03.名前のない出会い
「こんな場所で一体何をしていた?」
青年から静かに告げられた言葉にピクリと肩が揺れ、止まっていた時が再び動き出す。
「あ、その……特に何も。ただここで湖を眺めていました。……あの、あなたはあの小屋の扉を開けてくれた方の仲間、ですよね?その、勝手に部屋を抜け出してしまい、すみませんでした」
何かを探るように見つめてくる金色の瞳にたじろぎながらも、なんとか立ち上がり両手を揃えてゆっくりと頭を下げる。
その言葉と所作に青年は目を少し見開いたが、目を瞑っていた少女は知り得なかった。
「何故私がその者の仲間だと?」
「それは……貴方のベルトに吊るされている装飾と同じものが、あの時扉を開けてくださった執事服の方の胸元にもあったので、同じ組織の方だと判断しました」
確かにあの執事服の白髪の男性も同じ装飾を付けていた。
花の形をした装飾だったからなのか、何故か目に付いて覚えていただけだけれど……。
ぎゅっと緊張のあまり早まる鼓動を落ち着けようと、左手首を右手で強く握り締める少女に青年はその右手を掴んだ。
予想外の青年の行動に少女は目を見開き、青年の意図がわからず見つめ返していると、一瞬の浮遊感に襲われた。
「あ、あの!降ろしてください!」
「駄目だ。女性を裸足のまま立たせておくつもりはない」
気が付けば青年の腕に抱えられていた。
謂わばお姫様抱っこだ。
「ここまで裸足で来たので大丈夫です!」
「私の前では諦めろ」
「な!」
初めての事に戸惑うものの、青年の有無を言わせない物言いにふぅと息を吐き早々に諦める。
「……あとであまりの重さに腕がダメになっても、何も言わないでくださいね」
「ああ。そうやって大人しくしていれば大丈夫だ」
颯爽と歩き出す青年の顔を改めて確認する。
──やっぱりとてつもなく顔が整っている。
鋭さを感じさせながらも澄んだ金色の瞳に、カラスの様な艶やかな光沢のある黒髪と透き通った白い肌。
しかも体格も細身に見えて凄くがっしりしている気がする。
こんな人に、このまま抱えられていて本当にいいのかな?
何故かとてつもなく、悪い気がするんだけれど。
1人悶々と考えていると、湖の向こう側。
街がある岸辺の方からゆっくりと、無数の灯りが夜空へと舞い上がっていくのが見えた。
その光景が湖の水面にも映し出され、周りを舞う光の粒子と合わさりさらに幻想的な光景となっていた。
「あれは?……」
「あれはエトワレだ」
「エトワレ?」
「ああ。この領地、フローレンで開催されているブロッサリアという春の訪れを祝い、1年の豊穣を祈る祭典の最終日に行われる祈祷の儀式の事だ」
「そう、なんですね」
スカイランタンを初めて見るから、こんなにも綺麗で幻想的なものとは知らなかった。
脇目も振らず一心に、薄紅色の瞳を輝かせながら湖の向こう側だけを見つめる少女を青年はただじっと見ていたが、何かを振り切るかのように視線を逸らす。
「それで何故、部屋を出た?」
「それは……白髪の執事服の男性が、あの部屋の扉を開けてくれたのは覚えていたのですが、目が覚めたら誰もいない綺麗な部屋のベッドの上で、身体も綺麗になっていて、服も綺麗な物を着せられていたので、もしかしたら気を失っている間に、その……売られたと勘違いしてしまって、思わず……」
「確かに。そう捉えたのは仕方ないが、まさか2階の窓から逃げ出すとは」
「…………」
確かに、寝起きの女の子が2階の窓から裸足で逃げ出すなんて、なかなか想像できないよね。
「まあいい。それよりも、そなたは何故聖女の結界の外側に?」
「聖女の結界?」
どういうことかわからず、聞き返すと青年は歩く足を止めた。
「そなたは聖女の結界を知らないのか?」
「あ」
青年の反応にまずかった?と口を覆うも時すでに遅く、青年は少女に不審な眼差しを向けた。
そのあまりに冷たく鋭い視線に、一瞬怖気付くも左手を握りしめて言葉を紡いだ。
