第七話 『追憶の婚約指輪』
挿絵があります。作者の脳内イメージです。キャラクターのイメージを固定してしまっている方は、注意してください。
夕日を前にして、ジェメドリッサは砂浜の上に座っていた。穏やかな波がそのすぐ側まで来ている。靴を脱いだ素足は波に濡れ、美しいドレスは砂にまみれ、はしたない姿だと自覚はしている。でも、少し離れたところにいるフリエは、静かにそれを眺めているだけだった。
ジェメドリッサは、決心したその日のうちに、まずはジオルガへの未練を完全にに断ち切ろうと考えた。フリエだけに事情を明かし、二人だけで邸宅の近くの海岸に来た、というのが今の状況だ。
とはいうものの、勿論簡単に忘れられるものではない。
この海岸も、ジオルガとのデートでよく来たところだった。ジェメドリッサは、耳にこびりついて離れない歌を思い出す。自然と口が動いた。
暗い海の 真ん中の 我らが母の 物語
ふるさと遠く 知らぬ街 抗う術は あったのか
青い洞窟 光満ち 箱入りの花 楽園か
永遠の月日は 泡となり 平穏平安 感謝しよう
汝もいつか 泡となり 運命天命 甘受しよう
真の緑の 美しさ 夢見て誰が 叶えたか
冒険先は 行き止まり 消えてく友と 願望と
深い闇の 静かな光 悟ったことは 無意味だから
歌を歌おう ひっそりと 自由に泳ごう のびのびと
我らの幸せ 取り戻せ 母の歴史を 思い出せ
記憶を歌い 語り継ごう
これは、ジオルガが教えてくれた歌だ。教えてくれた、というより、この海岸に来る度に歌っていたから勝手に覚えた、というのが正確かもしれない。
何の歌かはわからない。歌詞の意味も不明で、どこか哀愁
が漂っている。何かを伝えている歌なのは確かだった。ただジオルガは、今は亡くなった母親から聞いたのだと言っていた。
この歌を歌うのもこれで最後だと感じながら、ジェメドリッサは立ち上がった。
手を伸ばすと、婚約指輪の大粒のダイヤモンドが夕日を反射し、橙色に煌めいていた。
この婚約指輪にも、ジオルガとの思い出が詰まっていた。
『涙の海』の話では、主人公ガウマンの結婚指輪はダイヤモンドで、ジェメドリッサはそれに憧れていた。ジェメドリッサにとってダイヤモンドは、死後も縁が切れない、永遠の愛の象徴だった。
四年ほど前、つまりジオルガが学院に入ると同時に婚約が決まり、その際に指輪の宝石をどうするか、という話で、ジェメドリッサはダイヤモンドを提案した。それから一年後のジェメドリッサの誕生日に、ジオルガからダイヤモンドの婚約指輪が贈られた。
両親から教えられるまでジェメドリッサは知らなかったが、当時のダイヤモンドの値段は常軌を逸していた。つい最近になってようやく落ち着いた値段になったが、その時は貴族の間でも、買うのが難しいほど高価だった。ジェメドリッサと同じように、『涙の海』の神話でダイヤモンドの指輪に憧れる令嬢が多く供給が追いつかなかったそうだ。
それをジオルガはジェメドリッサに贈ってくれたのだ。ダイヤモンドの相場を知った後、ジェメドリッサはジオルガに値段を問い詰めた。具体的な値段はジオルガは言おうとしなかったが、ソリエダ商会で買ったのだと言った。ソリエダ商会は、宝石商の中でも最も高い品質を誇っているところだ。
その時、ジェメドリッサは泣いて喜んだのを覚えている。
思い出すと、自然と涙がこぼれた。この思い出を消すのは、その時からのジェメドリッサの人生を否定するのと同義になるほど、重いことだった。
でも、前に進むと決めたのは、ジェメドリッサなのだ。
裸足のまま、ジェメドリッサは海水に足をつけた。そのまま、海の中を歩き出す。遠くに行かなければ、海岸に打ち寄せる波の影響を受けやすいから、できるだけ海岸から離れたかった。
段々と海が深くなり、ドレスが濡れ始める。構わずジェメドリッサは進む。
半身が水に隠れたところで、ようやく足を止めた。
そして、手から婚約指輪を取り外す。
『涙の海』の話で、ガウマンは妻に自分の死を伝えるために、死んでも繋がりを持つために、結婚指輪を入れた瓶を海に流した。
それとは今回は反対で、ジェメドリッサはジオルガとの関係を断ちたい。つまり、浮かべるのではなく、沈めればいいのだ。
別にこの神話に則る必要はないのだが、そこはジェメドリッサの気持ちの問題だった。このある種の儀式のようなもので、無理矢理にでも区切りをつけたかった。
ジェメドリッサは振りかぶり、宙高く婚約指輪を投げた。弧を描き、夕日を反射しながら煌めいて、ゆっくりと落ちていく。
その時のことだった。
水飛沫が上がり、何かが海面から飛び上がる。
魚だった。
