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「次、智はどっちがいいと思う?」

 オレンジジャムとクリームチーズを並べたテーブルに身を乗り出す橅に、二杯目のココアを差し出す。元気になって良かった。パンが好きなのかもと朝食をトーストにしたのが正解だったみたいだ。

「七夕祭に使う短冊の和紙を地域の子供たちが手作りしている」

 とナレーションが流れ、清流をバックに紙漉き体験のインタビューをテレビが映し出している。気象協会の長期予報によりますと、今年は全国的に織姫と彦星のロマンチックな再会を見届けられそうです。

「あのね、音楽を探しに行きたいの」

 地球にやって来たのはそのためだと、昨日も言っていた。じゃあ俺が突き止めてUFOのリベンジをすればいいんだ。トースターを片付ける手を止め、詳しく話してと橅に向き直る。

「幼い頃から、星や宇宙に関心があったの。それで友達に手伝ってもらって組んだんだ、星の音を採取するユニット。できればムービーにしたかったんだけどね」

 サイシュ、と舌足らずな口の端に付いたピーナッツバターに、いっとき目を奪われる。ミニ四駆の話だっけ、拍子抜けだ。単身で宇宙を旅して来たのだから相当にテクノロジーが発達した星の出身だろうと踏んでいた。高出力なマシンの性能や聞いていて頭が痛くなるような物理法則について誇示するかと思いきや、橅に補足するつもりはなさそうだ。

 俺のオツムに合わせてくれてるか、それとも魔法使いに近いのかな。よく分かんないけど、まあいっか。そういうもんだと割り切ってしまった方が建設的だと思いたくなるのは、文系ならではだろうか。いや、根がちゃらんぽらんなだけだな。

「宇宙は空気なくて、音が伝わらないんじゃないっけ」

「知ってるんだ。だからランダムに選んだ星で音の波形を収集するドローンと、ドローンが送ったデータを再生するアンプに分けたの」

「リウスだっけ、橅の星と地球の距離は?」

「どう言ったらいいだろ、あなたたちがヴェガと呼んでる恒星と地球の距離の、だいたい十九億倍かな」

 十九億倍って、何キロ、何光年だよ。

 数学と物理はさっぱりだけど、車に勝負を吹っ掛け事故りそうになっては紙一重でかわしてきた、この身体感覚なら。

 空より雲より遠く、五感を大気圏の向こうへ伸長してみる。音のない暗黒に射出され前後不覚になる自分の姿が真に迫り、息が詰まりかける。こんなこと、前はよくあったっけ。

「星の音を拾い上げるのは難しいの。私たちは二つの方法を採って、星が放つ電磁振動をアンプで可聴域に変換する方式。あとは直に集めるやり方だけど、大気やガスをまとってくれてないといけなくて、成功するのはうんと稀。だから凍り付いていく二酸化炭素やヘリウムの雨を聞けた時はとっても嬉しかった。知ってる? 超新星爆発ってうるさいと思うでしょ。水の中で気泡が浮かぶのを見てるような、ああいう感じなんだよ」

 いつ現れると知れない音のため、そうやって日々スピーカーに耳を傾けていたのだろうか。就寝前、布団の中でFMを聴きながら一服するのを習慣にしている父の姿が橅に重なる。現地語のラジオは息抜きになるのかと思ったが、だからこそ母がそばにいるのだろう。

「で二年前、本物の音楽が流れてきたの」

「それが地球だった」

「聴いたことのないメロディー、虜になっちゃった。位置情報からこの星って割り出せたけど、ドローンは太陽系を離脱していたしログに詳しい記録は残ってなかった。でももう一度、弾いてもらいたくて」

 二年後、橅はライセンスと言ったけどシップの運転免許を取得できる十七歳になり、地球に飛来。着陸に失敗した。

「どの辺の人なんだろう」

「詳しい座標は特定できなかったけど、地球の衛星で再スキャンしたらイミグレのすぐ近くだった。湖の近く」

「イミグレ、お店?」

「ポリリスがあって、シップが離着陸して、呼び方が違うのかな」

 湖に空港なんてないし、と考え込んでいると

「連れてってくれない?」

 瑠璃色の瞳がこちらを覗き込む。

「なら、橅が聴いたって音楽をまず絞り込んでみよう」


 人物も曲名も不明。橅曰く歌唱ではなく楽器で、ソロらしい。プレハブで一枚ずつCDをかけてみることにした。

 デッキの電源を入れトレイにセットしていると、「何する機械」と後ろから声がかかる。振り返った拍子に足の指が予期しない方に曲がり、中腰のまま背中から転げかける。「あっ」と差し出された腕に反射的に手を伸ばすが道連れにしてはと空を掴み、見つめ合う橅の顔が遠くなって派手に尻餅をつく。

