第六話 『逡巡と決意』
あれからずっと考えていた。
ジオルガとナヤルの王女の接点とは、何なのか。ジェメドリッサはこれからどうすべきなのか。
ジェメドリッサも、婚約破棄から一ヶ月が経った頃には少し気持ちの整理はできていたが、ナヤルの王女への奇妙な嫉妬心だけは消えなかった。王女の名前はサリアナというらしい。
てっきりミュリムソン学院での交流があったのかと思っていたが、どうやらサリアナ王女はミュリムソン学院の生徒でも卒業生でもないらしかった。だから余計に気になった。ジェメドリッサからジオルガを奪った悪女とはどんな人間なのか。幼なじみのジェメドリッサとは長い付き合いだったが、彼女とはどれだけの月日を過ごしたのだろうか。
そんな嫉妬は無駄なことだと、ジェメドリッサも頭では理解していた。ジェメドリッサを裏切ったのは、サリアナ王女というよりも、ジオルガなのだ。
でも、それが未だに認めがたくて、サリアナ王女にすべての罪をなすりつけたら楽になれるだろうか、という安直な思いが心の内を巣食っていた。
ただ、貴族のお茶会は全て断ってしまったから、情報源はフリエや両親だけだった。
詳しい話がわからず少し苛立っていたところで、ある日、ジオルガの友人だという平民がマイトリヒ家を訪問した。
「あの、すみません。僕、ヘルドと申しまして、ミュリムソン学院ではジオルガ様の友人なのですけれど」
事前の連絡も何もない、突然の訪問だった。両親は、『そんな失礼な人は相手をしなくていい』と言ったが、ジェメドリッサに用があるらしく、それも本人に直接会いたいとのことだったから、ジェメドリッサが出迎えた。
客間に呼び一息ついたところで、ジェメドリッサは向かいの席に座るヘルドに尋ねた。
「突然どうされたのですか?」
ヘルドはジオルガの友達。何か情報を持っているかもしれない、という期待はあったが、不安の方が大きかった。
しかしヘルドは特に緊張した様子もなく、にこやかに微笑んでいる。
「ペトリージャ様から手紙を預かりました。内容は知りませんが、ジェメドリッサ様だけに読んでいただきたいそうです」
「ああ……そうですか、ありがとうございます」
ぎこちない笑みを浮かべて、ジェメドリッサはヘルドが差し出した封筒を受け取る。その表情を見て、ヘルドも苦笑した。
「内容は知りませんが、正直僕からも想像はつきますけどね。どうせ大したことないくだらないことですよ」
ヘルドの包み隠さない言い方に、ジェメドリッサはとっさに周りを確認してしまった。幸いフリエしかいなかったが、フリエの笑みも凍っていた。
「ま、まあ、読んでみますわね」
「そんなに身構えなくて大丈夫だと思いますよ。ペトリージャ様はずっとジオルガが好きで、ジェメドリッサ様に嫉妬してましたからね。浮気されたことで無意味なマウントをとってくるだけでしょう」
「そ、そうなのですね」
ジェメドリッサの笑みが引き攣る。
それには気づかず、ヘルドは続ける。
「ところでジェメドリッサ様、ジオルガの奴に関しては申し訳ありませんでした。そんな酷いことをする奴だとは思ってなかったので、正直俺……僕も驚きました。早くから気付いていれば、僕も注意できたのですが、全然そういう素振りはなかったので……」
ヘルドはそこで頭を下げた。
フリエが何か言いたそうにしているが、ジェメドリッサは一旦それに気づかないふりをする。多分、悪い人ではないのだ。学院の文化は知らないが、貴族の文化とはかなり違うのかもしれない。
「ヘルド様が謝る必要はありませんわ。私はまだジオルガ様本人から何の説明もないので、どちらかというとそちらの情報を知りたいのです。その、どういう経緯でこんなことになってしまったのか、という……」
ヘルドは頭を上げ、目を瞬かせた。
「ジオルガは何も言ってないのですか!?」
「ええ、ですから、私もいきなりナヤルの王女と言われても、未だにパッとしなくて……」
「そうなのですね。というかあいつ酷いな……。では、僕が知っていることなら話せますよ」
そこでヘルドはティーカップを掴み、紅茶を一気に飲み干した。
「どうやら、ナヤル国とは、学院入学時から交流があったそうです。僕はあまり知らなかったのですが、月に一回ほどはナヤルの王宮に行っていたそうです。ただ、教授にも聞いたのですが、理由や目的は開示されていませんでした」
「ではナヤルの王女とは、その時に……?」
「おそらく。その、僕には何とも言えませんが。彼のことは信じたいですが、もう子供ができてしまっているとなると、友達とはいえ、流石に擁護できません」
ジェメドリッサは耳を塞ぎたくなった。落ち着け、落ち着けと自分に言い聞かせるが、嫌悪感ばかりが込み上げてくる。学院入学時ということは、二人が婚約したばかりの頃にはすでに会っていたということなのだろうか。
「ヘルド様。申し訳ございませんが、ご退出願えませんか」
