第八話 『門出』
つんつんと、何かが尾をつついていた。その数は徐々に多くなる。
ミャオリンは目を凝らして尾の周辺を見た。
「……魚?」
洞窟の魚が、何故かそこにいた。今までついてきていたのだろうか。
何をしたいのか、よくわからなかった。魚はひたすら、ミャオリンの尾をつついている。何か伝えたいことがあるようにも見えた。
「虫? でも、もう私は虫はあげられないよ……?」
「お前! 何を喋っている!」
人間に怒鳴られ、ミャオリンは慌てて顔を上げる。
「最後はお前だ! 早く船に乗れ!」
しかし、ミャオリンは動かなかった。
やはり、理不尽だ。
なぜこんな奴の言うことを聞かなければならないのだろう。
このままでは、自ら不幸に首を突っ込むばかりだ。
「何をしている? いい加減にしろ!」
人間がミャオリンを繋いだ縄を強く引っ張った。
我慢の限界だった。いい加減にするのは、あちらのほうだ。ミャオリンは物ではない。ちゃんと意思がある。
「やめてよ! 痛いじゃない!」
「な、この……!」
人間は、力ずくでミャオリンを船に乗せようとする。
「だから触んなって言ってるでしょ!!」
ミャオリンが人間の手を振り払った、その時のことだった。
無数の魚が水飛沫を上げて跳ね上がった。
ミャオリンは、時間がゆっくりと流れるのを感じた。
魚は高く舞い上がり、口をパクパクと開けている。次の瞬間、その口の中から、無数の光が飛び出した。
おびただしい数の光は、宙を飛びまわり、ミャオリンを取り囲んだ。
「な、何だ!?」
人間が腰を抜かして縄から手を離し、ミャオリンは自由となったが、当の本人も呆然としていた。
青白い、小さな光の粒。
つまり、いつもの虫だった。
「虫……。お前らまさか、本当は寄生虫だったのか……」
ミャオリンは、ややずれた感想を抱く。
その間にも虫はミャオリンを取り囲み、他の海賊が近づけないように筒状の空間を形成する。
すると、ミャオリンの前に、一匹の魚が飛び跳ねた。
「……アホ太郎?」
遅れて群れから外れて一匹だけで飛び上がるのは、アホ太郎だけだった。鱗も見慣れた模様と色である。
アホ太郎は飛び上がりながら、口から何か虫ではない別のものを放った。それは光を反射したように煌めいて舞い降りて来て、ミャオリンの手のひらの上に落ちた。
同時に、アホ太郎も水中に戻っていく。
「何これ?」
ミャオリンは手の中のものを見て、首を傾げた。金属の小さな輪に、透明の石がついている。今ミャオリンが身につけさせられている装飾品のようなものだった。
ミャオリンが硬直していると、虫は囲いを崩し、船とは反対方向に向かって少し進んでから止まった。アホ太郎含む魚も、そちらの方に体を傾けている。
ミャオリンに対して、「ついてきてほしい」と言わんばかりだった。 ミャオリンは、大事なことなのだ、と直感した。
両手は縄で縛られたままとはいえ、その縄はもう人間の手にはない。つまり、ミャオリンは自由だった。
「うん、わかった」
ミャオリンは頷き、虫と魚の示す方向に向かう。
「おい! お前! 逃げる気か!」
人間が叫んでいるが、構う必要はなかった。
気になるのは、既に捕まってしまった人魚のことだ。
ミャオリンは船を振り返り、姿は見えなくなってしまった人魚に向けて、オウリャンに向けて、叫んだ。
「ごめん! 私だけ逃げる! 絶対に戻って助けに行くから! それまでお願いだから元気でいて!」
「おい! 待て!」
ミャオリンは泳ぐ速度を上げた。魚と虫も、それに合わせてミャオリンを案内してくれる。
いくら喚こうが、泳げない人間には追いつけるわけがない。
ミャオリンはひたすら、泳ぐことだけを考えた。
◆ ◆ ◆
「お嬢様、大丈夫ですか?」
「え、ええ」
フリエに気遣わしげに顔を覗かれ、ジェメドリッサはぎこちなく頷いた。
「本当にこれでいいのですか? 後悔しないと言いきれますか?」
「も、勿論よ! もう決めたのよ。きっと、大丈夫、な、はず」
ジェメドリッサは震える手で、トランクに荷物を詰め込んでいる。
計画はフリエにしか話していない。自室にも関わらず、誰か他の人にばれないかとびくびくしながら、準備をしていく。