 うわ俺、カッコ悪。

 痛みより嘲る尾てい骨に腹が立ち、音響機器興味ある? と誤魔化すと

「私の家の、アンプみたいと思って」

 吹き出したいのを喉で押し殺し損ねたみたいに、橅が咳込む。

 手始めに協奏曲やスリーピース、大編成は後回しでいいだろう。曲目はともかく、楽器の当たりならつけられるかもしれない。

 一枚目のソナタが流れると橅が耳をそばだて、丸い目を輝かせ始める。伴奏がピアノだよ。教えてあげるべきか迷ったが波にたゆたうよう頭を揺らし、区別はついているのだろう。旋律は今は添え物なのに、典雅な高音の伸びや柔らかな休符への納め方を力説したくなり、勝手に指が動く。ところが橅は気もそぞろという顔で二楽章の終わりまで我慢した後、意外な一言を告げた。

「この楽器。タリラリホワラララ、って」

「そっち? ピアノじゃなくて」

 サン=サーンスが流れる木目調のスピーカーに耳をくっつけ、「うんうん」と頷く。にわかには信じられず他のCDも聴かせてみるが、曲は一致しなかったもののやはりクラリネットのようだ。

「木の幹みたいな形してるんだ。この薄い板にデータが貼られてるの? どの楽器も音色も魅力的だし、地球に来て良かった、私」

 楽器を挿した花束のジャケットを手に、矢継ぎ早にまくし立てる。弾くって言うから弦か鍵盤だと思った。よりによってクラかよ。


 湖へ向かう自転車の後ろで、橅は星の音楽について話してくれた。

 物心付く前から親が歌を口ずさんでくれたこと、リウスでは生演奏を楽しむのが主流であること。街角に設置されたステージではプロだけでなく子供たちが学校で習った歌を帰りに合唱したり、物語の一説を観客の飛び入り参加でミュージカルにする催しがあるんだそうだ。

 誰でも使うのを許される舞台が生活の場にあって、そこに立つ人と聴く人との間に違いはなく、皆で音楽の楽しさを分かち合う。いい所なんだな。

「探してる曲、ハミングでいいから歌ってみてよ」

「やだ」

「音痴だったり、橅」

「あのね」

 橅が望んだとはいえ昨日の今日で再訪するのは無神経ではという気がしたものの、シップが沈んでいると思しき辺りを橅は見やっただけだった。そして

「ぐるっと回ってもらっていい?」

 と俺の肩を掴んで背伸びをすると、湖の周辺を観察し始めた。広場か梅園の地底に宇宙人の秘密基地でも格納されてるんだろうか。大規模な再整備が行われてまだ数年だけど、と半信半疑で遊歩道を流す。ジョギングや散歩する人たちにぶつからないよう低速で進むのはコツがいるが、橅が荷台を揺らすまで五分かからなかった。

「あった」

 自宅や図書館の方角から湖を挟んだ反対側のようだ。橅が指差したのは高台の上、商業ビルが新旧立ち並ぶ中にあってひと際目立つ、空に刺さった銀色の突端だった。


 高台への急勾配に二人乗りで挑むのは初だった。自慢の十八段ギアを最も軽くしても自転車はS字の狭い道幅で剣呑なラインを描き、速度を落とした車が大儀そうに脇をすり抜けていく。荷台から降りようとせず

「頑張って」

 と真剣な面持ちで応援してくれる橅に悪気はないのだろう。意地になり自転車を押して歩く選択肢を払い除けると、何とか足を着かず登り切る。

 坂の上は繁華街で、駅に連なるメインストリートに沿って店がひしめき合っている。買い物客でごった返す電気屋前のスクランブル交差点を縫い渡り、デパートの手前の路地を曲がって喧騒が遠くなった頃に現れる薄紫色の建物。通学に使う道と目と鼻の先なのでアートセンターには部活を辞めてからも暇潰しで寄ることがあった。外階段を上がった所に設けられたベンチは人目に付きにくく、読書するには最適だったが秘かなデートスポットになっていて、買いたての新刊を家まで待てずに広げてもカップルが来ると頭を低くして退散する羽目になった。今日は昼間の催しがないのか、ガラス張りの施設の中も外も閑散としている。

