第三話 『侍女と家族』
家に帰ると真っ先に、ジェメドリッサは貴族が許される最高の速度で父の執務室に向かった。
侍女のフリエが驚いて慌てて追いかけてくるのを申し訳なく思いながらも、扉をノックする。
「お父様。今よろしいでしょうか?」
「ああ、ジェメか。ちょっと待ってくれ」
「わかりました」
ジェメドリッサは執務室の前にじっと立つ。
追いついてきたフリエが眉をひそめてこちらを見ていた。
「お嬢さま、今日はどうされたのですか。朝よりもお顔が酷くなっていますよ」
「……ねえ、フリエ」
ジェメドリッサは苛立ちを隠せない低い声で言った。
「あなたは知っているの? ジオルガ様のこと。お茶会でその話題が出て、私だけがよくわからなかった」
「い、いえ、すみませんが私は何も知りません。婚約破棄されたことを馬鹿にされたのですか?」
「……そうではないのだけれど。その、学がない、っていうのは、恥をかくものなのね。お茶会に出席された令嬢方の話が全くわからなかったの」
「それは……」
「私も学院に行きたかった。お金がないのはわかるわ。でも、このマイトリヒ家には私しかいない。婿に入ってくれる婚約者もいなくなった。でも私は学がないから家計なんてわからない。このままでは、もっと没落していくばかりよ」
そこまで言うと、はっとして、ジェメドリッサは口を噤んだ。
「ごめんなさい。八つ当たりをしてしまいました。フリエに言っても仕方がないわよね」
「いえ、お嬢様。悩みがあるのなら、いつでも聴きますよ」
「ありがとう」
ジェメドリッサとフリエは、無言で執務室の前に立つ。
しばらくして室内から執事が扉を開け、父の仕事に区切りがついたと話した。
ジェメドリッサは一人で執務室に入る。執事とフリエには外に出てもらい、ジェメドリッサは父と二人きりになった。
「お忙しい中すみません、お父様」
執務用の机に座る父に、ジェメドリッサはカーテシーをした。一方父は、険しい表情をしていた。
「学院に行きたいのか」
「聞いていらしたのですね」
ジェメドリッサは苦笑した。
「特にこだわりはないのですが。しかし、今のままでは将来が見えないというのも事実ですわ。今からでもこのマイトリヒ家のためにも学んだ方がいいのかしらと思った次第です」
「そうか」
父は険しい表情のままである。
ジェメドリッサは正直なところ緊張していた。幼い頃から今まで、父と二人きりで話したことなどほとんどなかった。だから父が何を考えているのかわからない。
しかし、「残念だが」と父は続けた。
「学院は無理だ。お前の母も反対している。それから、家の方の心配も無用だ。次の婚約相手はすでに探し始めている」
「そのことなのですが」
ジェメドリッサは一歩前に進んだ。
「どうして次の婚約相手を今探せるのでしょうか? 私は婚約破棄された身ですわ。お茶会の皆様も、何を言っていらっしゃるのか、恥ずかしながら理解できませんでした」
ジェメドリッサはじっと父を見つめる。父は困惑した娘の表情に、しかし、目を逸らした。
「大変言いにくいことなのだが、その」
「何でしょう」
「お前は、ジオルガ殿の新しい婚約者を聞いているか?」
「……ええ、隣国の王女様だ、と」
「その王女が問題なのだ」
ジェメドリッサは、なかなか結論を言わない父にやきもきした。
「その王女が、一体どうされたのです?」
「……ついこの間、お子を産まれたばかりなのだ」
ジェメドリッサは理解が追いつかず、瞬きをする。
「えっと、ナヤルの王女は未婚ではなかったのですか?」
「ああ、王女にはすでに結婚相手がいた。名前はアリクシオ。何年か前に第一子である息子も生まれている。今回は第二子である娘だ。そして、今回問題になっているのは、その父親だ。子が生まれてすぐに、なぜかジオルガ殿との婚約が決まった。それがどういうことか。お前もわかるだろう?」
「……っな」
ジェメドリッサは文字通り開いた口が塞がらなかった。何も言えないジェメドリッサの代わりに、父が続ける。
「お前に直接伝えるのは辛いが、要は、あの男……いや、ジオルガ殿は、婚約中にもかかわらず、他国の王女と関係をもっていたのだ。だからこの婚約破棄には、お前の非はない。セムトリー侯爵家からも、賠償金はいただいている。もともと政略結婚だったが、お金についても解決されたから、一切不利益はない」
頭が真っ白になる。父の言葉を理解するのを、脳が拒んでいた。
「ま、待ってください……! ジオは……い、いいえ、ジオルガ様は、ナヤル国との外交だと、友好国としての婚姻だとおっしゃっていましたわ……!」
父は目を伏せ、穏やかな声でジェメドリッサを諭した。
「……ジェメ、辛いのはわかるが、いい加減ジオルガ殿のことは、あの男のことは忘れろ。お前は浮気をした男のことを心の底から信じられるのか? 無理だろう?」
「で、ですが……、ジオは、幼なじみで、昔から一緒に遊んでて……っ」
「ああ、知っている。だが、これは変えられない事実なのだ……。受け入れるしかない」
「そんなっ!」
ジェメドリッサは俯き、両手で顔を覆った。足の力が抜けて、その場にしゃがみこむ。
そんなこと、信じたくなかった。
