第59話 紅の月、王国の二人の時間
城の夜は、いつもと違っていた。
蝙蝠たちの羽音が遠く、風が通り抜ける音だけが静かに響く。聖女リシェルは石造りの回廊を歩きながら、壁に灯る青白い炎をじっと見つめていた。吸血鬼の城に、人の温もりが灯るなど、誰が想像できただろう。
「寒くないか?」
背後から悠の声がした。赤い外套のまま、彼は手に銀のカップを二つ持っていた。
「……血ではない。葡萄酒だ」
「ふふ、少し安心しました」
リシェルは小さく笑い、カップを受け取る。月明かりの中、彼女の横顔はどこか懐かしく、悠はその微笑をただ見つめていた。
(この顔……声……しぐさ……全部、あの時のままだ)
だが、彼女はもう“あのリシェル”ではない。新たな魂、新たな時代に生まれた“聖女”だ。
それでも心が勝手に、過去を重ねてしまう。
「悠様は、なぜ人間を憎まないのですか?」
リシェルが問う。
「たくさん殺されたのに、復讐しようとは思わないの?」
悠はカップの酒を一口だけ飲み、夜空を仰いだ。
「最初はそう思ってた。でも、何度転生しても結局……誰かを守りたいと思ってしまう。それが人でも、魔でも、もう関係ない」
「……優しいのね」
「優しいんじゃない。諦めただけさ」
悠は自嘲するように笑った。けれど、リシェルは首を横に振る。
「優しさを、諦めと呼ぶ人ほど、本当は優しいの」
その言葉に、悠の胸が強く締めつけられた。
(……ああ、本当に“リシェル”なんだ)
理屈ではなく、魂がそう感じていた。
日が過ぎ、二人は少しずつ言葉を交わすようになった。
城の図書室で古代語を読み解き、庭園で夜咲く花を見ては語り合った。
人と魔。敵と味方。そんな境界線が、少しずつ薄れていく。
ある晩、リシェルがふと呟いた。
「もし生まれ変われるなら……また会いたいです。悠様に」
悠は目を細め、ゆっくりと微笑んだ。
「それは困るな。俺はもう、十分に会っている」
「え?」
「お前が誰であっても、俺は……また、惹かれるから」
リシェルの頬がほんのり赤く染まる。
そして、彼女もまた、小さく笑った。
「では次に会うときも、私が見つけます」
「ふっ、期待してる」
夜空には紅の月が浮かび、吸血鬼の王と聖女の間に、静かな温もりが流れていた。




