【3-9】白の国から赤の国へ行く途中:9
恐らく普段は凍っており、今しか見られないのであろう透明な水が流れる噴水、それを囲むように置かれたベンチまで行くと、ブレネントルカは私に腰かけるように言い、しかし彼自身は立ったままで告げて来た。
「少しここで待ってろ」
「え……」
「何もないと思うが、何かあればレッタを呼べ。大声でな」
「…………ええ」
見張りがいるから逃げるんじゃないぞ。
そういう台詞を発するべき場面だというのに、彼が案じてるのは私であるかのように聞こえる。
いや、実際そうなのだろう。
小走りに広場から去って行くブレネントルカの背を見送り、私は大きく息を吐いた。
ベンチは数多く設置されていたが、座っているのは私以外にほんの数人で、そして彼らは、彼らの連れと笑顔で話し合うだけで、私の方を見向きもしない。
この街に来てから、必ず近くに誰かがいる生活を送っていたので、一瞬、私は本当にここに存在しているのだろうか? などと益体のない疑問を抱いた。
思わず膝の上に置いている両手を見つめ、自身の指先を自分で撫でる。
私はここにいる。
「お嬢さん」
聞き慣れた声だったが、反応が送れた。
私がそちらに顔を向けた時には、隣の席に老婆が座っている。
「あ……」
名は知らないが、幾度も私を診てくれた医者だ。
最初の頃は結構な頻度で来てくれていたが、最近は徐々に回数が減って来ていた。
彼女は私に皺だらけの顔を向けて目を細め、大きく頷く。
「やっと外に出られるようになったんだね」
「あ……はい」
私が頷くと、老婆は前を向いて噴水を見る。そして、またぽつりと言った。
「良かったよ。本当に良かった」
うわべだけの言葉ではなく、心底そう思っている。
声色からそれが伝わり、私は思わず口元を引き締めた。
そして数秒後、なんとか言う。
「……明日にはここを発つ予定なんです。お世話になりました」
「いいんだよ。どうせ暇だったんだから」
「でも」
この街の医者なら、彼女には他にも患者がいるだろう。
私に時間を割くことで、仕事に支障が出ていたのではないだろうか。
私の考えを察したのか、老婆は私を見ながら、そして笑いながら軽く首を振る。
「私はかなり前に、一線を引いた身なんだよ。暇だったと言うのは本当だよ」
「……え?」
「だから、あんたが気にすることはない」
つまり、引退した医者だということか。外見から察せられる年齢からして、不思議ではないが。
それでも、何か釈然としないものが胸中に湧き上がる。
決して、現役の医者ではなかったことへの不満ではない。純粋な疑問だ。
「……何故、あなたを呼んだのでしょう?」
彼女が引退した身なら、この街には別に、現役の医者がいるはずだ。
なのに、敢えて老婆に私を診せた理由は。
私がポツリと漏らすと、老婆はまた前を向き、そっと返して来る。
「この街にいる医者は、私以外男だからね」
「ええと………?」
私が小首を傾げると、老婆は少し肩を揺らした。私が理解出来ないことそのものが、嬉しい要素であるかのように。
「最初は、私も断ったんだよ。でも、あんたを気にかけてた……ルカって男、とてもあんたを心配してたからね」
「心配?」
私が聞き返すと、老婆は頷く。
今のあんたなら大丈夫そうだから、教えるよ。
そう前置きして、続ける。
「……長い間、酷い扱いを受けていた子だ。もしかしたら、暴力も受けたかもしれない。だから、男の医者には診せられないんだと。どうしても私に来て欲しい。そう頼まれたんだよ」
「っ……!」
思わず息を飲んだ。
老婆が言う『暴力』が何を指すのか、流石に私でも分かる。
勿論それは杞憂なのだが、ブレネントルカは私に直接聞くことすらしなかった。レッタすら。
空気は暖かいのに私の指先が震え始め、そこから更に肩ががたがたと震動する。
とうとう歯の根までが、がちがちという音を立て始めた。
私の手にそっと、老婆の温かい手が重なる。
「あんたは大丈夫だよ。もう、自分の足で歩けるようになったじゃないか。最初に会った時は、今にも死にそうだったのに」
――このままでは死んでしまう。
突然ブレネントルカが過去に発した台詞が脳裏に浮かび、私は目を瞠る。
震えは、いつの間にか止まっていた。
