13:酒浸りイーノック領主は腰を抜かす
厩に着いたマリーは、片隅に置いている馬具を拝借して準備を進める。馬具を着けた馬の手綱を引き、外へ出て、飛び降った。一言馬にねぎらいの言葉をかけると、手綱を引き、胴を蹴る。
馬は颯爽と駆け出した。
畑で朝の仕事に勤しむ農夫たちを横目に、マリーは直進する。
ハウイット領主の屋敷から一番近いマリーの故郷を目指す。両親や弟に会いたい衝動を我慢して、休みなく馬を走らせる。
イーノック領に入った。村を横切る一本道を駆る。
再び実家に顔を出したい気持ちに襲われ、今は駄目だと気持ちを抑え、村を走り抜けた。
眼前に広がる視界を直視する。
ハウイット領とイーノック領。隣り合う土地なのに、広がる光景がまったく違う。
故郷の村と隣村を越えていくなかで見たのは、木陰でお腹を空かせてくたっと寝ている子ども。作物も葉や茎が垂れて、元気がない。土はところどころひび割れている。細くなった川から引き入れられる水の量が少なすぎるのだ。
額に汗して働く農夫たちにも陰りが見える。どこか動きが緩慢で、諦めているかのようだ。
もう一つ村を越えると、イーノック領主が治める土地にたどり着く。
ここまでくれば、領主の屋敷は目と鼻の先。マリーは馬の速度を落とした。
近隣の村より、作物の育ちが良い。弱っているものの、緑の葉は日光を浴びようと開いている。ルットが言っていたように、水が供給されているのだろう。
(わずかな違いだけど、この違いが大きいのよね)
いずれは雨が降るだろう。それがいつかは分からない。それまでの間、領主の管轄する畑の作物は生き残る。しかし、村々の畑では枯れる畑も出るだろう。閉鎖する水路を選び、この畑は枯らすか残すかと話し合いが行われているかもしれない。
(絶対に、喧嘩になるわよ。誰だって自分から畑を捨てれるものじゃない)
彼方に領主の館が見えてきたマリーは、道沿いに大きな木がないか探し始めた。程なく、大人二人が腕を回せるほど太い幹の木があった。
馬を降りて、その木陰に入る。幹を背に馬を前にして、マリーは布鞄からオレンジのワンピースを出した。シャツを脱ぎすて、上からワンピースを被る。
袖を通し、スカートのひだを整えた。皺になっているところも手で何度か撫でつける。
手櫛で髪もできるだけ整えた。
最後にズボンを脱いで、今まで着ていた衣服を布鞄に詰める。貧相な鞄でも、持って歩かないわけにはいかず、肩にかけた。
マリーは手綱を掴み、木陰を出た。馬を引き、イーノック領主の館前に歩みを進める。
左手の薬指にはめられた指輪の煌めきを見つめる。それだけが頼りだった。この小物一つで、ハウイット領主の妾という立場をひけらかし、押し切ってやろうと思っていた。
正門についた。扉は閉まっていた。横に鐘があり、紐が垂れている。
マリーは迷わず、紐をゆすり、呼び鈴を鳴らした。
数分待たされても、誰も出てこない。もう一度、紐を握り、呼び鈴を鳴らした時、門の横にある小さな扉が開いた。
「誰だ」
初老の男が出てきた。
ぬっと現れたいかつい男性に、マリーは一瞬たじろぎ、息を呑んだ。
「私は、ハウイット領主の愛妾よ。今日は訳があって、イーノック領主様にお会いしに来たの」
左手をぎゅっと握り、突き出した。村娘がつけているとは思えない指輪を、男の目の前に掲げて見せた。
男は目を見開き、渋い顔をする。
「そんな話は、きいていないが……」
「急なことなのよ。先触れは出せなかったわ」
「しかし、愛妾自ら出向く事情が解せませんね」
「でも、私はハウイット領主の愛妾、であることは間違いないわ。この指輪を見て! 一介の村娘では生涯持つことのない品よ。
私は……」
ここまで来たら、嘘でもなんでもついて、この扉をくぐってやると肚をくくる。
「私は、ハウイット領主の命でここに来たの。これで追い返したら、大事になるわよ」
突き出した拳を広げて、銀色の指輪を見せつけた。
「私を追い返して、咎めを喰うのはあなたよ」
男はたじろいだ様子を見せてから、ため息をついた。
マリーの勢いに押されたのかもしれない。安堵したいところだが、大事なことはこれからだ。マリーは口元を引き締める。
「どうぞこちらへ」
男は出てきた扉を引き返していく。
馬は、扉の取っ手に繋ぎ、布袋も地面に置いて、マリーは男を追いかけた。
扉をくぐると屋敷はしんと静まり返っていた。人の気配がしない。
歩調を緩めることなく直進する男をマリーは小走りで追う。前を向きながら、男は呟いた。
「領主は階下の居室にいらっしゃいます。どのようなご用件かは存じませんが、お会いになって、驚かれないでください」
「どういう……」
どういうこと、と訊ねきるまえに、男はとある扉の前で止まった。躊躇なく、扉を開く。
「旦那様、ハウイット領の愛妾を名乗る者が面会に来られました。お通しします」
男は扉を開いたまま、横にずれる。空いた空間に向けて、マリーに進むよう手で示した。
ここまですんなりと通され、愛妾という立場の重みに体が震えを覚える。マリーは緊張したまま、一歩を踏み出す。
空いた扉の真横に立ち、深呼吸して、横を向く。
居室の光景にマリーは両目を見開いた。
床に散乱する空いた酒瓶。
テーブルの上にある、傾いたグラス。
一人の男が机に突っ伏していた。無精ひげを生やし、着崩れた身なりは、畑仕事を終えたばかりの農夫よりこきたない。
思うより、先にマリーは叫んでいた。
「いったい、何をしているの!」
領主の閉じていた目が開かれた。顔をのそっとあげる。目は死んだ魚のようだ。ポカンとあいた口の端に、よだれのあとが見えた。
マリーは肩をいからせて入室する。
「この状況はなんなの!!」
子どもをしかりつけるように怒鳴ると、領主ががたっと立ち上がった。死んだ目に光が灯る。
首を左右に振り、腕で口元をぬぐった。手にしていた酒瓶を落し、ごろんと転がると口からとぷとぷとワインが漏れる。
毅然とマリーは領主を見返す。
領主の方が怯えたような表情で、顔を左右に振った。
唇がわなわなと震えだす。半歩後ろに下がろうとして、椅子にひっかかった。足がもつれて床に転ぶ。
驚くマリーの目の前で、奇妙な光景は続く。
床に転び、しりもちをついた領主は、両手を床につけ、身を乗り出し、叫んだ。
「お願いです。どうか、どうか、僕を助けてください!!」




