第九話 『文化の違い』
外の世界は、一言で言うと眩しかった。途中、海の中にあった岩で手を縛っていた縄をちぎり、完全なる自由を得てからは、ミャオリンは心置きなく広い海原を泳ぐことが出来た。
魚と虫の後ろを泳ぎ、とうとう人間の世界というものに辿り着いた。
人間が住む大陸は巨大で、ミャオリンは海の中で圧倒されながらそれを眺めた。
煌びやかな港に、装飾の施された船が何隻も泊まっている。港の近くの建物には、海の中の人魚の数よりはるかに大勢の人間がいる。うるさいくらいたくさんの声が飛び交い、陸の上の道を二本の足を動かして歩いている。
ところで、人間の世界まで着たミャオリンだったが、今は港から少し離れた海で立ち止まってしまっている状態だった。
「ねえ、これから私はどうするべきなの」
尻尾の周りを巡回している魚と、ミャオリンを取り囲む虫に話しかけるが、返事はない。先程から停滞したままで、ミャオリンは途方に暮れていた。
「この輪っかって、どうしたらいいの? 人間の落とし物? 返しに行けってこと?」
ミャオリンは指先で金属の輪をくるくると回すが、相変わらず、何も教えてくれない。
ただ、落とし物を返せば感謝されることは、これまでの経験から知っていた。洞窟の中にも貝がらが好きな人魚がいて、その収集品の一つが落ちていたのを拾って渡したら、感謝されて、仲良くなれた。しかし彼女もいつのまにかいなくなっていた。それも人間のせいだ。
何をするにしても、まずは人間について知らなければならない。ミャオリンの最終目標は、オウリャン達を助けて、洞窟のみんなも助けることなのだ。
ミャオリンは仕方なく、人間の港に近づくことにした。魚と虫は、何故かついてこなくなり不安になったが、だからといってどうしようもなかった。
人間は怖かった。
あんな暴言は今まで吐かれたことがなかった。
だから恐る恐る、海面からわずかに顔を出しながら、泳いでいく。船がたくさん泊まっていたから、その影に隠れながら、ばれないようにひっそりと。
「お前さん、何しとるんじゃ」
突然背後から声がかかり、ミャオリンは咄嗟に海中に潜った。
「おいおい! 若い嬢ちゃん! 大丈夫か!?」
小さめの船の底が見え、後ろに船があったのだと気付く。
その船から、人間が叫んでいるようだ。
「いや、大丈夫じゃねえな……! 溺れとる……。俺一人じゃなあ……。おーい! 若い女が」
ミャオリンは嫌な予感がして、慌てて海面から顔を出した。他の人間を呼ばれて大きな騒ぎになる方が困る。
「私は大丈夫よ!」
突然現れたミャオリンに、人間は目を丸くして船の上からこちらを見下ろしていた。
老いぼれ婆のような年寄りだったが、肌の色は浅黒く、顔の至る所に傷が見えた。眉間に皺を寄せ、白い髭を撫でている。
「お嬢ちゃん……。綺麗な格好して、なんでこんなところにおるんだ?」
「え、えと……」
「ん? お嬢ちゃん、足が……。まさか」
血の気が引いて、ミャオリンは再び潜って逃げようとする。しかし、人間が声を小さくして呼び止める。
「待て待て……! 俺は敵じゃない。こんなところにいるのはどちらにしろ危ないぞ。どうしたんだ?」
ミャオリンは人間をじっと見つめた。疑いは消えない。でも、周りを見渡す限りたくさんの船が泊まっていたため、いつか見つかってしまうのは確実だろうとは思った。
「あなたは誰?」
「俺は船に乗ってあちこちで商売している、まあ、商人というやつだ。ちょいと特殊な職種でな。もしかしたらお嬢ちゃんの役に立てるかもしれん。勿論、お嬢ちゃんのことは誰にも言わねえ」
「本当?」
「ああ、信じてくれ」
ミャオリンは迷いながらも頷いた。
「ところで一つ疑問なんだが、これからどこに行くつもりだったんだ?」
「人間の世界。なんかこの、変な輪っかの持ち主を探してるの」
ミャオリンが金属の輪を見せると、人間は目を丸くして船の上から前のめりになった。
「お前さん、それは……。深くは聞かないが、大事に持っておいたほうがいいぞ」
人間はミャオリンに紐のようなものを差し出した。
「これにその指輪を通して、服の中に隠しておけ」
「指輪? 指の輪っか? って何?」
「……そうか、文化の違いだな……。これは指に嵌めるものなんだ。ただ、今のこの人間の世界では、見せない方がいい」
ミャオリンは人間に言われた通りにする。
「ありがとう。じゃあ、この持ち主に返すにはどうしたらいいの?」
「まず、無闇に聞かない方がいい。そうだな、お偉いさんだろうから、特に綺麗な建物を目指すのがいいだろう。貴族の屋敷を目指すんだ。彼らには苗字……いわば第二の名前があるから、それでわかるはずだ