とはいえ、行き先が行き先のため、必要なのは下着などの最低限の持ち物だけだ。他に大切なものがあれば持っていくつもりだが、正直あまりなかった。
「これは……」
ジェメドリッサは、『涙の海』の絵本を見つける。何度も読み聞かせをせがんだ上、文字が読めるようになってからは自分でも何十回と読んでいたため、かなり汚い見た目だった。背表紙は本体から外れかけており、紙は手垢で黄ばんでいる。ただこれでも、もっと古い他の神話の絵本よりは随分とマシだ。それくらい大切にしていた。
昔からの思い出の本。一生この家に戻らないのだと思うと持っていきたいが、その思い出には余計なものも含まれている。
ジェメドリッサは悩んだ末に、トランクの中に入れた。
「お嬢様……」
フリエの言いたいことはわかっていた。でもこれは、未練ではないはずだ。心残りはもうないのだと、少なくともジェメドリッサは思っている。
「あと何かやらないといけないことは……」
ジェメドリッサは誤魔化すように部屋の中を見回す。
「ペトリージャ様からの手紙は読まれたのですか?」
「ああ……」
フリエに言われて思い出した。
気が乗らなくて、あれから放置していたのだった。
机の前に座り、引き出しから手紙を取りだして封を開ける。
紙が三枚も入っており、ジェメドリッサが再び封を閉じたくなるのは無理もなかったが、ペトリージャの方が遥かに身分が高い。意を決して読み始めた。
親愛なるジェメドリッサ様へ
穏やかな日差しが心地良い季節ですね。いかがお過ごしでしょうか。
先日のお茶会でお聞きしたことに、私は大変心を痛めております。貴方の精神面が心配になり、夜も眠れません。ジオルガ様からの婚約破棄で落ち込む必要はありませんよ。原因は全て彼にあります。私も彼があのようなことをする方だとは思っておりませんでした。
今だから貴方に言えることなのですが、実は私も彼のことが好きでした。いいえ、そんな言葉では足りません。愛しておりました。学院では同じ学科でしたが、彼は成績優秀、性格も良く、私の憧れでした。全女子生徒、いえ、全生徒の憧れでした。正式な婚約者である貴方が羨ましかったものです。私の場合、出会った時から失恋のようなものでした。彼はあまり人とは話さず、ずっと勉強しているという印象でしたので、私も彼と話した回数は数える程です。しかし話すと彼は優しく、微笑みかけてくださいました。幼い頃から幼馴染として気兼ねなく彼と接した貴方を羨ましく思うほどでした。
ですから、今回の件に関しては、私は少し怒っております。彼の行いは浅はかで、倫理的に褒められることではありません。それが本性だったのかと、私は幻滅しました。ジェメドリッサ様も、怒っていいのですよ。
またそれと同時に、私はナヤルの王女の気が知れません。彼女はすでに結婚しており、その夫との間にも子がいました。その状態でジオルガ様と浮気をしようなどと思うなど、どういうことなのでしょうか。しかも愛人というわけでもなく、子供までできて、彼女は何も考えていなかったのでしょうか。隣国の王女ということもあり、ジオルガ様は身分上、下手に断ることができません。もしかすると彼は彼女に逆らえなかっただけかもしれません。
正直、ジオルガ様の不倫騒動は、身近にいた私たちミュリムソン学院の生徒も予期していないことでした。皆、その真相を知りたがっています。私は教授や両親に聞きましたが、そもそも知らないのか、箝口令が敷かれているのか、どちらにせよ何も教えていただけませんでした。
そこでジェメドリッサ様に、提案があります。恋に破れ傷心という点では、私たちは同士です。私の情報と、貴方の情報とで、ジオルガ様の不倫騒動の真相を暴きませんか。具体的には、お互いに手紙にて情報交換をしたく存じます。
あまり会えることもございませんし、このような手紙を他の方に見られては随分と不都合がありますので、今回のようにヘルド様に伝書鳩役をしてもらおうかと思っております。彼は平民ですので、幾分貴方も使いやすいかと。
快い返事をお待ちしております。
水神様に祈って
ペトリージャ
ジェメドリッサは、手紙をくしゃくしゃに丸めて壁に投げつけたい衝動に駆られた。
