19:君を見つけたあの日の話
マリーは寝てしまった。寝顔を見つめるルットは、彼女の前髪を避けたり、頬に触れたりしながら、ただ横になっていた。
寝顔を見ながら、ルットはマリーを見つけた日を思い出していた。
それは三年ほど前のことだった。
ノーイック領からハウイット領への帰り道。ドナルドも限界に近づいていると考えながら、ルットは馬車の車窓からぼんやりと外を眺めていた。
水災に見舞われた際に受けた恩もあり、ルットにとって、似かよった立場のドナルドはやすやすと見捨てられない人物だった。
悩ましい状況は続き、ドナルドは年を追うごとにやつれている。
息子の疲弊を無視して、彼の母は王都で遊び惚けている。遊び金はすぐに溶けていく。金はなくなり、苦境に陥るノーイック伯に、男爵家は支援を申し出る。
名ばかりの支援を通して、乗っ取ろうとする男爵家を、このままでは拒否しきれないだろう。
(どうしたものか)
悩んでも、どうにもならないとルットは分かっていた。
(こんな時、あの人ならどうしただろう)
そう思いを馳せずにいられない人がいた。
かつてないハウイット領を襲った水災に敢然と立ち向かった女性。前イーノック領主の正妻。
大粒の雨も、黒い濁流もものともせずに指揮を執る彼女に、ルットは羨望と憧れを抱き、晴れ上がった青空の下で見た泥まみれの笑顔に心を奪われた。
思い出して、恥ずかしくなり頭をかいてしまう。
幼子の憧憬ゆえに許されるだろうと言い訳を繰り返す。
初恋。
とは、ああいう、感情を言うのだろうと、振り返るたびにルットは胸苦しくなる。
しかし、初恋の女性は行方不明。
ノーイック領へ向かう前にハウイット領主の館に顔を出した彼女を止めなかったことをルットは悔やんでいた。
(昼間だったから、大丈夫だろうと思ったのが甘かったんだ)
彼女にそっくりな三歳になる娘を連れ、領地の屋敷へ向かうと語った笑顔は、ルットの胸に焼き付き、生涯、消えることはない。
雪原に消えていく馬車を見送った。
彼女にも、彼女の娘にも、二度と会えなくなるなど、ルットは思っていなかった。
行方不明の知らせを聞いて、一人泣いた。誰にも言えない気持ちを抱えて、ただただ、尊敬と憧れが混ざった恋心を、叩き割った。
良い年になるのに、未だ結婚もしないでいるのは、そんな心の一部が死んでしまったせいだとルットは自覚していた。
いつものように、そんなどうしようもない感情のループを味わいながら、車窓から外を眺める。
そこに映し出された人影に目を奪われた。
大きな麦わら帽子を被り、清々しい笑顔を空に向けた。土に汚れた頬などものともしない満面の笑みにルットは窓から飛び出たくなる衝動に襲われた。
その笑顔は、かつて雨上がりの青天の下で見た笑顔と同じだった。
すぐさま馬車を止めさせた。車窓から、ただじっと、一人の少女を見つめ続けた。心音は高くなり、高揚感に襲われた。呼吸が苦しくなって、目頭が熱くなった。
泣きたいけど、泣きたくはなかった。
その景色が、もし幻であったら、消えてほしくなかったからだ。
時間を気にせず、畑で仕事をする彼女を見続けた。
時が、ルットを少しづつ冷静にした。
少女の年齢を推し量り、それがかつての想い人ではなく、その女性が抱いていた三歳になる娘ではないかと仮説を立てた。
それから、ルットは、ノーイック領主の屋敷を往復する間、少女を探すようになった。
いつも働いており、スカートより、シャツとズボン姿が多かった。羊飼いの少年かと苦笑し、あんなドレスが似合いそうだと、勝手な想像ばかり巡らすようになっていた。
程なく、彼女の素性を探りあて、村長に接触した。
村長から、マリーが前領主の正妻の娘だと告げられた時は冷静さを装いながらも、躍り出しそうな気持ちにかられ、抑えるだけで必死だった。
マリーに語った内容通り、ノーイック領の家令に秘密裏に取り次いでもらった。
ルットは、ドナルドを助けるためにも、協力を申し出、時期を見計らい、ドナルドからマリーに爵位を譲渡させる準備を進めた。
王都に出向く機会があるルットが協力することで、土地を離れられないノーイック領の家令は大いに喜んだ。男爵家に伝わることを懸念し、可哀そうだがドナルドには伝えないことになった。
ルットは村長と家令に、『ノーイック領の領主交代に加担する代わりに、マリーを正妻に迎え入れる』と宣言した。
実の両親がいない彼女をもらいたいと思うなら、村長と家令に認められる必要があった。二人は、二つ返事で了承した。村長が『マリーが嫌がらなければ』と条件をつけたのは、父として当然だろうと納得もした。
ルットの目の前が、未だかつてないほど華やいだ。視界に映るすべてが色づいて見えた。
ノーイック領とハウイット領を行き来する道が、楽しくて仕方なくなった。
マリーを見つめるたびに、彼女への贈り物を考えていたルットは、近いうちに彼女はこの屋敷にくるのだと、彼女のための部屋と家具を用意し始めた。空のクローゼットを置いてしまうと、彼女に渡したいプレゼントでいつのまにか溢れてしまっていた。
そんな彼女が、ルットの目の前で寝ているのだ。
事実を知って泣きはらして。
愛おしいという言葉を贈りたくて、ただ彼女を抱いて、撫でて、慈しむ。
寝ている彼女を起こしたくないルットはマリーの口角に唇を押し当てた。
ただただ暖かさを抱きながら、やっとたどりついたぬくもりに満たされて、ルットも眠りについた。




