エピローグ
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クロードは寝台に腰を下ろしながら、伝話機の受話器を握る。
伝話機とは、魔法を媒介に遠く離れた人同士の会話を可能とさせる機械である。どの一般家庭にも備わっているし、最近では小型化され、個人が持つようにもなった。
自室の窓から見える、落ちてきそうなほどに大きな満月を眺め、目を細める。太陽より優しい光は、どこか妖しさを纏っていた。
耳を澄ませば、受話器の向こうから笑声が聞こえる。
「異世界へ来た俺に、貴方はどこまでも率直で酷かったですね」
笑い含みの声は、クロードが助けた少年 碧のもの。あれから数年が経ち十七歳になった彼は、ファーガス家に引き取られ、ジャスパー・ファーガスと名を変えた。
「そうだったかな?」
肩を竦めたクロードだったが、思い出してみれば、確かに残酷な現実を何ひとつ隠すことなく、ミドリに伝えていた。彼の両親の死、この世界のこと、クロードがミドリを召喚したこと――それらすべてを、当時十二歳の、心と身体に傷を負った少年に話した。
クロードは苦笑を零す。過去の自分はなんと残酷だったのだろう。
しかし、それは今も変わらない。
「でも、僕は君がユキの異母弟じゃなければ、見殺しにしていたよ」
どこまでも真実を言葉にする。裏切りは許さないとばかりに、恩を売って。
「はい、存じています」
そう答えたミドリの方が、よほどクロードより精神は大人なのかもしれない。
*** *** ***
あの時――五年前、クロードがミドリを召喚した年。事故の怪我から幾分調子を取り戻したミドリは、現れたクロードに縋った。
『父さんから、頼まれたことがあるんです! 異母姉さんに伝えてほしいと……。だから、元の世界に帰してください!!』
悲痛な叫び声。クロードの耳に、今も残る。
信頼に足るかもわからないクロードに頼むあたり、ミドリは子どもで、藁にも縋る思いだったことは容易に知れる。
だが、この時のクロードは、助けた少年に手を差し伸べることなく、ただあっけらかんと告げた。
『彼女は、この世界にいるよ』
――その為に、君を助けた。
そう言わんばかりに、読めない笑みを浮かべて。
*** *** ***
「俺は」と、受話器から声がし、クロードは意識を再びミドリへと向けた。
「生かしてくれた貴方に感謝しています。だから、貴方の願い通り、学校で異母姉さんを見守ったし、自分が異母弟であることをまだ伝えていません。――すべては、父の願いを叶える術を、貴方が与えてくれたから」
彼の言葉通り、ミドリはクロードの意のままに動いた。
*** *** ***
この世界に召喚され、傷も癒えたミドリは、クロードの伝手で旧貴族のファーガス家に養子入りすることとなった。王宮には旧貴族が多く在籍しているため、繋がりをつくるには最適な場所なのだ。ゆえに、クロードは職場の知人にミドリを養子にする話を持ちかけた。
クロードは、ファーガス家の一員となったミドリと定期的に接触した。一見、助けた少年を心配しての面会のように思えるが、事実は異なる。彼をいつ異母弟としてユキに紹介したら良いのか、時機を見計らうためであった。
そうして二人で会って、何回目のことだったか。十四歳になって国立学院中等部に編入学したミドリは、クロードにこんなことを言った。
『この世界は、まるでファンタジーの世界です。俺の世界の物語であったことが、本当に存在している』
わくわくと瞳を輝かせながらミドリは語ったが、他方でクロードは眉宇を顰めた。ユキをずっと観察していたとはいえ、さすがにミドリとユキの世界の物語事情にまで詳しくはない。
そしてミドリに、彼の世界の物語事情を尋ね、クロードは目を瞠るのだ。