ペトリージャは確かにジェメドリッサよりも高位である。少しお節介だからといって、自分勝手だからといって、それで怒っていられるほど貴族社会は甘くない。彼女がジオルガをどれだけ好きだったのかなど興味はないし、むしろ学院という同じ空間にいれた彼女の方が羨ましかったが、その感想はひとまず置いておく。
何よりうんざりしたのは、最近、あらゆる人がジェメドリッサにする話題が、全てジオルガ関係であるということだ。そしてまた、やはり気になって自分も全て相手をしてしまうというのも、ジェメドリッサが苛立ちを覚える理由の一つだった。今回も、何だかんだいって、全て読んでしまった。
「お嬢様、お返事を」
フリエがジェメドリッサの前に鉛筆と紙、そして硬いパンを置いた。
ジェメドリッサは鉛筆を握り、白紙と睨み合う。断りたかった。これからは貴族と関わるつもりはなかった。でも、どうやって断ればいいのだろうか。
考えているうちに、邪念がやはり現れる。
鉛筆といえば、ジオルガから聞いたことだが、学院ではインクを使うペンよりも好まれるそうだ。ジェメドリッサの場合、よくわからない大事な書類へのサインとしてインクを使うことが多かったが、勉強する側としては、硬いパンで消すことのできる鉛筆の方が使いやすいらしい。それが羨ましかったから、ジェメドリッサも鉛筆を使って、いかに字を綺麗に書けるかという練習をしたものだった。
また、ジオルガの謎発言も思い出す。鉛筆はそれと同じだ、とジェメドリッサの指輪を指差したことがあったが、意味がわからなかった。値段の話かと問うと、鉛筆は遥かに安い、と笑われ、答えをせがんだが、当てるまで教えない、と意地悪をされた。結局その後無駄話をしたため、答えは未だにわかっていない。
特に気になるわけでもなかったが、ちょうど今それを思い出し、無意識にジェメドリッサは自身の手を見た。そこにはかつてのダイヤモンドの輝きはない。
「お嬢様」
フリエに呼ばれ、ジェメドリッサは両手で頬をぱちんと叩く。鉛筆をぐっと握りしめ、とりあえず宛名から、書き始めた。
夜になり、ジェメドリッサの緊張は絶頂に達していた。湯浴みを済ませ、服を着替え、準備は万全だった。手紙も書き終え、後のことは全てフリエに頼んでいる。
「今から私は、ただの平民よ。恋人に振られ、帰る家もない、可哀想な貧民」
部屋の中をぐるぐると歩き回り、自分に暗示をかける。ちょうど部屋の外の様子を見ていたフリエが帰ってきたところで、呆れた顔をされた。
「旦那様も奥様も既にお休みになられたようです。行くなら、今かと」
「そうなのね……。ありがとう」
彼女とももうここでお別れである。今まではずっと頼りっぱなしだったが、これからは一人で生きていかねばならない。
冷静沈着、常に礼儀正しく、理想の侍女として振舞っていたフリエ。一見よそよそしく感じられるところもあるが、実は素直でないだけだと、ジェメドリッサは長年の付き合いから知っていた。主従関係が入ってしまっているためジェメドリッサからは何も言ったことはないが、同年代で親友と呼びたいのは、フリエくらいだった。
「フリエ、いつもありがとう」
ジェメドリッサは両手を大きく広げ、フリエを抱きしめる。フリエは一瞬硬直した後、そっとジェメドリッサの背中に手を回した。
「いえ、こちらこそ。離れていても、私はお嬢様の幸せを願っております」
「フリエも、自由になって。別にお母様の言葉なんて聞かなくていいから」
「それは……。そうですね、はい。ありがとうございます」
フリエは微笑んだ。ジェメドリッサは一瞬虚をつかれたような表情をしたが、すぐに微笑んでさらにきつく抱きしめた。
「じゃあ、行ってくるわね」
ジェメドリッサは忍び足で廊下を歩き、静かに邸宅を出た。門番には、遅効性の睡眠薬を夕食時に仕込んだため、申し訳ないが今は寝てもらっている。あっさりと敷地を出ると、後はもうすぐだった。
一晩中歩き続け、ジェメドリッサが辿り着いた場所は、白を基調とした神聖な建物、すなわち、教会だった。
その横には湖があり、三日月を映し出している。
そこは水神教の聖地の一つ、マルガン湖。
別名、涙の海。
静寂の中、みすぼらしい服を着た少女が門を叩く音だけが、辺りによく響いた。




