第17話 黒の記憶
「いやっ!!やめ……!い、いやああああっ!!」
悪夢にうなされたお嬢様が、何かを振り払うようにして寝具を跳ね除けると、がばっと身を起こした。
苦しげに荒い呼吸を繰り返している。焦点が合ってない瞳。滝のように流れる汗。私は、少し前から脇にひかえ、お嬢様の額の汗をそっと拭いているところだった。
怯えたように視線が彷徨い、ガタガタと震えながらこちらを向く。
「大丈夫。大丈夫ですよ」
そうっと囁くように微笑みながら私は言った。途端にお嬢様は、私の胸元に飛び込んできて、痛いくらい強い力でしがみつく。
濡れそぼったお嬢様の髪を、優しくタオルで拭きながら、そっと抱きしめる。
「ううっ!……うぐぅう──っ!ううううっ!!」
私の胸に必死に顔を擦り付け、獣じみた慟哭を漏らす。
ここ最近、お嬢様が悪夢にうなされることがなくなって、心底よかったと思っていたけれど……。お嬢様の背中を、やさしくさすりながら。
「もう安心です。ここには恐い人はいません。大丈夫です」
ぎゅっと私に更に強くしがみつくと、お嬢様はイヤイヤをするように顔を擦り付け嗚咽する。私は優しく何度も頭をなで、背中をさする。
病室の窓の外から差し込む月の光は、そんな私たちを照らしていた。
翌朝。
いつも通りお嬢様は、お着替えの最中、とても嫌そうに顔をしかめていた。急に恥ずかしがるようになった。表情は少ないが、そのくらいはわかる。
明け方の悪夢の事は、いつもと同じように憶えてない様子だった。いい事なのかはわからない。でも、普段の生活の負担になるよりは……。
お嬢様たちが食事をとっている間に、隣室の夫にメッセンジャーで、簡単に明け方の一件をつたえる。総執事の二階堂様にも報告はいくだろう。
幼少期に「あの事件」に巻き込まれたお嬢様は、まるで別人のように振る舞うようになったそうだ。些細なことで癇癪をおこし暴れるようになった。誰の言葉も聞き入れず、信じようともしなかった。
医師の診断は“境界性人格障害”──
そんな彼女が変わったのは、次の年に同じ組になった、悟桐財閥のご子息である悟桐鳳渡様と出会ったことからだとか。
少なくとも彼の前では、お嬢様はお淑やかだった。そして、彼に夢中だった。お嬢様の問題行動は、以前に比べると劇的に緩和された。
それは、お嬢様に甘い旦那様が「お転婆」と思える程には。
元のお嬢様の人格は、普段は奥底に閉じこもっていて、日常で表に出てくることはない。だが、事件の悪夢に襲われた後、“彼女”は現れる。今日の明け方のように。
事件直後から、最近に至るまで、それは日常茶飯事だった。連日、飛び起きて、私に縋りついて慟哭し、空が明るくなる頃に泣きつかれて少し眠る。そのことを朝には憶えていない。
だが、中学生におなりになり、お嬢様に異変がおきた。
薔薇の咲き乱れる庭園のテラスで。
風が吹き薔薇の花びらが舞うのを見上げて、お嬢様は──
『薔薇かぁ──いや、薔薇はダメだろ。ガチはないって』
というような事を呟いたと思う。意味はわからないが、その後姿に、その声に、愕然とした。
どう聞いても私と同じ30歳前後の落ち着いた大人の口ぶりだった。
そして、その後姿から漂う雰囲気も、大人のソレだった。
境界性人格障害で別の人格が現れたというよりは、十数年という時間をすっ飛ばして、大人の瀬梨華様が現れたのかと思った。
その後、お嬢様が急に気を失って倒れ、屋敷は大騒ぎになったのだけれど……。
そして、3日程寝込んだ……お嬢様は、激変していた。
私達、お嬢様付きの3人は、その変わりぶりに愕然とし、それを早く奥様や旦那様に報告しなくては、と走りだしていた。
ちょっとしたパニック状態だったのかも。お嬢様をほったらかして三人揃って報告にくる必要はない、と二階堂様に窘められてしまったし。
でも、私達は職務を忘れるほど嬉しかった。
お嬢様が、ふんわりと物静かに微笑むのを見て、私達は涙がでる程嬉しかったのだ。