『そうですね……少年マンガとかアニメだと、学校に人気のある生徒のファンクラブがあったり、チートな生徒がいたり。恋愛関係でも、ツンデレとかヤンデレとか……えぇと、わかりますか?』
正直、さっぱり理解できなかった。が、続く言葉こそが、クロードにとっては衝撃だった。
『ハーレムとか、逆ハーレムとか、そんなのもありました。主人公が異性にモテるジャンルなんですが……相手はテンプレだと、妹・幼馴染・先生・クラスメイト・先輩・後輩などたくさんあるのですが、いかがわしい内容のものは妹や先生が人気だったかなぁ』
『……君、十四歳だよね? なんで、いかがわしい内容の人気についてまで知っているんだ』
普段、興味のないことは流しがちのクロードが、つい反射で突っ込むくらいには驚きと困惑、動揺で心が揺れていた。
それから数分後に気づいたのは、ユキの立ち位置。彼女は今、大学で教師になるための勉強をしている。そう、彼女は”先生”になろうとしている。
ミドリは、この世界は彼の世界の物語と似ていると言い、さらにいかがわしい内容のものは”先生”が異性から狙われる場合もあると。
――ユキを狙う者が現れるかもしれない、という可能性。
不思議なもので、それまでそんなことを考えたこともなかったのだと気づく。ただ、マルグリットにばかり注意を向けていた。
まだ、ユキはクロードを家族としてしか、見てくれてはいない。つまり、もしかしたら、どこかの馬の骨にユキを横から掻っ攫われるかもしれない。
焦燥が迫り上がり、目を眇める。
――どうしたら、ユキは自分だけを見てくれるだろう、と考えた。
それからだ。クロードが、ユキに『がんばれ』しか言わなくなったのは。
家族の行動は読めていた。彼らはひたすら、ユキの背中を押すことだけを言うだろう。彼女が折れた時のことなど考えず、応援をし続けるだろう。
ならば、と思った。
いつか、彼女が袋小路に嵌ってしまった時、自分の言葉でユキの心が手に入るように仕向けようと。
クロードがユキを手に入れる前に邪魔者が割り込まないよう、ユキの赴任した高等部では、ミドリに入学してからの二年間を見張らせた。なにかあれば、邪魔者を阻止できるよう。
すべては、クロードの願いのため。
ミドリには少しだけ申し訳ないと思うが、言葉にはしなかった。謝ったとして、クロードはミドリを利用することに躊躇いはなかったし、利用することをやめることはないから。言葉だけの謝罪ならば、意味はない。
*** *** ***
互いに物思いにふけっていたのか、ミドリとクロードのやりとりに間が空く。
それを先に破ったのは、ミドリだった。
「……本当は、俺は……異母姉さんには貴方に捕まらないでほしかった。異母姉さんが悩んでいるのを知っていて、貴方はその時を待っていたから」
「そんな君だから、助けて良かったと心から思うよ」
ミドリの言葉に、クロードは相好を緩める。
ミドリはきっと、誰よりもユキを一番に考える味方になってくれるだろう。
だからこそ、クロードはユキの心が手に入るまで、ミドリをユキに紹介しなかったのだ。ユキが一番の味方をつくってしまったら、ユキの心の隙間は埋まってしまい、自分が入る空きはなくなってしまう。
でも、ユキの婚約者となった今は、ユキの味方がいることを嬉しく思う。
「ユキの、いい家族になってくれ」
心からの言葉だったが、ミドリは皮肉で返す。
「俺を助け、再会させる貴方は、異母姉さんにとってどこまでも素敵な婚約者になるのでしょうね」
「ありがとう」
それすらも、クロードは楽しげに反駁した。本当に、彼はユキを大切にしてくれる。
ミドリは溜息を吐いた後、言った。
「――来週、異母姉さんに会いに伺います」
それを、クロードが拒むことはない。
「その約束だからね。お茶でも用意して待っているよ。……そうだ。君のお父さんからの遺言を尋ねてもいいかな?」
その時――ミドリとユキの父の死に際――を観察していたけれど、再び、聴きたくなったのだ。