ちょうど婚約指輪が落ちていく先に魚が現れ、二つの影が重なった。
「あ」
定かではないが、魚の口に指輪が吸い込まれていくように見えた。
再び水飛沫を上げて、魚がそのまま海中に戻る。
ジェメドリッサは一瞬、思考停止状態となった。
これは、成功と言えるのだろうか。
『涙の海』では、海中で指輪を運んだのは、光魚という神話上の魚だ。
しかし、ジオルガに随分と教えられたため、最近では神話に出てくる生物の存在には疑いを抱き、無意識のうちに、実際には海流によって流されたのだと思い込んでいた。
もしこの魚が本物の光魚なら、指輪はジオルガの元に行ってしまう可能性がある。しかし、ただの魚なら、お腹の中に蓄えられ続けるだけだろう。
微妙、の一言に尽きた。
「は」
気の抜けた笑みがでてきた。
昔のような神話に対する執着は年々薄まっている気がするが、消化不良にもほどがある。
ジェメドリッサは夕日に背を向け、静かに砂浜まで戻った。
身体中がべとべとしていて、気持ちが悪かった。
「大丈夫ですか」
フリエがタオルを持って駆け寄ってくる。
「ちょっと待って。私が洗うわ」
ジェメドリッサは右手を上に掲げた。
すると、手のひらから水が生じ、雨のようになってジェメドリッサの頭上に降ってきた。
これが、水神術だった。
天上の水神から生まれつき授かった水神力を用いて、水を生成することができるのだ。学院では高度な神術の使い方を学ぶそうだが、ジェメドリッサができるのは、単に水を手から生じさせることくらいだった。
「ねえジオ、乾か」
無意識にそう言って振り返ると、タオルを差し出すフリエと目が合った。慌てて口を閉じ、手を差し出して、タオルを受け取る。
「ありがとう。その、なんか、ごめんね」
「いえ、気にしておりません」
以前までなら、海で水の掛け合いっこをして遊んだ後は、ジェメドリッサが水で海水を流して、ジオルガが風神術で乾かしていた。その時の癖が出てしまい、自分は全くジオルガのことが忘れられないことに気付いた。
そして、思う。
記憶を消すのは不可能なのだ。そもそも、忘れられるわけがないのだ。昔から異性の友人といえばジオルガしかいなくて、同性を含めても彼が唯一の親友と呼べる存在だった。だったら意識するのは必然的で、思い出に残るのも当たり前のはずだった。
ジェメドリッサはこの記憶を抱えたまま、これからの人生を生きていかねばならないのだ。
「帰ろう、フリエ」
タオルで服を拭き終わると、ジェメドリッサは海に背を向けた。
考えれば当たり前のことだったが、風神術ではないので、完全に乾くわけもなく、邸宅に帰ればお風呂に入って着替えなければならないだろう。
そもそも神術を使ってまで乾かしていたのは、親にそういったお忍びの逢瀬を知られないようにするためだったのだ。政略的なことがなければ、セムトリー家を嫌っていた両親は二人の婚約を許さなかったはずだ。小さい頃は母親のいないジオルガをジェメドリッサの母親が面倒を見たりしていることもあったが、母親は乗り気ではなかった。
もともと不可能な婚約だったのかもしれない。
そう思うしかなかった。深く考えても、つらくなるのはジェメドリッサなのだ。
だったら、諦めて、現状を認めるほうが楽だった。
指輪はもう、どうでもよくなっていた。『涙の海』への情熱は、既に喉元を通り過ぎ、その熱さは忘れかけている。子供の頃の話なのだ。親に勧められ、好きになったが、最近ではその親の偏った思想に従って良いのか、わからなくなっていた。教育方針がその一例である。
身を縛るものは、記憶以外にはもうない。
家も身分も全て、捨てる手段はある。
もう一つ気になることがあるとすればフリエのことだったが、彼女は頼りになり、しっかりしているから、どこでもやっていける気がする。
自分の気持ちに従おうと思った。
◆ ◆ ◆
「アホ太郎ー! どこ? どこに行ったの?」
ミャオリンはいつもの場所で、一匹の魚を探していた。魚はたくさんいるが、光る虫を投げても、後で遅れて飛び上がる魚はいない。
声は明るさを装っていたが、出品当日となると、実際には焦りと不安でいっぱいいっぱいだった。
ミャオリンが出荷されると分かった日、ミャオリンに寄り添ってくれたアホ太郎は、その翌日には見当たらなくなっていた。
そしてとうとう今日まで見つからないままだ。これでは今までの感謝も、別れの挨拶もできない。
「ミャオリン! 何しとるんじゃ!? 早く来んかい!」
「わかってるけど!」
老いぼれ婆が入口の穴から顔を出し、顔を顰めている。
ミャオリンはしぶしぶそちらに向かう。
「髪がくしゃくしゃじゃないか! せっかくわしが整えたのに!」