ジェメドリッサは驚いてフリエを振り返った。今のはフリエの声だった。涼しい顔をしているが、服のエプロンをきつく握っているのが見えた。
「ジェメドリッサ様は現在、不安定な精神状態ですので」
フリエは震えていた。その言葉は確かに救いだったが、自分が情けなかった。この場でそれを言うのは、明らかにフリエの役目ではない。
ジェメドリッサは恐る恐るヘルドを見た。しかしヘルドはわかりやすく「しまった」という顔をしただけだった。
「そうでしたね、無遠慮でした。申し訳ありません。ジオルガからも貴族には過剰なくらい気を遣えと言われていたのですが……。あ、これも失言でしたね。すみません、帰りますね」
早口でまくし立てると、ヘルドは席を立ち、部屋を出る。その後ろ姿がどことなく沈んでいた。
これでいいのかと、ジェメドリッサは自分に問いかけた。
ヘルドはジオルガの友達だ。それに、学院を卒業した賢い人だ。フリエへの態度からしても、良い人なのだ。このまま事実から逃げ続けても、自分は前に進めない。
だったらまずは、自分の気持ちにけりをつけなけらばならない。
これ以上フリエに迷惑をかけていいのか。これ以上他人に気を遣われ続けていいのか。
いいわけがない。
「ちょっと、待ってください!」
ジェメドリッサは慌てて部屋を出て、ヘルドを呼び止めた。ジオルガの時と同じ流れだった。
いつもワンテンポ遅れて、自分の伝えたいことを後回しにしてしまう。
いつも、流されてばかりで、助けられてばかりだ。
でもこれは、ジェメドリッサの中で解決させて終わらせないといけないことだ。そして、前に進まなければ何も成長できない。
「ヘルド様、もし何かジオルガ様やナヤルの王女に関して他の情報が入ってきたら、私に教えてくださいませんか?」
「ええ、勿論ですよ。僕が知ってることで良ければ」
ヘルドは軽く微笑んだ。その微笑みに、ジェメドリッサはもう一歩、踏み込んでみたくなった。
「それと、その」
「何です?」
「もし、もし良ければ、学問を教えていただけませんか! ミュリムソン学院は流石に無理ですが、どこかの学院に行って勉強したいのです。ジオルガ様はもういないので、私がこの家を引き継がないといけないのです……!」
結局ジェメドリッサが考えついたのは、学院に行くことだった。今後必要になってくるのは、すなわち教養だ。
両親はこれまでずっと、ジオルガに任せればいいからと、ジェメドリッサには何も教えてくれなかった。フリエによると今も学院には反対しているらしいが、正直何故そこまで反対するのかわからない。両親の言うことに従うことが正しい、というわけでもないはずだ。少なくとも今回の件において、ジェメドリッサは、新しい婚約者などはもう御免だった。それなら、一生独身でいい。
「両親は新しい婚約者を探そうと躍起になっています。でも私はもう嫌なんです。お忙しいとは思うのですが、どうか、学院に関する情報も教えていただけませんか」
ヘルドは頷きつつも、首を傾げた。
「ええ、大丈夫ですよ。でも、御両親には聞かないのですか? 学院なら、専用の家庭教師をお願いすることもできるかなと思うのですが」
「それが、その、両親が学院への入学を許してくれないのです」
「え?」
ヘルドは目を瞬かせた。
「そんなことあるんですか? 今どき貴族の多くが入学していると聞きますよ?」
「本当に私もそう思うのですが、どうも」
「随分とずけずけと他人の家庭に口出しできるのね、ヘルド様」
突然母の声が耳元で聞こえ、ジェメドリッサは凍りついた。
振り返ると、笑顔の母がヘルドとジェメドリッサを交互に睨んでいる。
完全に気付かなかった。
「ジェメ、何度も言ったわよね。学院は無理です。興味をもってはいけません」
「なぜですか? ジオルガ様が入学した時、私も学院に行きたいと言っていたはずです。その時も無理だ無理だと、お母様は理由を言ってくださらなかった」
「理由は関係ありません。無理なものは無理です。すでにミュリムソンの王女から婚約者の紹介も来ています。あなたはいい加減気持ちを新たにしなさい」
ヘルドが気まずそうにしているのが申し訳なかった。フリエは真っ青になった顔を両手で覆っている。
「お母様、でも、この家との婚約にメリットはないのではないですか。領地経営のお金もギリギリの状態で」
「それはジオルガ様の件でセムトリー家から十分な資金を頂きました。困るどころか、持て余しているわ」
「では学院は? 学費は払えるということですよね? なぜ反対するのですか?」
母は黙り込んだ。嫌な空気がその場に充満していた。
しばらくして、母が口を開いた。
「フリエ、ヘルド様をお見送りしてちょうだい。ジェメは、私の部屋に来なさい」
フリエはジェメドリッサを見た。ジェメドリッサはため息をつき、そして首を振る。
「お願い、フリエ。ヘルド様、本当に申し訳ありませんでした」
フリエとヘルドがが黙ってその場を離れると、ジェメドリッサと母も、母の私室に移動した。ジェメドリッサは正直母が何の仕事をしているのか知らないのだが、その部屋はまるで執務室だった。