「きぞく……うん、わかった」
「あと、そもそもなんだが、お嬢ちゃん、どうやって陸に上がるつもりだ?」
「それは……」
ミャオリンは、何も考えていなかったことに気付いた。妙な使命のようなものに駆られてここまで来たが、よく考えれば周りは人間ばかりで、ミャオリンが頼れるものはない。
ミャオリンは縋るように目の前の人間を見た。
「お嬢ちゃん、その上目遣い、気をつけた方がいいぞ……。ともかく、足が生える薬があるから、それを渡そう」
人間は船の屋根がついたところに入り、何か木箱を開けるなどしている。色鮮やかな装飾のされた商船という、明らかに胡散臭い風貌であったのだが、ミャオリンが気付くはずもない。
「これを飲むといい」
人間が差し出した瓶を、疑いもなくミャオリンは受け取った。中に赤い液体が入っているようだった。コルクで蓋がされている。
「効力がかなり強いから、お嬢ちゃんの場合、一度に一口が適量だろう。ただ、何があっても全部を飲むのはやめておけ」
「へえ……ありがとう」
ミャオリンは早速、恐る恐る瓶に口をつけ、ひとまず液体を舐めてみた。
「あ、おい、ちょっと待て!」
人間が慌てたようにミャオリンの手から瓶を奪った。何かまずいことがあったのだろうか。しかし、ミャオリンは既に飲んでしまっていた。
下半身に強い違和感を感じた。急に、泳ぎ方がわからなくなる。尾ひれに力が入らない。
「あ」
ミャオリンは海に沈みそうになった。
その時、人間がミャオリンの腕を掴んで、強引に船の上に引き上げた。
「お嬢ちゃん、話を聞いとったのか? 足が生えるんだぞ?」
「え……?」
ミャオリンは自分の下半身を見て、目を瞬かせた。尾ひれが二つに分裂して、鱗が薄くなっていく。腕のようなものが腰から現れてきて、その先には手のようなものがついている。
正直なところ、足というものをよくわかっていなかった。足では泳げなくなるのだと、初めて知る。
ミャオリンは商船の上にぺたりと座ったまま、立ち上がれなかった。
「っお嬢ちゃん! その格好はまずいぞ!」
人間が急に顔を青くして、再び屋根の中に入り、布を持って出てくる。人間は何故か目に手を当てながら、ミャオリンに布を二つ渡した。
「……はやく下着とスカート履いてくれ」
「は?」
「あー。穴に足と腰を通せばいいんだよ、とりあえず」
ミャオリンは渡された布を見比べて、戸惑いながら、とりあえず穴に足を通して、もう一つの布を頭から被って下まで降ろして腰から下を覆うことに成功した。
「何これ?」
「人間としての尊厳だよ。肌を見せたがらないんだ、お嬢ちゃんらと違って。女だけじゃなくて、男がいるから」
「男……。ってどんな感じ?」
ミャオリンは、老いぼれ婆の言葉を思い出した。あの洞窟には女しかいなかったが、男の人魚もいるのだと、昔教えてくれた。何が違うのかと問えば、はぐらかされてしまったが。
「おいおい……。人魚の社会って大丈夫なのか……? そうだな、男っていうのは、俺みたいなもんだ」
人間は自分を指差した。そして、少し離れたところにある船を指差した。
「あそこに乗ってるのが女だ」
「え」
ミャオリンは驚いた。人間の女は、ミャオリンたちとはほとんど変わらない容貌をしていた。体はなぜか大量の布に包まれているが。
ミャオリンは逆に男の人間しか見てこなかったことに気付き、ほんの少しだけ、恐怖心が薄れた。
「ちゃんと理解しておかないとこれから困るぞ。お嬢ちゃんが持ち主を探してる指輪も、おそらく男女絡みだ。恋人か、婚約者か、夫婦か……。というかなんでそんな何も知らない状態でこの指輪の持ち主を探そうと思ったんだ?」
「……勘? 落とし物を拾ったらきっと感謝されて、助けてくれるかもしれないって思って」
「それは……」
「何?」
「いや、なんでもねえ。まあ、ここまで面倒見たついでだ。とりあえず陸まで船で送ってやるよ」
人間の男は、そう言って船を動かした。突然の揺れに、ミャオリンは船の縁につかまった。
このころには、この人間は良い人なのだと、ミャオリンは印象を改めていた。ミャオリンたちを捕まえたような悪い人ばかりではない。でも、人魚だとは絶対にばれてはいけないのだと、この人間の反応からもわかった。
人間が歩いているのを見て、ミャオリンは必死で立ち上がり、生まれたての小鹿のように震えながら歩こうとする。しかし、もたついていたのもつかの間、すぐに歩けるようになった。
地面を歩くのも楽しかった。泳ぐときの浮遊感とはまた別の、安定感がある。
「よし、到着だ」