 大きな一枚岩が太いワイヤーに吊るされ、浅い泉の上で四方からシャワーのように水を噴き付けられている。定番の撮影スポットだが、橅は目もくれなかった。

「ほら、でも、何か違う」

 芝生の庭を横切って駆け寄る先にそびえる、三角のパネルをジグザグに組み合わせた塔。辺同士を留めるボルトを模した建材も剥き出しで、未完成の工業製品を思わせる多面体を真下から見上げると身が竦む。

「あれって、展望台だよ」

 ポリリスは橅の星の空港にある管制塔で、アートセンターのタワーにそっくりらしい。出入国の管理は隣接の劇場でやるものだそうだが、どうして劇場でやるのかは肩を落とす橅に今聞くことじゃない。それより、まだ望みはある。

「劇場なら、ここにもあるんだ」


 受付カウンターには制帽を被った二人の女性が座っていた。曜日と時間関係なく年齢や背丈が似通っていて、それが選考基準なんだろうか。

「二年前、演奏会やコンクールでクラリネットの独奏がなかったか、知りたいんですけど」

 カステラの箱の形をした空間に高い窓から陽光が降り注ぎ、石の柱を鈍く照らす。

「少々お待ちいただけますか?」

 若い女性は当惑気味に言うと隣のスタッフと額をくっつけ、何事か相談を始めた。

 正面にパイプオルガンを戴く水を打ったようなロビーに、通りゆく人のカツンカツンという踵が背中にホイップの模様を作る。漂う厳かな空気に教会ってこういう感じだろうか、と祭服で奏でられるミサ曲を夢想してみる。返答が気になっているのか、橅は二階のオルガンに気付いても

「楽器なんだよね」

 と囁きじっとしている。いかめしい光を乱反射する、シンメトリーに並べられた銀色の筒。鍵盤の縫い針とフットペダルのミシンで分厚い音を織るためでなく、世界史の資料集に載っていた聖人のフレスコ画のように、祈りの対象としてオルガンはそこに在る気がした。

 どうかお願いします、橅の探しもの、聖なる力で指し示してはもらえないでしょうか。

 裏手の事務室のドアを閉め、さっきの女性が済まなそうな顔で戻ってくる。「アーティスト名が分かればあるいは」と前置きしたうえで、該当する情報は調べられなかった、とのことだった。

 ありがとうございました。

 下げた頭を戻すほんの間、橅が苦しそうにするのが横目で分かった。成果がなかったからではなく、時間をかけて探してくれたお礼や気にしないでねとの気持ちを愛想笑いに込めたいのにできない、何か切実な事情が隠されているようだ。

 皿を片手で持てず両手で持ち直し、階段を降りる足の運びはたどたどしいし、例えばリウスと地球の重力のギャップで身体や顔の筋肉を思い通り動かせなかったとしてもおかしくない。配慮してあげないと。

「二年前だし、簡単にいきっこないよ」

『なるべく明るく』と書かれた台本を諳んじるように、橅が声のトーンを上げて続ける。

「来たばかりだもん、地球。これからだよね」

 その通りだ、俺が気後れしてる場合じゃない。ここまで来て手ぶらで帰るのもなんだし、展望台に誘ってみようか。UFOを乗り回す宇宙人には大したことないかもだけど、百メートル上空から県庁所在地の街並や楕円の端でまどろむ海を一望すれば、少しは心も和むだろう。

 けれど外に出る途中、

『タワーはエレベーター改修工事のため一時閉館しております』

 と無味乾燥にタイプされた紙がガラス扉に貼られているのに足が止まる。ついてない、とことん。

「帰る前に、寄り道したいんだけど」

「なんだ橅、オッケーオッケー。どこ行きたい?」

「服を変えられる所」


 プレハブの小窓から、鼻の奥をつんと刺す夜気が流れ込む。

 棚のCDを一枚ずつ手に取り、さっきから橅が俺の方をチラ見している、ような気がする。大半が吹奏楽とオーケストラで流行りのロックやポップスは両手で足りるが、どれか持って帰りたくなったのだろうか。

 夕飯を終え居間で寛ごうとすると、また地球の音楽が聴きたいと言ったのは橅だった。なのに音量を落とし、おかしいな、橅の映る画面だけがピンボケして、メトロノームの底に錘をくっつけたみたいに脈拍が上昇していく。

 宇宙人って、恋に陥りやすくできている?