左右の棚にはびっしりと本が詰まっており、机の上には沢山の書類が乗っている。
矛盾ではないかと、常々思っていた。ジェメドリッサには禁止する癖に、母は学院を卒業しているのだ。
母は眼鏡を掛けて、机の上の書類の束を手に取った。
「ジェメ、これを見なさい。全部あなたへのラブレターよ」
その量に、気が遠くなった。
「お茶会で話題になったんですって? ミュリムソンの王女様や、侯爵令嬢様、伯爵令嬢様まで、みなさんあなたのために婚約者を探してくれているそうですよ」
婚約者、婚約者。結婚、結婚。
嫌がらせだろうか。そんなに結婚が大事なのだろうか。
みんな好き勝手にジェメドリッサの感情を推し量って、わかった気になって、お節介になる。
「お母様、もう、いいです」
思ったよりも低い声が出た。
「私はもう結婚しません」
「何ですって?」
「ですから、婚約者はもう要りません。家のことでしたら私が一人で学院に言って学んで、頑張ります。跡継ぎは養子をとればいいでしょう?」
母は眉間に皺を寄せ、額に手を当てた。
「もう一度言ってみなさい」
「え」
「……本当に物分りの悪い子ね」
あからさまにため息をつく。ジェメドリッサと目を合わせようともせず、口を真一文字に結んでいる。
ジェメドリッサは目を丸くした。
生まれて初めて母を怖いと思った。
いつもは穏やかな母親なのだ。昔から優しくて、特に何も反対されることはなかった。
逆になぜそこまで反対されるのか、理由が分からない。学院に行くことの何が悪いのだろうか。確かに学問を女子が学ぶのは、昔はよろしくなかった。けれども今は、学がなければ恥をかく時代だ。
ジェメドリッサは震えながら口を開いた。
「な、何度も言いますが、私は結婚しません! 学院に行かせてください! それがなぜいけないのか、理由を教えてください、お母様!」
「あれだけフリエにも言っておいたのに」
母は部屋をゆっくりと歩き回りながら呟く。ジェメドリッサは青ざめた。
「フリエに何を言ったのですか? フリエは関係ないでしょう!? 私の意思です! なぜ学院は駄目」
「だから、学院は危険なのよ! 無闇に興味を持ってはいけない分野というのもあるの! あなたと同じような純粋な人ばかりではないの!」
母がジェメドリッサの言葉を遮って叫んだ。
「私は学院に行っていたからわかるのよ! あそこは、特に、上に行けば行くほど、妙なことに巻き込まれる可能性があるの!」
でも、危険だから、なんだと言うのか。
「お母様は私を信用してくださらないのですか!? 私はもう子供ではありません! ずっと部屋で刺繍ばかりしていて、それが何になるのです?」
「でも実際にジオルガ様のことを、あなたは信じて疑わなかったでしょう!? 彼も学院の生徒よ! 騙されたというのに、今もまだ引きずっている」
「それは……!」
ジェメドリッサは言葉に詰まった。理性ではわかっているのだ。もう忘れなければいけない時期に来ている。
でも、同じことが繰り返されるかもしれない、という恐れはどうしても消えない。男性との交流がほとんどないジェメドリッサにとって、新しい婚約者というのは苦でしかなかった。
そこでふと、ある考えが浮かんだ。
結婚をしない、というより、してはいけない状態になる方法が、一つだけある。そもそも、引き継がなければならない、という考えに従う必要はないのだ。だったら、興味がないわけではないが、学問は必須ではない。
しかし、それを口にするのは躊躇われた。母の思想には沿った考えだが、貴族としてそれを選ぶことは、すなわち家を捨てることを意味する。
流石にそれは、許してくれないだろう。
しかし、黙っていればどうなるだろうか。
良くも悪くも、後戻りはできないのだ。
「わかりました」
ジェメドリッサは慣れない嘘をついた。
「お母様の言う通り、学院は諦めます。ですから、婚約者には浮気のしない良い人を選んでください」
心臓がうるさく音を立てていた。緊張して、背筋に汗が流れるのを感じる。
しかしあっさりと、母はジェメドリッサを信じてくれた。
「ええ、勿論しっかり私が吟味するわ。それでいいのよ。良い子ね」
母は微笑み、ジェメドリッサと視線を合わせた。心底安心したような顔。その落差に、再び恐怖を感じた。
でも、決意は揺るがなかった。これまでジェメドリッサに反対しなかった母と同様に、ジェメドリッサも両親には特に反抗してこなかった。
でも従順なままでは、自分の思い通りにいかない。どこかで行動しないと、何も変わらない。無理矢理にでも、前に進まなければならない。
覚悟が定まってきて、これからの人生に思いを巡らしてみる。不安は大きかった。
でも、希望はあるはずだ。
「お母様、わがままを言って申し訳ありませんでした。少し、気持ちを切り替えてきます」
ジェメドリッサは微笑むと、身を翻して部屋を出た。




