第11話:過保護の防波堤と、少女の決意
「我が陰陽寮は、九条ひより様、あなたを『特級客員術師』として正式に迎え入れたい」
黒塗りの高級車の前で、片目に眼帯をつけた初老の男――政府陰陽寮の特務執行部室長、五条院 宗近は、深く頭を下げたまま動かない。
校門前という場所柄、まだ残っていた生徒たちの視線が突き刺さる。ただの地味な女子高生が、見るからにカタギではない重厚なオーラを纏った組織のボスに頭を下げられているのだ。遠くでマミが「ひより、もしかして由緒正しい極道の跡取り娘だったの……!?」と口をあんぐりと開けてガタガタ震えているのが見える。違うからね、マミ。これはもっとオカルトで、もっと命懸けのやつだから。
「現在、この街の地下深くで、過去最大級の『大穴』が開きかけております。昨夜のショッピングモールの騒動は、その前兆に過ぎません。これまでは九条家をはじめとする現地の術師たちに任せておりましたが、今回は規模が違う。どうか、その圧倒的な拳で、我が国の盾となっていただきたい」
五条院がゆっくりと顔を上げると、その眼帯の奥にある唯一の瞳が、冷徹な、けれど切実な光を放った。
私にお札の才能がないこと、そして昨夜、白耀の力を借りて「物理」で妖を一掃したこと。国家最高組織は、その全貌をすでに把握し、実戦データとして評価している。十年間、何も見えない「無能」として日陰を歩いてきた私に、国の一大事を左右するスポットライトが当てられようとしていた。
「くくっ……面白い。我が主を人の世の都合で矢面に立たせるつもりか、五条院とやら」
私の横で腕を組んでいた白耀が、低く愉悦の混じった声を出す。彼から放たれる目に見えない霊圧の波動が、五条院の背後に控える黒服の護衛たちを容赦なく押し潰し、彼らの膝をガクガクと震え上がらせた。アスファルトの地面が、ミリ単位でみしりと沈み込むような錯覚すら覚える。
「ひよりの拳は我のもの。その力をどう使うかは、この娘の意志一つだ。神獣たる我が契約者に、分を弁えぬ命令ができると思うなよ」
「……百も承知。九尾の君に逆らうつもりは毛頭ございません。ですが、九条ひより様。この街が、あなたの愛する平穏な日常が、根底から崩壊してもよろしいのですか? 大穴が完全に開けば、この千景高校も、そこに通う生徒たちも、すべて妖の餌食となるでしょう」
五条院の言葉が、私の胸に重く突き刺さる。
今まで何も見えず、ただ家族に守られてきた、退屈で、けれど温かかった日常。それがどれほど尊く、どれほど脆い砂上の楼閣だったか、霊能力が開花した今ならよく分かる。
「あの、私――」
私が意を決して口を開きかけた、その時だった。
「そこまでにしてもらおうか、五条院室長!!」
地鳴りのような怒号が響き渡り、校門前の空間を切り裂くようにして、二つの影が猛烈な勢いで飛び込んできた。
私服(今度は窓拭き業者ではなく、ちゃんとしたレザージャケット姿だ)に着替えた父・陣と、腕組みをして眼鏡を冷酷に光らせたお兄ちゃん・晴明だ。二人は一瞬で私の前に立ち、五条院の車との間に文字通りの「人間の防波堤」を築き上げた。
「九条家当主、陣殿。それに若き天才術師、晴明殿か」
五条院は眉一つ動かさず、静かに二人を見据える。
「五条院さん! うちの可愛い娘を、国の都合で使い捨てる防弾チョッキにする気ですか!? ひよりはまだ十八歳の女子高生だ! 青春を謳歌するべき普通の女の子を、そんな化け物どもの巣窟へ出すなど、親として、父親として、絶対に認めん!」
父さんの声には、いつもの過保護な甘さは一切なく、一人の優秀な祓い屋としての、そして何より娘を愛する父親としての確固たる怒りが満ちていた。彼の周囲の空気が、怒りの霊力で陽炎のように揺らめいている。
お兄ちゃんも、懐から数枚の青い呪符を音もなく取り出し、細い指先に挟んだ。
「陰陽寮のやり方は相変わらず反吐が出るね。情報規制を敷いて自分たちの無能を隠しながら、裏ではまだ高校生の力まで宛てにするなんて。僕の妹にこれ以上近づかないでくれないか。これ以上ひよりを巻き込むなら、九条家は明日から政府への協力を一切拒絶し、すべての結界管理を放棄する」
