追憶。見果て、最果て。
「また、お気楽な神どもが散歩してるわね」
二人きりの実験室で、明音さんが何でもなさそうに呟いた。
「神?」
「そうよ。あら? 前に言わなかったかしら。流れる雲には忌々しい神どもが乗っていて、下賤な人間社会を見下しながらにやにや笑っているのよ、気持ち悪い」
「それ君の論理だったっけ……」
言われてみればそうだった気がする。でも、なんだか僕の思い出は多大に美化されているらしい。相変わらず、毒々しい言葉遣いだ。
「私がそんなロマンチストな発言をすると思っているのかしら、貴方は」
「思ってるよ。ほら、だって明音さんの部屋には写真立てが――――」
「ごめんなさい、それ以上は一文字に付き貴方の寿命が千年減るわ」
「即死フラグじゃねぇか」
「ふらぐ? なにそれわかんない」
「急にキャラ変えるな! 明音さんが無知のボケキャラやっても可愛くないから!」
「それは私なんぞブスでどうしようもないからブリっ子のまねをするな気持ち悪いと言っているってことよね?」
「曲解だ! いや、誇大解釈だ! そこまで言うつもりは無いよ、しかも明音さん相手に」
僕は保守思想なのだ。こんなところで死にたくないし。
「なるほど、そこまでは、言わないと」
「一々揚げ足を取る人だなぁ」
「貴方に言われたくないわね」
「僕も少しだけそう思ったよ」
短い言葉の応酬を交わして、ようやく鎮まる。ああ、でも、幻滅だ。神の船旅、結構気に入ってる表現だったのになぁ。明音さんにかかれば、どんなセリフも棘に覆われそうだった。素直なところもあるはずなんだけどな。
「顕正の中の私のイメージを良い方向に持っていく必要は無いのよ。だって貴方、現状で私の事かなり好きでしょう?」
「大好きだよ、忌々しい事に」
「そう。私も大好きだわ。貴方に出会えた事をくそ忌々しい神に感謝してもいいくらい」
「よっぽどだなぁ。て言うか、よくそんなセリフを恥ずかしげもなく言えたもんだね」
「貴方もよっぽどよ」
そうかなぁ、と首を傾げ、窓の外、明音さんが吐き捨てた雲を見上げる。空は風が強いのか、普段見上げるそれの倍速で、雲は青の中を移動していた。あの雲も、いつか耐えきれなくて地上に落ちるんだろうか。人間の日常で手軽に見上げられるのが雲で、だから、彼らには是非とも僕ら翼を持たない者の羨望に答えてほしいところなのだけれど、まぁ、あちらがたからしても、それは難しい事なのかもって、暇を持て余して雲を擬人化してみる。あんまり面白いものじゃないね。
「ねぇ顕正」
「うん?」
明音さんに呼びかけられて、僕は目線だけ彼女に向けて応えた。
「吐いて捨てたいような過去は、吐いて捨てるべきなのかしらね」
重々しげな調子は一切なく、至極どうでも良さ気な質問。答える必要も無い気がしたけれど、僕は口を開くことにした。
「過去は、吐いても捨てられるものじゃないよ」
*
ゆらりゆらり。
まどろむ僕の脳が、脳だけ宙に浮いたかのようにゆらゆら揺れる。不安定な気持ち悪さに、しかし吐き気は湧いてこなかった。吐いて捨てられない。僕が言ったのだ。
昼間あんな会話をしたからなのか、夢に堕ちた僕の意識は、遠い過去の空想に思いを馳せていた。すぅちゃんが留学して、美稲に出会って、彼女が倒れて、助かって、すぅちゃんが帰ってきて、事件が起きて、研究部が発足して。遡った記憶は、きっと何も考えていないに違いない。目の前に広がるビジョンは、昔、僕が未だ小学生でいた頃。才能が頭角を、美稲との日常の中でようよう顕してきた頃。
正しく、顕れる。劣性は、除去される。悪は、淘汰される。他でも無い、優位の存在によって。正義とは優位と、夢の中の誰かが嘯いた。僕に決まっていた。
ゆらぐゆらぐ。
くわんくわんと鳴る頭が、僕に不要な頭痛を運んできた。必要な痛みなど、人類が存続する罪を重ねるときだけで十分なのに。僕には、生涯関係ないもののはずなのに。無宗教の僕に、原罪なんて在りようも無いのに。
『萩野ってすげぇよな』
舌ったらずで幼い称賛が聞こえた。称賛であるはずの声音が、どこか角ばって思える。
『おれたちとは、全然ちがうもんな』
ああ、これは称賛じゃない。小さな嫉妬、厭味だ。多々、あった。無いはずがなかった。出る杭は打たれると、これは僕ですら賛同することわざである。才能をもって何が悪い。天香具山 翡翠の傍で圧倒的な才を見せつけられ続けて、それを渇望して何が悪い。偶然だろうが運命だろうが、望んだそれを手にして何が悪い。悪いのは、手に入れられないお前たちだろう。何も考えずに、僕の口から出た言葉は淡白なものだったはずだ。
『あたり前だよ。ぼくは君たちなんかとは違うね』
同じく舌ったらずな、良く知った声。夢の中だからか、録音した声というよりは、骨に響く脚色された自分の声と認識しやすいそれだった。だからこそ、余計に意識出来てしまう。その声は、自分の喉から、舌と口の動きに合わせて発声されたものなのだと。劣勢を見下した自分のセリフを。友人が少なかったのはそのせいだろう。別に良かった。僕のそばには、その当時、ずっと美稲がいたから。
美稲。二瓶 美稲。彼女と僕が知り合ったきっかけは、一体なんだったんだっけ。物心ついたころにはすぅちゃんに付いて回っていた僕は、美稲と出会った経緯については記憶が希薄なのだ。それこそ、生まれたその瞬間から隣の家に住んでいたにも関わらず、家柄もあってか、近所付き合いは悪く。顔を見かけることはあっても、声すら交わしていなかっただろう。その時、僕の傍らには、やっぱり、すぅちゃんがいたから。
よしな。唇の動きで、その名を呼ぶ。酷く脆い肉体を持って生れてしまった進化し続ける生命。彼女は、いつまで生きられるのだろう。出会った四歳の頃の彼女は、一体どのくらい虚弱だっただろう。思い返せば、出会った頃の美稲は、病弱を通り越した、虚弱な少女だったはずだ。触れれば壊れる。それこそ、冗談みたいに容易く。壊れかけたその時は、いつまでも鮮烈で。
少年の僕の、もっと少年だった頃の、どうにもならない、ちっぽけな、追憶。
十一歳、季節は、秋。
なし崩しは相変わらず、追憶(美稲編)突入です。過去の小さな、小さな話。
それでは、感想評価等頂ければ幸いです。




