゃんがやるような派手なお札の舞も、難しい呪文もない。
ただ、殴っただけ。
「……驚いたな。我の力をこれほどまでに純粋に、かつ無駄なく身体操作に乗せるとは。お前、やはり術師というよりは、根っからの武闘家だな」
白耀が感心したように、私の頭を撫でる。
「あ、違うの。なんか、お札を使うよりこっちの方が確実な気がして。……これ、九条家の人間として怒られないかな?」
「結果は完璧だ。浄化の質も高い。……さて、ひより。感心している暇はないぞ。お前の放った霊気の波を感じて、家族たちがこちらへ急行している」
白耀の言葉にハッとして、参道の方に意識を向ける。
遠くから、心配と怒りが混ざり合ったような、猛烈な勢いの霊気が近づいてくるのが分かった。
「ひより! 大丈夫か!? 今行くぞ!」
「僕の妹に指一本触れさせない……!」
夜の街に響き渡る、父さんとお兄ちゃんの必死な声。
おやつをあげていたあの頃の小さな狐が、超美青年の「九尾の狐」になって私の横にいる。そして私は、そいつと契約してパンチで妖を倒してしまった。
どう説明すればいいのか頭を抱えている暇もなく、二人の影が石段を駆け上がってきた。