ミドリは、一言一句違えず憶えているだろうか。
ミドリは何度目からの溜息を混じらせ、了承する。
「……仕方ないですね。『雪、君のことを忘れたことはなかった。逢いたかった。いつか、きっと。――どうか、幸せになってくれ』」
そう、この言葉だ。
クロードは睫毛を伏せ、ユキの父の最期の時を記憶から呼び戻しながら切なく微笑む。
その言葉は、クロードに祖父や両親の遺言を思い出させたのだ。
『――お前の未来に、幸多からんことを』
『愛おしい君に、幸あれ』
――クロードを救うため、命を捧げてくれた両親と祖父。
クロードは、祖父を憎んでいた。でも、本当は知っている。大人になる過程で、気づいていった。
祖父は、両親を愛していたこと。しかし、責任ある”大神官”という立場にある為、助けられなかったこと。
――今更。
本当に、今更になって、クロードは祖父を許せるようになった。
時間と共に融けていった憎しみ。目を逸らしていた真実に気づいたとして、最早どうしようもない。
祖父は、憎むことで生きる理由となるのなら、それも良いと言った。けれど、憎しみはクロードを盲目にさせ、真実を直視する力を奪った。
現実を知った時、残されたのは後悔。
涙が、一筋頬を伝う。
(――ユキ)
彼女が教師として在る姿は、まるで大神官であった祖父を思い出させた。義務と権利、規則と情の間で揺さぶられ、必死に佇む姿。彼女が秩序を守ろうと必死になればなるほど、生徒と溝が生まれていった。
大神官であった祖父も、きっとそうであったのだ。
それまでは、クロードは救われたこと、祖父が両親の話をする姿から、憎しみがじわりじわりと解れていったが、ユキが教師となってからは、大神官がなにを考えているのか理解できるようになった。本当の意味で、許せるようになった。
(ユキ)
彼女の存在は、いつも自分に救いをもたらす。
クロードは涙を隠すように、目元を片手で押さえて囁いた。
「来週、待っているよ」
「はい」
ミドリの声音は、クロードから許可が得られたと安堵するもの。
「では、失礼します」と言って、ミドリは伝話を切る。クロードも、受話器を置いた。
同時に、扉を叩く音がした。
クロードは目元を押さえる手を下ろし、涙を拭う。
「どうぞ」
言えば、開いた扉の隙間からユキが顔を覗かせた。
「ご飯、できたよ――クロードさん、どうしたの?」
首を傾げながら、ユキはクロードの部屋へと足を踏み入れる。一歩一歩、クロードとの距離を詰めていった。
ユキは屈み、ベッドに座るクロードの頬を手で包む。
「目が潤んでる」
そうして、そっと微笑んだ彼女は、クロードの頭を抱えるように抱きしめた。
「私が傍にいるよ」
優しい声に、クロードはユキの腰へと腕をまわすことで、くしゃりと歪んだ顔を隠した。
「……ユキ」
いつでも簡単に、クロードの心を捕らえてしまう娘。切なく痛むほどに、愛おしい。もう二度と離れられない唯一。
クロードはユキの身体を離すことなく、続ける。
「来週、ユキに逢わせたい人がいるんだ」
「誰?」
「それはまだ秘密」
目を瞑り、ユキのぬくもりと香りに心を和ます。
――クロードに囚われたユキ。
だが、本当に囚われたのは、クロードだった。
(ユキが、笑ってくれますように)と願う。いつだって、願っている。
「楽しみにしてる」
ふふ、と笑いながら言ったユキに、彼女の腰に絡みつく腕の力をきつくした。ともすれば、えも言われぬ安堵に包まれる。
――これで、世界とユキを繋げる鎖が二つに増える。
――婚姻という戸籍上の繋がり、そして、ミドリという血縁者の繋がり。
二度と引き離されることのないよう、世界とユキを繋ぎとめねばならない。
それでも、どうか。
(――願わくは、ユキに幸が多からんことを)
クロードは心の中で、囁いた。
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