「おや」
老婆が私の背後に目をやって微笑んだので、私もそちらを見ると、ブレネントルカが何かを片手に駆けて来るところだった。
何の用事だったのかは分からないが、済んだらしい。
老婆が立ち上がり、笑いながら私の肩をポンと叩いた。
「またいつか、この街においで。私が生きている内にね」
「は、はい!」
私が頷くと、老婆はゆっくりと去って行く。
入れ替わりにブレネントルカが傍に来ると、手に持っていた何かを私の肩にかけた。
薄手で軽い、薄いピンク色のストールだ。
手触りの良さに私がブレネントルカを見ると、彼は当然のように言って来る。
「暖かいとはいえ、長時間外にいたら流石に冷える。羽織ってろ」
今更だが、『帰国の準備の為の買い出し』という名目は、既に忘れているらしい。
思わず噴き出して笑ってしまった私に、ブレネントルカが一瞬呆気に取られ、それから頬を緩めた。
ストールは、心地良い重さだった。
* * *
荒れ果てた部屋にいる。
家具や調度品は揃えられているが、手入れをする人間がいなければ、ただ汚れて行くだけだ。
だだっ広い部屋の隅で膝を抱えていると、扉が外側からガン! と蹴られる。
思わずびくりと震えて身を竦めると、それが見えているかのように、げらげらと外で笑い声が起こった。複数の男達。この城に常駐している騎士だ。
私に聞かせる為だろう、わざと大きな足音で去って行く彼らは、大声で何かを話している。
あの女、いつになったら手を出されるんだろうな。
あんなバケモンでも皇族だ。孕ませれば一気に血を途絶えさせられるってのに。
流石に殿下も触りたくないんだろう、あんな汚くて醜い女。
また笑い声が耳に届いたが、それとは違う硬質な音が聞こえた。
窓の方を見ると、少し開いたガラス戸の近くに、バスケットが置かれている。
立ち上がってそれに歩み寄り、上に被せられている布巾を持ち上げると、少しの果物とパン、数枚のクッキーと瓶に入ったミルクが見えた。
普段ここに投げ入れられる、粗末な食事とは違う。
ふと、部屋の隅に目が向いた。
布を掛けられて、見えないようになっている姿見がある。
ゆっくりとそこに近付き、震える指先で布を取り払った。
見えたのは、間違いなく私だ。
老人のように艶を失ってぼさぼさになった髪。
ミイラのように水気もなく、カサカサになった肌。
血色のない顔色。まるで死人だ。
手足は骨と皮だけになり、今こうして立っているのもやっとの状態。
身に着けている衣服もぼろぼろで、スラムの孤児でさえまだまともなものを着ているだろう。
その中で、両眼だけがぎょろぎょろと大きく動き、狂信者のように異常な光を放っていて――
* * *
「――リア!!」
強い力で肩を掴まれて、私は目を覚ました。
一番に目に飛び込んで来たのはブレネントルカの顔で、その背後にはレッタ。
レッタだけでなくブレネントルカも、辛そうな顔で私を見つめている。
悲鳴を上げたらしい。私の身体からは、空気の全てが絞り出されていた。
私は息を吸い込んで深呼吸し、ゆっくりと身を起こした。
レッタがグラスに注いだ水を持って来てくれたので、それを一口飲む。
黙ってじっと私を見つめているブレネントルカに、私は言った。
「鏡を、……鏡を見せて」
「………………」
彼は一瞬目を瞠ったが、何も言わずにレッタに視線で指示を出し、手鏡を私の膝の上に用意してくれる。
思えばこの街に来て、鏡を見たのは初めてだ。隠されていたのだろう。
数秒だけ躊躇ったが、私はそれで自分を見た。
夢で見た姿は、そこにはない。
モアナとフーレのしてくれた毎日の手入れによって、暗い中でもはちみつ色に輝く金糸の髪。
悪夢の所為でやや青ざめているが、潤いのある綺麗な白い肌に、化粧を施していないにもかかわらず、朱の差したふっくらとした頬。
見える細い腕には適度に肉が付き、健康的としか言えない状態だ。
双眸は晴れた空のような蒼で、そこにじわじわと涙が浮かんでいく様が、鏡を通して見えた。
思わず目を閉じると、その拍子に雫が頬を流れ、鏡を持っていられなくなった。
恐らくはレッタの手によって手鏡が取られると、私の肩に大きな掌が置かれる。
ブレネントルカの手は、暖かかった。