人間が港について、錨を下ろした。人間から足が生える薬を受け取ると、ミャオリンは船を降り、高揚感とともに辺りの街並みを見まわした。それから船を振り返り、人間の目を見つめる。
「いろいろ教えてくれてありがとう。私、頑張る」
「ああ、怪しい奴に捕まるんじゃねえぞ」
人間が手を振った。
「うん」
手を振り返し、ミャオリンは意気揚々と、人間だらけの喧騒の中に突っ込んでいった。
この時のミャオリンはまだ、『怪しい奴』が何か、よくわかっていなかった。
◆ ◆ ◆
朝日の眩しさに、ジェメドリッサは堪らず目を覚ました。
二度寝をしようと腰まで下がっていた布団を引き上げようとすると、ぺちっと誰かに腕を叩かれた。
「起床時刻よ! さっさと起きさない! ジェシー!」
ジェメドリッサは二三度瞬きをした後、全てを理解して、慌てて飛び起きた。
「申し訳ございません! ニシェリア様」
家出から早一週間。ジェメドリッサは、教会の隣にある修道院で生活していた。孤児院もあるというその大規模な宗教施設は、ジェメドリッサが貧しく可哀想だが信仰に熱心な少女を装うと、すぐに匿ってくれた。ジェシーというのは、身分を隠すために作った偽名である。
ただ、これから一生を過ごす施設である。生半可な覚悟では駄目だった。他の修道女と同様、時間を守って行動し、神に祈らなけらばならない。
貴族の自堕落な生活に慣れていたジェメドリッサにはかなり辛かったが、それでも今は随分と慣れてきた方だった。
「朝のお祈りが始まります! 急ぎなさい!」
「はい!」
二シェリアは修道女の指導者だった。厳しいが、自らも規律を守り、一生を水神に捧げるという覚悟をした、水神教の敬虔なる信徒だ。
教会まで優雅に急ぎ、大勢の水神教徒の中に混じり、祈りを捧げる。朝食よりも先に、お祈りをするのが慣習だった。
司祭の詠む聖典を復唱しながら、頭を垂れて同心円状に並ぶ。
聖典の内容は、昔から夜の読み聞かせで母によく聞かされていたため、全て内容は頭に入っていた。一神教であり絶対神は水神だが、恐れ多いため名前は誰も知らない。心を澄ませて聖なる空間に身を置くことは、全てを忘れさせてくれて、ジェメドリッサは浄化されていく気がした。
水神教では、男も女も頭部を白い布で覆うというのがきまりだったから、建物の白さとも相まって、一面が白く見える。一般の信徒ならばどちらでもいいのだが、修道士や修道女の場合は絶対で、というのも、容姿などの表面的な要素を覆い隠すことで、精神が清められるのが理由だそうだ。修道院に入れば一生結婚は許されず、貞淑であることを求められる。加えて食事にも制限があり、基本的に生物は食べず、新鮮な果物や生野菜など、素材をそのまま食べることで、身も心も清潔になるのだそうだ。
これは、ニシェリアから言われたことでもあり、ジェメドリッサがもともと知っていたことでもあった。だから修道院に入ったのだ。ジェメドリッサにとっては、それこそが好都合だった。
また、一日三回の祈りに加え、奉納という儀式が一日に一度あった。これは、水神術者にしかできないことだった。名の通り、水神教とは水神術者の宗教で、水神術者に水を生成する能力を授けた水神を信仰する。
それに対する感謝として、聖杯に水神力で生成した水を注ぎ、水神に捧げるのだ。その水は聖水と呼ばれ、万能薬ともされている。ジェメドリッサは奉納の間の神聖な雰囲気が好きだった。
ただ、一つ、気になるところはあった。
祈りが終わり、修道女も修道士も、教会を出ていく。この時、周りの修道女とよく話すのだが、彼女たちはどうにも、世間の情勢に詳しかった。ほとんどの者は孤児だと話すが、実際はどうなのだろうか。
「ねえ、最近、ナヤル国との関係が微妙なんですって。心配だわ」
「そうですね」
そういった話をするたびにジェメドリッサの胸が騒いだ。会話の内容が、貴族の時とあまり変わらない。自分のことは棚に上げ、修道女たちの素性が気になって仕方なかった。
俗世のことは捨てると決めたのに、なぜこのような話を聞かなければならないのか。どこか責められているような気がして、いつかジェメドリッサの正体が見破られるのではないかと気が気でなかった。
「あ、ジェシーさん、そちらではありませんよ。食堂はこちらです」
「すみません、ありがとうございます、ディーアさん」
親ほどの年齢の修道女に教えてもらい、ジェメドリッサは心が暖かくなった。
ニシェリアといい、親切な修道女がいて助けてくれるから、ジェメドリッサはここで暮らしていけているというのは事実なのだ。
ジェメドリッサは若干の不安を抱えながらも、修道女としての生活に慣れていった。