と言っても……良い方向に変わるのは喜ばしい……だけど、今までとのギャップが激しすぎて。この変化が一時的なもので、急に元に戻るかもしれないし。
正直、どう接していいのかわからないこともある。
他の2人も、同じようなことをこぼしていた。
でも、あれだけ苦しんだお嬢様に、元に戻って再び苦しんで欲しくない。あれだけ隔絶していた旦那様とも、昨日少し歩み寄れたらしい。
『お父様が、私の名前を呼んでくれて……優しく頭を撫でてくれたの』
はにかむように微笑むお嬢様は、とても幸せそうで。今のように穏やかに楽しそうにしているお嬢様を、何としてでも守りたいと思う。
★ ★ ★
もう、時計の針は午前3時を過ぎていた。
珍しく、竜堂剛は自宅の書斎で夜を徹して、書類に目を通し裁可して、ノートPCでメールやドキュメントなどを確認し、膨大な仕事をこなしていた。
「井吹、この計画の稟議はOKだ。この書類を太田部長にまわしてくれ」
「畏まりました。社長、あまり根を詰めすぎるのも……一息つきませんか?」
秘書の井吹が、書類を受け取るとコーヒーカップをデスクの脇におく。
眼鏡をトレイに置き目元を揉みながら剛は、ふうっと息を吐いた。
「そうだな……一息入れよう。付きあわせてすまんな、井吹」
「いえいえ。お嬢様に大事がなくて何よりですし……よかったじゃないですか」
少し空いた間は、おそらく『お見舞いに行けて、その上ちゃんと名前で呼べて』と入るのが剛にもわかった。
わかったが、それでも尚テレくさいのか、黙ったまま剛は赤面しソッポを向いてコーヒーに口をつける。
上品なコーヒーの苦味と甜みが喉を滑り落ち、芳醇な焙煎香が鼻に抜けるのを感じて、剛はしみじみと、瀬梨華を見舞いに行った時の事を思い出す。
娘が、自分を怯える眼差しで見た瞬間から、剛は娘の名前を口にすることができなくなった。不甲斐ないと言われればそれまでだが、恐ろしかったのだ。娘にこれ以上、畏れられるのは。
妻からも散々言われ続けてきた。その態度が、どれだけ娘を傷つけているか、と。
酷い父親だ。自分でも、そう思う。
それが、剛を余計に躊躇させた。気がついた時には悪循環に陥っていた。
やっとの思いで、病室に入って娘を顔を見た時に。
不安そうで消え入りそうな顔をしていた。自分に似て無表情ではあったが、微かに震える唇。潤んだ瞳。蒼白の顔色。
──俺は、娘にこんな顔をさせたいんじゃない!
肚を決めた。遅すぎたのは十分わかっている。だが、もう背を向ける訳にはいかない。
たった一言、それを口にするのに、こんなに緊張するとは。
照れも怯えもなく、ただ想いが言葉になって出た。
途切れ気味に零れた声は、娘の名を綴り。
剛は「瀬梨華」という名前を口にした。
「だ、大丈夫です……え、えと、こんな大騒ぎになって、申し訳あり、ません」
こないだまでは、子供じみた癇癪を起こしたりする少し我儘なお転婆だった娘が、急に大人びてお淑やかな少女になったと剛は思っていたが。
急に剛が名前で呼んだので、一瞬、何が起きているのか理解ができず驚いたのだろう。
その時の瀬梨華は、狼狽えて戸惑うただ普通の中学生の娘だった。
「……気にするな。酷い怪我じゃなくて……よかった」
「しっ、心配かけて……ごめんなさいっ……!」
叱られると思った子供が、一生懸命、素直に親に謝る。それだけのことだった。
だが、それは剛の中で遠い昔の……まだ瀬梨華と隔絶する前の頃の記憶を鮮烈に蘇らせた。
イタズラをして剛に注意されると泣きそうな顔で謝っていた瀬梨華。
上手に絵がかけたと剛が褒めて頭を撫でると、蕩けるような笑顔で喜んでいた瀬梨華。
ふと、剛は自分の手が、瀬梨華の頭に伸びているのを感じた。無意識に思い出と同じようにしていたのかもしれない。
それに気づいた瀬梨華が、ビクッと身を竦める。
────!!
剛は、自分の迂闊さに凍りついた。何をしているんだ、俺は。
これ以上、怯えさせてどうするんだ!?
