追憶。過去、海草。
僕がすぅちゃんの才能を遠ざけ出して、専ら関わりを持つのは、美稲くらいになっていた。小学校五年生にしてはその状況はあまりに異常で、当時の僕は、その異常さにすら気付けていない。見えもしない前方を追い求める人間に、周囲の状況を把握することなど叶いようも無いのだ。
*
職員室からくすねた鍵で、ぼくは理科室の施錠を解いた。建てつけの良くないドアを力一杯に開いて、中に入る。室内を一周して、軽く失望した。僕の才能は、この程度の設備じゃ活かせない。
「けんせい?」
と、後ろから声をかけられ、ぼくははっとして振り向く。すわバレたか、と焦ったが、案の定、僕の背後に立っていたのはここ最近ではぼくと関わり合いになる唯一の女の子、ご近所もご近所、まさしくお隣さんの、よしなだった。美しい稲と書いて、よしな。ぼくはこの子の名前が好きだった。米は日本の命だ、と、おじいちゃんもいっていたと思う。
「なにしてるの? けんせい」
ぼくより幾分か高い、綺麗な声で問いかけられて、ぼくはゆうぜんと、胸を張って答える。
「最強になろうとしてるんだ」
「さいきょー?」
分からない、という風に、よしなは首を傾げた。字面が分からないのではないだろう、きっと、ぼくが最強を目指す意味がわからないのだ。
「あのね、ぼくには勝たなきゃいけない人がいるんだよ」
言いつつ、ぼくの脳裏を幼馴染の女の子の顔が過る。妬ましいほどに超常的で、以前のぼくなど、足元にも及ばなかった、でも、必死にすがりついてついて回った女の子。天香具山 ひすい。すぅちゃん。最も、彼女が外国から帰ってくる前までは、あの子の名前はかぐやちゃんだったのだけれど。「お家柄なの」と話すすぅちゃんの表情は、どこか沈んで見えた。少し、気分が晴れていた。みにくい。
「それってかぐやちゃんでしょう?」
「うん」
よしなは知ってたんだっけと思い、同時に、しまったなとも思う。下らない嫉妬の念で、僕は彼女を見返そうとしているのだ、そんなの、どう聞いたって恰好悪いじゃないか。
いまさら、そんなことを気にかけるまでも無いんだけど、ね。
「でも、ここの設備じゃすぅちゃんには勝てっこないんだ」
「そうなの?」
「うん」
ぼくが言うとよしなはまるで自分のことのように哀しそうな顔をして面を伏せ、しばしうつむいてから、ポンと手を打って顔を上げた。
「ねぇ、けんせい」
「何?」
「さいきょーなら、このくらいのセツビでも頑張って勝たなきゃダメだと思うよ!」
「……あー、確かに」
頷いて、考え込む。確かに、設備の所為で負けたんだなんて言い訳をしているようでは、最強には程遠いにも甚だしい。逃げ口上を封じてこそ、最強の一歩、か。生憎、ぼくにはたくさん時間があるんだ、ゆっくり、それこそ、高校生になるくらいに勝てれば良いかな、と思う。
「ありがとう、よしな。君のおかげで道が見えてきたよ」
「ほんとぉっ?」
パァッと嬉しそうに表情を輝かせて、よしなは僕にほほ笑んだ。オトシゴロのぼくにはその笑みが眩しくて、つまるところ可愛くて魅力的だったので、もっと見ていたいと思うのに意思に反して目を逸らす。小学生のくせに立派に思春期ぶってるなぁなんて、ジチョウ気味に考えてみた。
ぶっちゃけるとこの時、ぼくは確かにこの子に、二瓶 美稲に恋をしていたのだと思う。最強の友であると共にぼくの眼の上の、たんこぶどころでは無い存在だったすぅちゃんもぼくにあけすけな好意を向けてくれていたが、でも、彼女の存在はどうしたって今のぼくには天敵にしかならず、そして、そういった理由もあっていろんな人から距離を置いた僕にも分け隔てなく、どころか進んで笑いかけてくれるよしなの存在は、当時のぼくには眩し過ぎて、だからこそ、嬉しく、愛しい。
よしなの笑顔を見つめてみる。すると面白いくらいに彼女の顔に赤みがさして、最後にはうつむいてしまった。ううむ、可愛い。
「けんせぇ?」
弱弱しく確認するように窺ってくるよしなが、余計に可愛らしく思えた。変態か、ぼくは。
「なに」
「うん、ええとね」
「うん、好きだよ、よしな」
「え、あ、うう? あり、がと?」
「ぷっ」
さらに目に見えて頬を紅潮させるよしなが可笑しくて、ぼくはわらった。わけがわからなそうだったよしなも、僕が笑っているのを見て、笑った。