 シャツを突き破らないか心臓がうるさい。邂逅からたった三日。理解し合えてるとは到底言い難いけど、ヒーローとヒロインにとっては瑣末なことだ。

「あの、ぶしつけだと思うんだけどね」

「うん」

「音楽探せるまで、この家にホームステイさせてもらえないかな」

「ああ、そっち」

「どうかな?」

「今両親が海外でいないんだけど、差し支えない?」

「差し支え?」

「ううん、橅さえよければ」

 告白、じゃなくて、何がどうなったんだろう。俺変なボケかましてないよな。

 目がひとりでに潤んでいて、それが極度の緊張から来たものだとしばらく気付かなかった。橅は胸のつかえが取れたという顔で、イコライザーのつまみをいじっている。  

 つまりはこれから二人で住むって話か。言わずもがな大賛成だけど。

 橅には二階の両親の部屋を使ってもらうとして、自分の寝床はどっちにすべきだろう。宇宙人といっても女の子と一つ屋根の下、部屋が隣同士は大胆だし、離れてた方が向こうだってリラックスできるのでは。

「二階の部屋、覚えてる? 好きに使っていいからね。僕ここで寝るから」

 するともどかしげな表情に戻り、タグが付いたままのスカートに橅が視線を落とす。会心の買い物だったようなので着替えないのか帰宅後聞いたら、「上に合わせるのがなかったんだもん、穿けないよ」と取り付く島もない。人の考えを先回りして期待された通り振る舞うのが唯一といっていい特技のはずが、橅が相手だと頭をフル回転させても的外れな解しか出てこない。

 風は止み、ペトルーシュカの最後のトラックは密やかに終わりを告げ、真空の痛い音が耳を責め立てる。気詰まりで金縛りに遭ったように硬直し冷たい汗が滲み始めた手のひらに、昨晩の小さな指の形が甦える。

「また、橅に添い寝してあげた方がいい?」

「はあ? 何かあったら困るから、隣の部屋で寝てて」

 つくづく分からない、女の子って。


 玄関のチャイムや電話が鳴ってもうかつに出ないこと。橅は約束を守っているだろうか。

 出歩いて警察の目に留まったら補導されると言った手前、気の毒で止められなかったけどプレハブを行き来しているのを誰かに見咎められてないだろうか。

 試験の間中、気が散って英語の長文は訳されないまま脳内を素通りしたが、橅を泊めてなかったとしてどのみち平均点を下げるのには変わりないと思えた。余った時間を答案の見直しにあてず、橅に必要そうな生活用品を問題用紙の裏に書き連ねる。ありきたりじゃ駄目出しされるだろうし、帰ったら買物連れてかなきゃ。

 四時限目が終わり、食堂で最も安いうどんと腹持ちのいいカレーどちらにしようと歩いていると、抱えた地図の掛軸で自ら視界を遮ったソックスが階段を駆け降りてくる。踊り場に後ずさりしたら別の女子と接触しそうになった。

「危なかったね、海老永くん」

「ごめん」

「ううん。どうだった? テスト」

「最悪。田才さんは今回も余裕?」

「そんなことないよ」

 校内に貼り出される成績上位者の順位表を楽しみにしてるのは、自分のためでなく彼女の名前の連続掲載記録をカウントするためだった。練習熱心で、けれど入学当初からトップ集団を快走する彼女とは同じ楽器だったのもあり、クラスは違うが行き会えば挨拶を交わす仲だ。

「アパラチアに決まったの、自由曲。一・二曲目と七曲目」

「みたいだね」

「課題曲、すごく難しくて」

「ソロ吹いちゃえって言われてるんでしょ。次のコンマスも確定って、さっすが」

「海老永くんがなるはずだったんだよ。大変なんだから」

 思わずつられてしまいそうになる、人付きの良い満面の笑み。残り一週間を切り、準備にかかりきりになっているであろう定期演奏会について触れないのは、当たり障りのない話題を彼女が選んでいるからだろうか。

 地域の小中学校に招待チケットを配るのも部員の務めで、リストには俺の母校が含まれていた。海老永は元気にやってますかと顧問に聞かれ、

「とっとと次行きたかったのに、辞めた顛末、根掘り葉掘りされて超絶かったるかった」

 トイレですれ違いざまなじられた一件が彼女の耳に入っているのだとすれば、どうとも思ってないしむしろ気を遣わせて、とお詫びしたいとこだった。部活も勉強も涼しげな顔でそつなくこなし、それを嫌味だと感じさせず、会話の相手を気分良くさせるツボまで心得ている。掴み所がなく、けど性格はさておき田才さんは必ずしも例外の部類ではなかった。文武両道の校訓を地でいく優秀な生徒が大多数、例外は俺の方かよ。