ぽふ。
……くしゅくしゅ。手を引っ込めようとした瞬間、瀬梨華が自分から頭を剛の手に押し付けてきた。娘の柔らかいハニーブロンドの髪の毛の感触。
瀬梨華は、目をつぶって必死の形相だった。
剛に歩み寄ろうと物凄い覚悟で、頭を押し付けてきたんだろう。
なんて不器用で、無性に可愛らしく、愛おしく思えた。
──こんなところは、俺に似なくていいのにな。
そう思った途端に、剛の肩から力が抜けた。ふぅ、と息をつくと、剛は細心の注意をはらい、出来るだけの愛情を込めて、ゆっくり優しく瀬梨華の頭を撫でた。
そのまま幾つか言葉をかけると、瀬梨華は顔をくしゃくしゃに歪めて、ポロポロと涙をこぼし始めて何度もしゃくり上げた。
剛は感極まって、思わず瀬梨華を抱きしめたい衝動に駆られるが、妻の碧衣にスーツの裾を引っ張られて我に返った。
碧衣の目は露骨に「それはダメ」と訴えていた。
それはそうだ。瀬梨華は怪我負っている。
そっと、瀬梨華の肩に手をおき、ゆっくり寝かせてやり、布団をかける。
もう一度、頭を撫でて「もう、今日は寝なさい」と言うと、瀬梨華は泣きはらした顔でふにゃっと微笑む。
「おやすみなさい……お父様」
剛は、その顔をみた瞬間、心臓を鷲掴みにされたような衝撃を受けた。可愛い!可愛い過ぎるぞ!なんなんだ!?ウチの娘は!!
…………。
あどけない瀬梨華の微笑みを思い出して、剛は頬が緩むのを感じた。
ふわふわとした物思いに耽っていたのを、井吹が軽く咳払いをして現実に引き戻す。
──ちっ。
井吹に見透かされているのと、山と積まれた書類の楽しくない現実に、剛は思わず舌打ちを漏らす。
「で……軽井沢に行っている間、この屋敷の方はどうだったんだ?」
色々と突っ込まれると面倒なのは長年の付き合いで判っているので、剛は話題転換がてら気になっていた事を井吹に訊ねる。
「二階堂さんからの報告によると、大騒ぎになったんですが……周防さんが足止めして拘束したみたいですよ?」
言わずもがな、ではあるが、確認せざるを得ない。
「…………北斗、か?」
井吹は溜息交じりに頷く。彼は龍胆ホールディングスの社員であり、剛の秘書でもある。付き合いも長いし深いのだが、それでも剛の家庭の問題にズケズケと口出しできる立場ではない。
「俺が言えた義理ではないが……北斗と瀬梨華も、どうにかならんのか?」
本来、井吹に言う事柄ではないが、思わず愚痴が零れる。
「あちらもあちらで、相当に拗れてらっしゃるようで……」
親とは言え、出来ることは限られている。朝の通学を同じ車に乗せて送らせているのも、その1つなのだが……今一つ、というか全く効果をあげていない。相良の報告によれば、全く会話した形跡がない。
諺で「馬を川辺に連れていくことはできるが、水を飲ませることはできない」というが、親が命令したところで、「はい、そうですね」と仲良くできる訳もない。
根気よく見守りつつ、それとなく助力したりし続けるしかないのだろう。
「……あと、お嬢様の件で。学苑内に問題があるようですが、私どもの方で何か手配いたしますか?」
瀬梨華は、一切口にしないし、直接何も言わないが、おおよその事態を剛も碧衣も把握はしているのだ。
『ウチの娘になんてことしやがる!』と言う激烈な怒りは剛の裡でジリジリと焦がすのだが。何か表立って行動をするには、竜堂の家名が大きすぎるのだ。
内心では、娘の安全の為なら国の経済を傾けてでも事をなすくらい、どうということはないのだ。ウチの娘一人を守れないような国なんぞ、知った事か、と剛は真剣に思うのだ。
国を傾ける程でないにせよ、剛が学苑に電話を一本入れて怒りに任せて文句を言っただけでも、どれだけの影響があるか。下手をすれば、都教育委員会から学苑校長まで何人かのクビが飛んでもおかしくない。あるいは、文科省の官僚が何人か地方に飛ばされるかもしれない。
しかし、そんな事をしたとして、果たして今の瀬梨華が喜ぶのか?
