浮き雲。白靄。
神の船旅。いつだか、空を泳ぐ雲についてそんな表現をした人がいた気がする。天上世界にいる神が、自らより速く飛べるにも関わらず、情緒を味わうために、いわばロマンを求めてゆったりと浮く雲を足に旅をするのだ。その間も常々動きまわる下界で、延々忙しく働き続ける人間を観察し、時にその力を持って援助し、時にその力を持って制裁する。旅路に下界を視察するのも、圧倒的な創世者たる神からしてみれば、娯楽の一つに過ぎないのかも知れない。人類など、所詮自然の摂理を逸脱することなど出来ないのだ。
自然破壊をしていると言う。しかし、視点を大きくしてみると、自然と定義されるものを破壊する人間という存在もまた、自然の一部なのだ。自然が自然によって乱されることなど無く、それは結局、当然ともいえるべき運命であり。その輪廻から抜け出すには、人類という存在はちっぽけ過ぎる。個々で生き抜けない生命に、天上を目指す力は無い。
僕のやろうとしていることも、結局はその輪から逸脱することなど叶わないのだろうか。敵わないのだろう。
でも。
ただ一つ、世界を捻じ曲げる程度の事なら、旅路の中で、悠長に下界を覗き見る神のその雲を、吹き飛ばす程度の事ならば。
やって見せるさ、僕が、この手で。
腕時計を確認して、まだ時刻は四時限目を終えていない事を知る。太陽は早くも傾き始め、僕が寝転んでいる木の影を形成する。僕自身の影は、木の下にいる所為で出来ていなかった。少しばかり、お腹が減ったかもしれない。購買に向かおうかと思って、立ち上がる事に対する気だるさが勝って諦めた。こうしていると、眠気とともに気だるさが押し寄せてくる。涼しい秋風を受けて、眠ってしまうには、ここは絶好の場所にも思えた。いっそ放課後まで寝てしまおうか。そんな思考も首を擡げたが、即座に否定した。それはちょっと、きついだろう。見回りの教師もいつここに訪れるか分かったものではない。今までだって二時間、授業をさぼってここにいるわけだが、未だ見つかっていないのが奇跡のようにも思えた。見回りも、この風に当てられて気だるさを感じているのだろうか。
見上げた空には、ふわふわ浮かぶ雲が見えた。ふわふわ、ふわふわしているのに、どこか重量感を感じさせる。雲は不思議だな、呟こうとして、止めた。空を見上げた視線が校舎の窓際も捉え、そこで、三階の教室からこっちを見降ろす視線に気づいた。遠目からもしっかりとした顔立ち。蒼ちゃんか。彼女の教室からだと、僕の方を見るのに若干顔を後ろに向ける必要があるが、授業中だと言うのに、蒼ちゃんは教師に咎められていないようだった。蒼ちゃんから視線を外し、また青々とした空へ。白く靄がかかって見えるのは、薄い雲がはっているからだろうと分かった。群青の空は、今日は望めないらしい。真っ白に浮かぶ船を眺め続けるのにも飽きが来て、僕の視界は、だんだんと閉じていった。
「先輩」
声が聞こえる。夢なのか一瞬考えて、そうでない事を確信した。意識がある。視界は暗いけど、それは目を閉じているからだ。薄く眼を開いて、視界の一部を埋める木と、残りすべてを占拠する蒼ちゃんの顔を見た。「起きましたか」蒼ちゃんの質問に、頷いて答えた。まだ頭がぼんやりとしている。空腹が本物になっているので、きっと昼なのだろう。
「腹減ったよ」
「第一声がそれですか」
「なんせ僕だからね」
「納得です」
「失礼な」
寝起きのやり取りを交わしてから、腹筋に力を込めて上体を起こす。「わっ」と少し慌てた風に蒼ちゃんが顔を引っ込めて、激突は免れた。危ない危ない、失念してた。
「ゴメン、忘れてた」
「目の前にあるものを忘れる方法を教えてほしいものですね」
「無茶言うなよ」
「どっちが無茶苦茶ですか」
「いつでも君だね」
「折角おにぎり買ってきたんですけどね」
「流石蒼ちゃん。公明正大で結構なことだよ」
「特技に手のひら返しを入れた方が良いと思います、先輩は」
「世渡り上手なんだね。いただきます」
受け取ったおにぎりを二口で胃に納め、満たされはしないものの購買に行く気にもやはりなれず、無視できる程度にまで落ち着いた空腹は、スルーすることにした。
「して蒼ちゃん、何しに来たの」
「先輩が寝ているようだったんで様子を見に来ただけですよ。それも二時間目から」
「気付いてたか」
「そりゃあもう」
言って、蒼ちゃんは僕の寝転ぶ隣に、同じ態勢で寝転んだ。少し無防備が過ぎる気がしないでもないが、僕がいることだし、危機感は無いのだろう。僕に対する危機感も少しはあったほうが良いとは思うけど。いや、何もしませんよ?
「ああ、これは寝ますね」
「でしょう?」
「先輩」
「何さ」
「寝ていいですか?」
「起こさないよ」
「いじわるですね。……別に良いです」
「わお。優等生ちゃんが不良になり下がった。僕なんかとつるむから」
「怒りますよ」
「冗談だよ」
自分を卑下しないでください。先輩は、私たちが惚れた人なんですから。達としたところに若干の照れ隠しが混じっているような気がしたけれど、そこを突くのは憚られた。そっか、と、答えになってない答えを呟いて、隣にある顔を見つめる。目があって、しばし見つめ合って、顔を朱に染めた蒼ちゃんがそっぽを向いてしまってからも、しばらく僕は彼女の後頭部を眺めていた。静かに寝息が聞こえるようになって、つられるように目を閉じる。ずっと寝ていたはずなのに、睡魔は未だ健在らしかった。いいだろう、全力で負けてやる。
真面目な蒼ちゃんを巻き込んでしまったのは悪いけど、これは全部、秋の空の所為ってことで、一つ。
見回りの教師には、見つからなかった。
少し斜めがかった芝生の上で寝てみたい。そんな願望より。春よりも、きっと秋のが気持ちいいと思うのです。
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