「あ、その……実は馬車の中での記憶はあるのですが、それより以前の記憶が……ない、というか、思い出せなくて……」
「それは確かなのか?」
青年の冷たさを感じる反応に、少し泣きそうになる。
いや、少しじゃなく結構不安すぎて本当に泣きたくなる。
もしかすると1番あってはいけない状況に置かれているのかもしれない恐怖に、ギュッと左手首を握り締める。
黙ったままでいる青年の顔が怖くて見れず俯いたままでいると、小さなため息のようなものが耳に届いた。
「そこまで不安になることはない。実際何かのショックで記憶を喪失する症例は確認されている。あとは記憶が自然に戻るまで待てばいい」
「そう……ですか」
気遣ってくれているような青年の言葉に、少しだけ安心感を覚える。
そういう症例って本当にあるんだ。
思わず記憶喪失ってことにしちゃったけど、これからどうしよう。
とりあえず、身の危険はもうなさそうだと少し肩の力を抜いた時だった。
不意に青年の足が止まった。
「記憶がないということは、これを見るのも初めてになるのか……。悪いがここからはこれに乗って移動する」
青年が言うこれが気になり、伏せていた目を向けると、そこには月光に反射して輝く黒い巨体に大きな翼、空色の瞳をした肉食恐竜のような不思議な生き物がいた。
これはもしかして──
「──この子は?」
「駈竜。名前はガルディエール」
「ガルディ、エール」
まさかの竜の登場に驚きながらも、その綺麗な姿に徐に手を伸ばすと、ガルディエールは目を細めながらゆっくりとした動作で顔を近づけてくれた。
そっとガルディエールの頬を撫でる。
艶のある鱗だけれど少しゴツゴツしてるけれど、羽毛のような立髪はふさふさだ。
「ガルディエールが自ら触れさせるとは……」
「?」
意味深な青年の言葉にどういう意味?と触れていた手を止めて青年を見上げる。
だけど感情を隠すのが上手いのか、その表情からは何も読み取れない。
とりあえず首を傾げると、青年は目を細めた。
「駈竜、特にガルディエールは無害と判断した者にしか、自ら近付くことはない」
「……」
それって、もしかしてガルディエールが近付いてくれなかったら、私はこの場で彼の剣で切られていたかもしれないってこと?
もしくはガルディエールに襲われていたのかもしれないってことだよね?
その事にサアァと血の気が引いていく感覚に襲われる。
それが表に出ていたのか、上の方から小さな笑う声が聞こえた。
それからふわりと体が浮き、ガルディエールの背に乗せられる。
「ではアルトリアに戻るとしよう」
ゆっくりと歩き出す青年とガルディエール。
一方の私はただ震えていた。
この人は私が本当に無害かどうか試したんだ。
もしかすると記憶喪失という嘘がバレると、殺されてしまうかもしれない。
生まれて初めて生き物の背中に乗る事に感動することもできず、ただ緊張のあまり手綱を握る手に力が入る。
いつもよりも高い視界。
太ももから伝わるガルディエールの体温とその振動に、森の中からずっと頭の中をよぎっていた考えが、これまでの出来事により現実味を帯び始め、やがて真実に変わる。
私は異世界に来てしまったんだ。
認めたくなかった答えにぎゅっと唇を噛み締める。
何も話さなくなった少女の様子を横目で観察していた青年は、あることを思い出したかのように少女に声を掛ける。
「記憶がないということは、そなたの名前は覚えているのか?」
「…ぁ……」
青年からの不意の質問に、思わず間の抜けた声が出てしまった。
そういえば記憶喪失ってことにしたら、自分の名前を覚えているのはおかしいよね?
生じた疑問に自分の名前を心の中で呟こうとした時だった。
少女は身体の中を電流が突き抜けたような、心臓がギュッと縮まった様な衝撃に襲われ、思わずヒュッと声を漏らし慌てて口元を手で覆った。
──名前が、出てこない。
名前。
私の名前は何?
私は……なんて名前だった?