 自転車を飛ばした先は、展望台はないものの図書館と同じ区画に建つ文化ホールだった。一人で来たのは苦しそうにした昨日の橅が見るに堪えなかったからだ。

「二年前じゃ分からない」

 案の定にべもなく窓口で告げられ、聞かれるまで報告するのは止めようと思った。

「ただいま」

 玄関で普段は発しない声をかけてみるが返事はなく、苦い砂が胸を侵していく感じに覚えがあるな、とドアを閉めかけ目を細める。幼稚園、親に内緒で飼おうとして庭からいなくなった仔犬だ。次に押し寄せてきたのはリガチャーキャップを逆に嵌めたような、収まりの悪さだった。

 人間じゃないからって、橅とペットをごっちゃにしちゃいけないよな。

 台所に上がり冷蔵庫を開けると、橅が「宇宙史に残る発明」と絶賛した安売りのイチゴオレがなくなっている。

 でも。

 凍らせて薄くなっていたスポーツドリンクを、乾いた喉に流し込む。

 所有欲と、誰かがいなくなってしまう寂寥感。二つの間に定規でボーダーラインを引けるのかな。

 脱いだばかりの靴を引っ掛け、底をひきずり庭に出る。プレハブの前にこちらを向いて置かれた踵の光るシューズ。電源はどこにあるんだろう、口元が独りでにほころぶ。橅はといえばカーペットに跪いてソファーに肘を着き、道化師のライナーノーツに見入っていた。座ればいいのに、ソファー。

「おかえり。短い曲が続いてくのってワクワクするね」

 長い間棚に放置していた写真立てがミニテーブルに移動していて、その横で汗をかき終えた桜色のペットボトルが小さな水たまりを作っている。話し相手に飢えていたのだろう、返事をする前に橅が質問を重ねる。

「レンズかけてないけど、写ってるの智だよね。あとこれ、クラリネットでしょ」

「かなり前に撮ったやつだよ」

「勿体つけないで言ってよ。どこ、楽器」

「後で探しとく。それより外行かない? 橅のリンスにブラシ、ショッピングだよ」


 おやすみ、と橅が部屋に戻って二時間が経った。差し足で玄関を出ると念のため鍵を掛け、プレハブに忍び込む。パイプ椅子を組み立て棚の奥からケースを取り出し、膝に乗せチャックを開ける。部活を辞めて三ヶ月、昔の出来事のようだ。

 小四のゴールデンウィーク、遊んでいた建設現場で単管を引っ掛け、足を折った。打ち所が悪く「歩けるようになっても走るのは当面禁止」と言われ、塞ぎ込んでいた所に担任の先生が口利きしてくれたのが学校で設立したての金管バンドだった。母のバリカンで五分あれば完成するいがぐり頭で、「どうせ破いてくるし」と冬も半ズボンをあてがわれる音楽とは無縁のハナタレ小僧だったが、幼いなりに先生に義理立てするつもりでちょっとだけお付き合いしようと思った。楽譜が読めずでたらめに太鼓やカスタネットを叩き、たまにサボって親と先生の眼を盗み悪友達とキックベースをしていたら音楽室から消える前に足は完治して、いつの間にか学校を卒業していた。それがきっかけで中学では吹奏楽部を選んだので、去年までの七年間、曲がりなりに放課後も夏休みも練習に明け暮れていたことになる。

「ロングトーンは、遠くにいる人に音を届けるってイメージするの」

 中学の先輩は部室の角に俺を構えさせると対角線上の端に立ち、

「私に届くよう、吹いてみて」

 と手を振ってくれた。好きだったし、他の部員の目を気にする余裕もなくて、告白のシチュみたいだったな。けど、プレハブで一人きりじゃあ。

 外を透視するように隣家の垣根に建てられたステンドグラス工房の看板目がけて吹くものの、適切な息の量かは分からなかった。苦手だったA-durのスケールは改善の兆しがなく、アーティキュレーションのパターンを変えても同じ箇所でつかえてしまう。

 折り畳みふやけるまで下の前歯に掛けていたクリーニングペーパーを口から外す。最低限、退部する前のレベルを維持しようって、虫がいいのかな。

 休憩がてら、蝶ネクタイやクロスが乱雑に投げ入れられた段ボールをまさぐってみる。底に黄ばみかけの古い楽譜が覗き、引き出すと手書きの小節番号が振られ、所々クレッシェンドが赤ペンでハイライトされている。そして『歌うように』という薄汚れた癖字が目に留まり、忌々しく束の中に戻しかけて、手を止める。

 部活を辞めてからは教本のみ、それ以外の曲にかかずらうのは許されない気がして遠ざけてきたけれど、今ならまともに吹けるんだろうか。

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