その事実を知った時に、剛だけでなく瀬梨華もその責を負う。本人の手を離れた処で、起きた事態の責任を負わせるのは、親として最小限にすべきだろう。
それでも口さがない人々は「子供の我儘で、子会社の社長をクビにした」「娘の癇癪で契約先を切り替えて、取引先を潰した」などと、事実とは掛け離れた噂を、さも事実のように語る。
結局のところ、どれだけ巨大な力をもっていようと、それを行使すれば、その咎は瀬梨華に返ってきてしまう。
どんな悪辣な人間にも生活基盤があり、その周辺には家族や友人がいる。その人達がみな悪徳な訳ではないのだ。巨大な力は、そういう人々を巻き込んで、生活を破壊しかねない。
誰からも責められなかったとしても、瀬梨華自身が自分を責める。娘にそんな責を負わせるのは、親としてあまりにも無責任だと剛は思う。
だから…………。
「観察を密にできるか?一定以上の危害になる要因は、水面下で穏便に処理しろ。誰にも関連性は悟らせるな」
全部をぶち壊さなくても方法は、いくらでもある。
親の栄転、海外留学推薦、ヘッドハンティング……数え上げればキリがない。
要は、危害になる対象が「喜んで瀬梨華から離れれば良い」のだから。
勿論、なんでもかんでも障害を取り除いていては、瀬梨華の教育上よろしくはない。が、犯罪行為やそれに準じるような危害から娘を穏便に護るのに手段を選ぶ必要はない。
今回の件も、直接、瀬梨華に手を出した生徒やその家族に何かするつもりはない。
だが、剛の把握している状況では、裏で色々と複雑に絡み合った動きがあった。生徒を扇動するような噂の流布、煽る生徒、唆す大人。その行動を操作している何人かを、セキュリティサービスの方でもマークしている。
「大本の黒幕がいるかどうかは、まだ不明だが……マークしている危害の少ない者を泳がせたとしても、ある程度排除して減らしておく必要がある」
「畏まりました。あと……もう少し調査が進んだ段階でのお話ですが……。この扇動の規模が予測出来た時点で、我が社内の関係者の身辺を洗い直ししたほうがいいかもしれませんね」
「ウチの社内からも、情報が漏れているのか?」
「確定事項ではありませんが。ウチの社内に詳しい人物からの情報を元にして、お嬢様を貶す作り話が、学苑内SNSで拡散しておりましたので」
やれやれと言う調子で剛は肩を竦める。コーヒーカップをソーサーに置くと、確認途中だった書類に手を伸ばす。
「子供同士の諍いだどころか、随分とキナ臭い話になってきたな……」
もっとも公にはなっていないが、瀬梨華を標的とした犯罪未遂計画は後を絶たないのだ。
たとえば、誘拐監禁を狙ってた犯罪グループが別件で検挙されたり、拉致恐喝を画策していた半グレ集団が別件で逮捕されたりと、瀬梨華本人の知らない危機が回避されたのは、それを竜堂のセキュリティ部門が、注文通り秘密裏に仕事をしてきたからだ。
先ほど剛が言った『水面下で穏便に処理しろ。誰にも関連性は悟らせるな』という指示通りに。
★ ★ ★
瀬梨華は、順調に回復し東京広尾の病院に移った。
その病院のロータリーに黒塗りの英国製セダンが停車する。黒服の運転手が降りてきて、後部ドアを恭しく開ける。
二人の男女が車から降り立つ。周囲を行き来する人々が思わず振り返って凝視するほどの美貌の二人だった。少年と妙齢の女性だった。母子というには、女性は若かった。
出迎えるように黒いワンピースの清楚で柔らかい印象の女性が、近寄る。
「悟桐鳳渡様、真希様。お忙しいところ、わざわざご足労いただきありがとうございます」
「ありがとう。篠原さん、瀬梨華の具合はどうですか?」
深く頭を下げる篠原と呼ばれたワンピースの女性に、少年が優雅な所作で応じて、にこやかに声をかける。
「お嬢様は、順調に快復に向かっています。むしろ、元気が少々余ってしまっているくらいで」
乃愛の返事に鳳渡が苦笑を浮かべて頷く。彼の後ろにいた女性が、ひょいっと顔を出して気楽に乃愛に挨拶をする。
「乃愛先輩、お久しぶり。鳳渡くんがお見舞い行くって聞いたから、くっついて来ちゃいました」
「お久しぶり。今、上にご案内致しますわ」
乃愛の大学の後輩の悟桐真希は、鳳渡の叔母にあたる。久しぶりに乃愛に会えるということで、鳳渡に同伴してきたのだ。




