旋律。夜想曲。
研究室には、当然ながら飲み物を完備しているわけではない。冷蔵庫こそ、僕が実験の片手間に作ったものが置いてあるが、しかし、中に食糧や飲料の入っていない冷蔵庫など、全く無駄に等しい。
というわけで、購買に買い出しである。買い置きすれば保存は効くのだが、以前冷蔵庫に買い置きしてあった飲料類が授業で実験室を使ったクラスの人間に根こそぎ持って行かれたらしく、思わぬところで予想だにしなかったボランティアに興じることにさせられたのは苦い思い出だ。僕は同じ過ちを繰り返さない聡明な人間なので、しっかりと反省をし、面倒を厭わず毎度買い出しに出ることにしている。全ては無駄な出費を抑えるためだ。こう見えて、僕はとても節約家なのだ。エコの精神は常に念頭に置いているのである。地球に優しい僕にこそ崩壊の権利も与えられたのだ。なんて。
購買に出向いて新発売の札が貼ってある少しばかり毒々しい、コーラで無いのに黒みがかったその名も「ひじきソーダ」(地雷臭がするのは承知の上だ。僕は研究者なので、探究心は絶対不可欠のものである。とはいえ、実は実験台が欲しい心境)を購入し、足早に実験室への道を戻る。誰か来ていたら犠牲者もとい実験台もとい少し分けてあげるつもりで足を進めつつ、閑散とした廊下を歩っていると、僕の耳に、優しげなピアノの音が聞こえてきた。あまり音楽を嗜まない僕でも知っている曲。確か、ショパンのノクターン二番だったと思う。美しく切なげな主旋律が、僕の鼓膜を震わせる。しばし聞き惚れて、曲が終わるタイミングを見計らって、進路変更、音楽室に立ち寄ってみた。あんまり役に立ってないようにも思える程度の防音機能がついた戸にに手をかけ、手前に引く。と、同時に。
殴りつけるかのような導入から、走り抜けて下る音。驚いて一瞬身をすくませ、すぐにそれも効いた事のある曲だと気付く。同じくショパン、エチュード一二番の通称『革命』だ。演奏者はショパン好きなのかなとか思いつつ半開きにしたドアから盗み見るように中を覗き、思わず「あ」と声が漏れた。聞こえてしまったのか、相当の技巧を演じていた指の動きが止まり、演奏者の彼女の目が僕を射抜く。
「ごめん、邪魔しちゃったかな」
「ええ、この世に生きるどの存在よりも邪魔よ」
「じゃあ無機物よりはましなんだね、良かった」
「ちょっと、貴方如きと無機物様を同等に見ないでくれる? 無機物って役に立つものが多いのよ、貴方と違って」
「手厳しいなぁ」
最早言うまでもあるまい、さっきまで演奏していた主は、どうやら明音さんだったらしい。まさか彼女にマトモな特技があるとは思わなかったが、そういえば、明音さんの家は金持ちなんだっけ。そう考えると、お嬢様のイメージが強いピアノやヴァイオリンなど、似合わないでもないような気にさせられる。日頃の居振舞いは、それだけ見れば清楚と言えなくも無いのだ、この人は。
「さっきからとても失礼な表現で誉められている気がするわ」
「安心してほしい、誉めては無いから」
「そう、殺せばいいのね?」
「どっからそう判断したんだ!?」
「貴方の存在からよ」
「僕は世界に不要だと言うのか!」
確かに崩壊させようとしているけど。世界から見れば不要の極みだろうけど。君は僕のこと、好きなんじゃなかったかなぁ!
「好きよ、ええ。殺しちゃいたいくらい」
「歪んでるなぁ!」
「そうかしら? 独占欲が強いだけよ、貴方を殺して、ぐちゃぐちゃに侵して、それで私だけのものにするの。他の誰にも渡さないわ。貴方モテるじゃない? いつも気が気でないのよ。ね? だから……」
完全に据わった目で、明音さんは僕の眼を覗き込む。
「私に殺されて?」
「絶対嫌だ!!」
本当に嫌だ。この人に殺されるのだけは絶対に嫌だ。他の誰が僕にどんな恨みつらみを持って殺されるとして、それでも、その死体は明音さんに殺られた死体よりも間違いなく綺麗だと断言できる。そんな死に方はしたくない。世界をどうこうしようとしている身ゆえ、綺麗に死ねるとは思ってないし綺麗に死ぬ気も無いが、尊厳死なんて言葉もあるように、僕には僕の死に方があるのだ。明音さんに任せてしまったら死体が死体に見えるかすら危うい。尊厳のその字も浮かばないだろう。
「ていうか、セリフがすでにヤンデレのそれでしか無いよ明音さん……」
「あら、独占欲の強い女は嫌いかしら」
「明音さんの事は好きだけどね。独占欲は強くても結構だけど、それでおぞましい目に遭うんだってなら僕はそれは嫌だ」
「そう。私の事を好きなら、別に良いわ」
「そこを強調しないでよ……」
僕のぼやきを完全に聞こえないふりでスルーして、明音さんは再び、目の前の鍵盤に向き直る。流すように弾きだした曲は、どうやらモーツァルトのソナタの一つらしかった。オーパスがなんだの言われてわかる僕ではない。
一人の演奏者に、一人の聴衆。僕一人が独占するリサイタルみたいで、悪くない気分だった。僕も実は独占欲の強い人間なのかもしれないな。
結局三曲程弾いてから、ようやく明音さんはピアノの蓋を閉じた。ふうと息をつく彼女を見て、僕は思い出して手元のペットボトルを手渡す。
「飲んでいいよ」
「ありがと」
ラベルも見ずにそれを取って、少し力をこめてキャップを開けると、明音さんは何の躊躇も無く口をつけた。わずかに喉が動いて、黒ずんだ液体が流れて行く。
「……」
「……」
明音さんは、意外と多く中身を飲んでから、ペットボトルを僕に返した。何の反応を示さないのでこらえきれずに聞いてみる。
「それ、美味しい?」
「壮絶な味だわ。色がファンシーだから気にならないけど」
「……」
つまりまずいってことだよね、それ。
「それじゃあこれ全部あげるよ……」
「嫌よ。貴方が飲みなさい。もしくは最低限、一口はいきなさい」
「なんでさ」
「間接キスみたいなのも、ほら、たまにはいいじゃない」
「……さいですか……」
否定する気にもなれず、僕は否応なしにひじきソーダを胃に流しこんだ。確かに異様な酸味と甘みと苦みと、とにかく様々な味が舌を蹂躙してくる。率直に言って、超まずい。失敗だったか。
「ほら、顕正。行くわよ」
「あぁ、うん。そうだ、明音さん」
「何よ」
「ピアノ、また聞かせてくれるかな」
「……気が向いたら、ね」
「ありがとう」
僕のお礼に明音さんは少し頬を染めて、わざとなのが丸わかりの憮然とした態度で先を歩き始めた。この人は、こういう面ではとても初心で可愛らしいと思う。
耳に残る旋律は、いつも彼女が僕に植え付ける戦慄とは全く違う味がした。駄洒落だね。
更新停滞していました。特にこれと言った理由も無く、単純なネタ不足です。楽しみにしていただいていた方、申し訳ない。今後はやっぱり善処します。
それでは、感想評価等いただければ幸いです。