「だって、おもいんだもん! 何なのよこれ?」
ジェメドリッサは自身の頭を指さした。
いつも下ろしていた髪は後頭部で一つにまとめられ、何か金属のようなものが刺さっていたり、巻きついていたりする。全て老いぼれ婆にされたため、どうなっているのかはよく分からないが、疲れるだけだ。
それに、髪だけでなく、妙な服装を着せられた。ヒラヒラした薄い布に、ところどころ複雑な形の金属がついている。
「奴隷というのは、そういうものなのじゃ! 人魚は美しさを求められておるからな」
「これが美しいの? 私こんなのなくても十分綺麗だと思うけど」
「それを自分で言うか……。じゃなくて、そういう理不尽を受け入れるのが奴隷じゃ! 貴族という金持ちの輩に飼われて、綺麗なものは着させてもらえる代わりに、自由はなくなる」
「きぞく? 何それ」
「お前さん、そんなんでこれから大丈夫なのか……?」
老いぼれ婆がため息をつきながらミャオリンの髪を整える。
「もうみんな外に出てるぞ……? 後はお前だけだ。遅れたら何されるか、わしが知ったことじゃないんじゃぞ?」
「でも、アホ太郎が見つからない……」
「誰じゃそれ」
「魚」
「知るか! さっさと行け! というかもっとこう、なんかないのか? ふざけてる場合じゃないだろうに」
老いぼれ婆に追いやられながら、ミャオリンは空間の外に出る。
「別に私もふざけるわけじゃないんだけど……」
ぶつぶつ呟きながら、ミャオリンは老いぼれ婆についていき、洞窟の出口まで向かう。服装が他の人魚に見つかり奴隷貿易についてばれないようにするために、いつもは通らない道を通る。
洞窟の出口付近には、人魚が十人ほど集まっていた。鉄の柵は上に上がっており、人間が箱に乗って偉そうにしている。
「おい、最後の人魚が来たぞ!」
「おせーんだよ、ババア!」
ミャオリンはその罵声に肩を震わせた。
他の人魚に目を向けると、全員両手を縄で縛られていた。その縄の先は人間が持っており、逃げることは不可能に見えた。
オウリャンと目が合う。無表情だった。諦めたのか、もうすでに目に光がなかった。
「お前も、ほら! おい、手を出せ!」
ミャオリンも同様に手を拘束される。
きつく縛られた縄が腕に食い込み、痛みを感じる。
「おうし、これで全部だな。じゃあ、出発だ!」
人間の合図とともに、ミャオリンたちは人間に引っ張られながら動き出す。
振り返ると、老いぼれ婆がこちらを見ていた。しわくちゃの頬から光の粒が流れ落ちて、泣いているのだと気づく。
ミャオリンはさっと目を逸らし、前を向いた。今更、何もかも遅いのだ。
人間の後ろをついて行くと、遂に洞窟を出た。信じられないくらいの量の光が、一行を取り囲む。
ミャオリンにとって初めての洞窟の外で、初めての空だった。広い海原の先に、水平線が見える。太陽の光に海が輝き、潮の香りをまとった暖かい空気で満ち満ちている。
でも、これからミャオリン達が向かう先にあったのは、見たことのないほど大きな箱だった。光を大きく遮り、ミャオリン達の前に重厚に立ちはだかっている。
「何これ……」
「船よ。多分、貿易用の帆船」
隣でオウリャンが淡々とした声でミャオリンに答えた。ミャオリンは改めて見上げ、声を漏らす。
「ふね……」
それならば、今人間が乗っている箱も、小さいが船というのだろう。
「なんでオウリャンは知ってるの?」
「……ジエンが言ってたのよ。あの子は察しが良かったから、多分ずっと昔からこの運命について知っていたのよ」
ミャオリンは何も言えず、じっとオウリャンを見るしかなかった。
ミャオリン達は船の陰に入る。途端、ひんやりとした空気に変わる。近付くにつれ、船の大きさに圧倒されるばかりだった。
「止まれ! ここからは、この船に乗ってもらう!」
大きな船のすぐ下に小船が着いたところで、人間が指示を出した。
前の人魚から順に小船に乗せられ、大きな船の上に引き上げられていく。
抵抗する人魚はいなかった。皆が、一人ずつ連れ去られる様子を黙認している。
これで良かったのかと、ミャオリンは今更思う。全ての思い出と、ミャオリンのアイデンティティは、洞窟の中に残ったままだ。アホ太郎という心残りもある。
これからの未来には、不安しかない。
「次、お前だ!」
オウリャンの番が来て、ミャオリンはびくりとした。オウリャンの次は自分の番で、それで最後だった。
その時、ミャオリンは下半身の尾に何かが当たったのを感じた。恐る恐る下を見る。
海の中に、何かの影があった。よく見えないが、無数の黒い影が、ミャオリンを取り囲んでいるようだった。