「うん、わたしも、好きだよ、けんせい」
「ははっ、ありがとう」
何が楽しかったのか、その後もぼくたちは口を開くたびに思い出したかのように「好きだよ」を繰り返し、もしそこに傍観する第三者がいたとしたら、さぞかし青臭く、馬鹿らしく、奇妙な光景だった事だろう。知ったことか。
*
周囲は、把握できていない。独りよがりの楽しみは、いくら伝染しようと伝わる事は無くて。そんなことにも気付けなかった青い僕だからこそ、今、ここにいるのかもしれない。美稲も、一緒に。
*
よしなが倒れたのはその日の最後、六時間目の途中だった。あと十分もすれば放課後で、そうなったらまたよしなと一緒に理科室に忍び込もうかと計画していた矢先だった。教師は険しい表情で廊下の内線を引っ掴み、ぼくは呆然とその光景を見遣る。ふらふらとよしなに歩み寄って、異常なまでにゆっくりと呼吸を繰り返すよしなに、恐怖を覚える。死ぬんじゃないか。ぼくのまえから、いなくなってしまうのではないか。今のぼくからよしなが消えるなんて、考えられなかった。嫌だ。絶対に嫌だ。ぼくは教室を飛び出して、すぅちゃんのいるクラスに走る。頭に浮かぶ考えは、愚かしい事に、たったの一つ。ぼくが、助ける。
結果として、よしなは病院に運ばれて、拝み倒して協力してもらったすぅちゃんは何もかも分かり切った、沈痛な面持ちで完治させられないことを言外に説明してきて。その時のぼくの頭では、もうすでに、すぅちゃんがぼくに何を隠したいのかを理解できるくらいになってしまっていた。おそらく、すぅちゃんも少なからず焦っていたのだと思う。彼女が本気を出せば、僕が理解できることなんてほんの一握りなのだ。
放課後。本と言う本を漁り尽して、しかしよしなの病状は把握できなくて。消沈しきった意気を連れて、ぼくは彼女が運び込まれた病院に足を向けていた。402号室。個室の病室は、酷く真っ白だった。
「けんせー?」
点滴を腕に挿し、上体を起こしたよしながぼくに気付く。嬉しそうに、よしなは笑った。まったく違和の無い、いつもの笑顔だった。その事実が、だから、おかしい。
「まったく、急に倒れるから熊でも出たのかと思ったじゃないか」
「死んだふりなんてしないよ、わたし」
「え、でも、あの時ロッカーの方にいたんだぜ、ツキノワグマ」
「えぇ? ほんと?」
「うん」
「ひゃあ、大変だね」
「大嘘だけどね」
「知ってるよ」
「それは残念」
「……」
「……」
沈黙。言葉が繋がらず、でもその沈黙は厳しくて、僕はなんとか言葉を探す。無理やりに、声を絞り出した。
「知ってるか? 海鼠って溶けるんだよ」
「えっ? ナマコって、あの海に居る?」
「そう、その海鼠。捕まえて手に持ってると、ドロドロに溶けだすんだ」
「アイスクリームみたいだね」
「そんな綺麗なもんじゃないよ」
「じゃあソフトクリーム?」
「ぼく的にはそっちの方が綺麗だと思うんだよね、アイスより」
「美味しいよね」
「そうだね」
「それで、ヒトデさんどうなっちゃうの?」
「君は少し脱線したら前の話題に戻れなくなるのかよ」
「あれ? 電鼠さんの話だったっけ?」
「十万ボルト?」
「ううん、ボルテッカー」
「ポケットには入ってねぇよ」
海鼠だってば。
「そうそう、ナマコさんだ」
「思い出したか」
「うん。で、ナマコさんどうなるの?」
「それがな、溶けた海鼠を冷たい水につけておくと……」
「おくと?」
「復活するんだ!」
「わぁ」
素直に感嘆の表情を浮かべるよしな。そんな表情も、彼女には似合っていた。そうじゃなくて。
「大丈夫なのか?」
「うん」
即答だった。危機感も緊張感も、欠片も感じさせなかった。
「せめてもう一拍溜めてから言えよ……」
「どうして?」
「いや、気分的にさ。盛り上がるじゃん」
「ドラマチックだね」
「そうそれ」
下らない会話を重ねて、それが楽しかった。
*
病気の事を知ったのは、また彼女が倒れた時。中学生になってから。そしてまた、僕はすぅちゃんに頼ることになるのだ。
サブタイトル、読んでいただいた方には分かると思いますか、誤植にあらず、です。
追憶の締めは次回に。
それでは、感想評価等頂ければ幸いです。