ピリピリとした、一触即発の霊圧が校門前で炸裂する。父さんとお兄ちゃんが放つ歴戦の祓い屋のオーラと、五条院が背負う国家組織の冷徹な威圧。さらに、私のすぐ後ろからは白耀が「いつでも全員纏めて塵にできる」と言わんばかりの黄金の神気を周囲に渦巻かせている。
その中心にいる私は、息が詰まりそうになりながらも、自分の右拳をぎゅっと握りしめた。
昨夜、妖の懐に飛び込んだときの、あの感覚。
白耀の力が私の体を駆け巡り、世界が鮮明に見えたときの、あの胸が高鳴るような衝撃。
そして何より――これまでずっと、傷つきながらも私を世界の悪意から隠し、守ろうとしてくれた、父さんとお兄ちゃんの広くて温かい背中。
(私は、もう……守られるだけの『お荷物』でいたくない)
「……みんな、やめて」
私の静かな、けれど誰も無視できない芯のある声が、校門前の緊迫した空気を貫いた。
四人の視線が一斉に私に集まる。
父さんがハッとした顔で振り返り、今にも泣きそうな顔で私の手を握ろうとした。
「ひより……? 大丈夫だ、パパとお兄ちゃんがこの狸親父を追い払ってやるからな……!」
「ううん、お父さん。私、五条院さんの話、ちゃんと聞きたい」
「「なっ……!?」」
父さんとお兄ちゃんが、まるで世界の終わりを目撃したかのような、絶望と衝撃の表情を浮かべて硬直した。
「ひより、何を言っているんだい!? 危険なんだよ!? 昨日の低級の群れとはわけが違う、地下の『大穴』から何が出てくるか……最悪の場合、生きては戻れないかもしれないんだぞ!」
お兄ちゃんが必死な形相で私の肩を掴もうとするが、その前に白耀が私の腰を背後から抱き寄せ、お兄ちゃんの手を冷ややかに払いのけた。
「触るな、小僧。ひよりは自分の意志で喋っている。我がお前たちの後ろに引っ込んでいろと言ったならともかく、本人が進むと言っているのだ。邪魔をするな」
「白耀も、ちょっと黙ってて」
私は白耀の脇腹を軽く肘で小突き、五条院の前に一歩出た。白耀は「おや、手厳しいな」と、むしろ嬉しそうにクスクスと喉を鳴らしている。
「五条院さん。私は、九条家の伝統的な術は一切使えません。お札の扱いも、呪文の唱え方も、お父さんたちみたいにはできないです。……でも、白耀の力を借りた私のパンチなら、誰も、建物も傷つけずに、妖だけを消せる」
私は五条院の眼帯の奥にある目を、まっまっすぐに見つめた。
「お父さんやお兄ちゃんが、血を流して傷つくのを、ただ家で待っているだけなのは、もう嫌なんです。私のこの拳が、みんなを守る盾になるなら……私、行きます。大穴を塞ぐ手伝いをさせてください」
私の言葉に、校門前が完全に静まり返った。
五条院は、驚いたように目を見張ったあと、深く、満足そうに口角を上げた。
「……素晴らしい。さすがは九条家の血筋、そして九尾の君に選ばれたお方だ。その気概、しかと受け止めた」
「ひより……お前、そんなに立派になって……うう、パパは嬉しい、誇らしい、だがやっぱり危ないのはダメだあああ!」
父さんがついに大号泣を始め、お兄ちゃんは「こうなったら、僕がひよりの代わりに大穴をすべて爆破して埋め尽くすしかない……!」と、危険すぎる目で呪符を睨みつけている。
そんな家族のドタバタを余所に、白耀が私の耳元に顔を寄せ、その長い銀髪で周囲の視線を完全に遮りながら、低く、ゾクりとするような声で囁いた。
「くくっ……最高の決意だ、ひより。お前がその気なら、我が力をいくらでもくれてやる。お前の拳となり、盾となり、世界のすべてを蹂躙してやろう。……ただし。ただで力を貸すほど、我は優しい神獣ではないぞ?」
「え……?」
振り返った瞬間、白耀の冷たい指先が、私の制服の襟元を少しだけ引き下げた。
そこには、昨夜彼が刻んだ、あの赤い契約の証が、夕暮れの光の中で怪しく、美しく発光していた。彼の指先がその刻印に触れると、全身に甘い痺れが走る。
「今夜も、我への『対価』をたっぷりともらうからな。魔力の供給、そして我への絶対の服従……。覚悟しておけ、我が愛しい契約者」
金色の瞳を妖しく光らせる白耀。その圧倒的な独占欲と執着に、私の心臓は、これから始まる命懸けの戦いへの恐怖とは全く違う理由で、激しく警鐘を鳴らし始めるのだった。