確かに、ジオルガはジェメドリッサのことを女性として、恋愛対象として見ていなかったのかもしれない。けれども、幼なじみとしての情すらなかったのだろうか。婚約破棄してジェメドリッサを裏切るほどに、その隣国のお姫様は魅力的だったのだろうか。
ジェメドリッサは、今までの思い出が全てひっくり返った気がした。
最後に会った日、ジオルガは何を考えていたのだろうか。いつも通りの丁寧な口調で話しながらも、どこか他人のように見えたのは、その時には彼の心が完全にジェメドリッサから離れていたからだろうか。
ジェメドリッサが勇気を出して口付けをした時、何を考えていたのだろうか。驚きではなく、本当に迷惑だったのかもしれない。王女とは何度も同じことをしているのだろうが、ジェメドリッサでは嫌だったのかもしれない。
「お、お父様……」
ジェメドリッサは震える声で父に話しかけた。
「どうして、もっと早くに言ってくれなかったのですか。当事者であるはずの私が一番、何も知りませんでしたわ……。知っていれば、お茶会で恥もかかなかった。知っていれば、あの時、あ、あんな……あんなことしなかった……!」
ジェメドリッサは頬に熱いものがつたうのを感じた。最後の日の涙よりも、何倍も嫌な涙だった。
あの時は、最後に告白して、キスをして、悲しかったものの、何らかの満足感があった。婚約破棄は国家の権力者からの命令だからしょうがないと、諦めて、受け入れていた。ジオルガも同じように思っているのだと勝手に思っていた。
それなのに、裏切られたのだ。
「本当にすまない、ジェメドリッサ。酷だと思って先延ばしにした結果、さらに傷つけてしまったのだとしたら、すまない。謝る」
「……いえ、お、お父様は悪く、う、ありませんわ。八つ当たりです、ご、ごめんなさい」
「いや、当然のことだ……。ただ、ジェメに非がないのも事実だ。次の婚約についても、どうか前向きに考えてほしい」
ジェメドリッサは耳を塞ぎたくなった。
次の婚約。
また、婚約しなければならないのだろうか。
「その、少し、時間をもらえないかしら。二度目の婚約は、今はまるで考えられませんわ……」
「わかった、もちろんだ。しばらくはゆっくり、休んで大丈夫だ」
父の言葉にジェメドリッサは「ありがとうございます」と感謝をし、よろよろと立ち上がると、顔を覆ったまま部屋を出た。
泣く自分と崩れた化粧に驚くフリエに申し訳なく思いながらも、やはりジェメドリッサは早足で自室に向かった。
◆ ◆ ◆
同日。夜。
「フリエ、ジェメの様子はどうかしら……?」
応接室にて、マイトリヒ夫妻は夕食後のワインを嗜みながら、しかしその表情には影を落としていた。事実あまり、ワインは減っていない。
傍に控えたフリエは、ジェメドリッサの母であるマイトリヒ夫人の問いに、躊躇いながらも応じた。
「かなりショックを受けたようで、ベッドの中で布団にくるまっていらっしゃいます。大変言いにくいのですが、これからのことを悩んでいらっしゃるようで、学院に行きたい、と。もう婚約は、結婚は、したくないとおっしゃっています。自分一人で家を管理する、と」
フリエの言葉に、夫妻は顔を見合せた。
「それは……かなり困りますわね」
マイトリヒ夫人が頬に手を添える。
「学院は……学院だけは駄目です。それに、あの子は一人では何もできません。跡継ぎも必要ですわ。まだ結婚適齢期なのだから、今なら間に合うというのに」
「……そうですね」
「それに、本当のところ、ジオルガ殿でなくてよかったですわ。政略結婚だったから断れなかっただけのこと。女性関係についても……本当に、嫌悪感を抱くほどですが、それに加えて彼の家とは、正直関わりたくなかったのです」
夫人は、フリエの方に目を向ける。その視線が語っていることを読み取って、フリエは一瞬目を伏せた。
フリエはジェメドリッサの侍女であるが、その前にこのマイトリヒ家に雇われている。家が潰れれば、フリエの給金もなくなる。でも、新しい婚約者が平然とジェメドリッサの横に並ぶ姿は、想像したくなかった。ジェメドリッサの傷は、気持ちは、どうなるのだろう。
「少し、お時間をいただけないでしょうか。お嬢様も悩んでいらっしゃいます。気が変わる、ということも、十分にありえるかと。またもしもの場合、養子をとることも必要になってくるかもしれません。その件については私から執事のほうに」
「フリエ、私たちはあなたからの助言は求めていないの。もしもの場合など必要ないわ。あなたはただ、求められていることをしてちょうだい」
マイトリヒ夫人が口を挟み、フリエは萎縮した。
「申し訳ございません。侍女が出過ぎた真似をしてしまいました」
夫人は満足そうにワイン瓶を揺らした。
「では、もうおしまいよ。出ていっていいわ」
「承知いたしました。この件は私が尽力して解決させますので、旦那様や奥様の心配が取り除かれることを願っています」
フリエはカーテシーをすると、身をひるがえして応接室を出ていった。
自分が唇をきつく噛んでいたことに気づいたのは、しばらくしてからのことだった。
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