第一話 『最後の日常』
暗い海の 真ん中の 我らが母の 物語
ふるさと遠く 知らぬ街 抗う術は あったのか
青い洞窟 光満ち 箱入りの花 楽園か
永遠の月日は 泡となり 平穏平安 感謝しよう
汝もいつか 泡となり 運命天命 甘受しよう
真の緑の 美しさ 夢見て誰が 叶えたか
暗い鍾乳洞の中、澄んだ歌声が反響する。
ミャオリンは底に溜まった海水に半身を浸からせ、目を閉じて歌を歌っていた。
天井と左右の壁には無数の虫が張り付いており、青白い光を発して洞窟の中を仄かに照らしている。透き通った水は光をよく通すようで、深い底にある鍾乳石がよく見えた。群れになった魚が時たま、底を優雅に泳いでいった。
「うるさいのよ。いつもいつも、あなたは」
尖った声に、ミャオリンはびくりとして口を閉じ、振り向いた。ミャオリンより少し年上の女性が二人、その空間の出入口の穴の手前から、こちらを睨んでいる。
「ごめんなさい」
棒読みのミャオリンの謝罪に、女性の一人がため息をつく。
「私たちは別にあなたに謝ってほしいわけではないのよ。どうせ反省する気もないでしょ。お願いだからその歌をやめてちょうだい。こんな状況でその歌で楽しそうにしないでくれる? あなたもいい歳なんだからもうそろそろしたら」
「ジエン、それは駄目だって」
「……わかってるわよ。とにかく、本当に、次歌ったら許さないわよ」
そう言い残して、二人の女性――ジエンとオウリャン――は、向こうの方に泳いでいった。
「……なんで駄目なのよ」
ミャオリンは呟く。音痴ではないはずなのに、あの二人はいつもいつも、ミャオリンの自由時間を邪魔してくる。
昔はそうでもなかったのに、と思う。三人で仲良く泳いで、くだらない話をしながら、よく水遊びをしていた。変わったのは最近のことだ。
「意味わからんし」
ミャオリンは口をとがらせながら、自分の髪の毛先をくるくるといじる。長い藍色の髪は、ミャオリンが好きで伸ばしているわけではない。周りのみんなが伸ばしていて、ミャオリンも伸ばせと言われているから、そうしているだけだ。
本当は全部、切ってしまいたい。背中に濡れた髪がまとわりつくのはどんなに気持ちの悪いことか。
「理不尽ばっかり」
そうよね、と同意を求めながら、ミャオリンは青白く光る虫を一匹つまむ。
「君も私につままれるなんて思ってなかったでしょ。というか君も災難ね。光らなかったらただの変な虫じゃない」
ミャオリンは平然と、その光る虫を水中に放り込んだ。
突如、水飛沫が上がる。
魚が虫に群がり、数秒ほどで虫がいなくなり、魚も何事もなかったかのように去っていく。
「今日は誰がご馳走を貰ったのかしらねー。ま、正直あれがそんなにおいしいのかね。いや見た目だな」
どうやらこの辺にいる魚は光るものに目がないらしく、とにかく何でもかんでも光るものを食べようとするのだ。それが面白くて、ミャオリンの中での最近のブームだった。
ちなみになぜか一匹だけ鈍い魚がいるようで、今になって水面に顔を出し水飛沫を立てていた。
「アホ太郎……お前……」
ミャオリンは心の底からアホ太郎を気の毒に思った。弱肉強食とは、まさにこのこと。因みにミャオリンは、今この場ではその頂点にいると自負している。
「お互い頑張りましょ。いつも私の歌を聞いてくれてありがとね、虫ども、魚ども」
こういうことを言ったりやったりすると、口が悪い、品性がない、とみんなにはすぐに怒られるのだが、今は誰も見ていない。だったら別にいいや、というのが、ミャオリンのポリシーだった。
ミャオリンは思いっ切り伸びをして、その鍾乳洞の一空間の出入口となる穴まで泳ぐ。
穴を出ると、一気に広い空間へと変わった。同じく暗く、明かりは虫の光だけだが、鍾乳洞の深さが違う。水に潜り、ミャオリンはどんどん奥へと進んでいく。
歌を歌うのと同じくらい、ミャオリンは泳ぐのが好きだった。特にこの辺りの洞窟の水は澄んでいるから視界が綺麗だ。鍾乳石にぶつかることも滅多にないから、構わず気ままに泳ぐことができる。
尾ひれを動かし、腕は体の横に。そうすることで、速く速く泳ぐことができる。泳ぎに関しては、どの人魚よりも速くて上手いだろうと、ミャオリンは自負していた。
しばらく進むと、水の中に光のヴェールが現れてくる。一番景色の綺麗な場所である。そしてこの光の満ちた周辺に、他の人魚の多くが暮らしている。
鍾乳石にはたくさんの穴が空いていて、その中が店や部屋になっている。
「あ、ミャオリン! お腹すいてない? いい貝があるんだけど」
穴の中から顔を出す美しい人魚に、ミャオリンは手を振る。
「ありがとう! でも今はいらないかな」
「ねえミャオリン! 変な珊瑚見つけた!」
「へー」
別の人魚も群がってきて、ミャオリンは泳ぐ速度を速めた。
「ミャオリン! 速く泳ぐコツ教えてよ! 今度大会があるでしょ!」
「お前、何度も懲りないなあ……。何度も言うけど、それは私が優勝したいから、無理だよ。自分で勝手に頑張ってね」
「えー、つれないなあ!」
この辺りにいる人魚は、みんな若くて綺麗だった。ミャオリンより年上が多く、年下も少しいるが、さらに一回り年下になると、別の場所で老いぼれ婆が面倒を見ている。
小さい子供はいつの間にか増えるから、不思議なものだとミャオリンは思う。そして逆にいつの間にか年上のお姉さん方がいなくなっていることがあるから、これもまた不思議である。
ただミャオリンは正直、どうでもよかった。
泳いで。歌って。それだけで十分である。綺麗なものが見られるなら尚更良い。
ミャオリンは満面の笑みを浮かべながら、生き生きと水の中を泳いでいった。
◆ ◆ ◆
「婚約破棄ですって?」
ジェメドリッサは眉を寄せた。少し声が尖ってしまったが、無理もない。目の前にいるこの御仁は何を言っているのだろうか。
「そもそも私とあなたは政略結婚でして」
「そんなことはわかっていますわ」
苛立った声に、ジェメドリッサの婚約者、いや、元婚約者のジオルガは、気まずそうに目を逸らした。
「もともとあなたの家の方が財政的に弱っているところをこちらが援助している形だったのですが、事情が急に変わりまして。隣国のナヤルの王族から婚約の打診がありました。相手は、その、姫君です。うちの領地は辺境なので、同盟国として友好を深めたいらしく、断れない状況です」
「待ってください。私との婚約については話さなかったのですか?」
「もちろん話しましたよ。しかしどうも強引で。私も、たかが一貴族。外交に関わるので拒否はできない、と我が国ミュリムソンの王家から言われてしまいました」
「そ、そうなのですね。私のお父様やお母様はもうこの事について知っていますのかしら?」
「はい、お伝え済みです」
すでに決定事項のようだった。ジェメドリッサは戸惑いを隠せない。
今日はただ、いつも通りのお茶会の予定だった。学院に通う忙しいジオルガに配慮した、一ヶ月に一度だけの逢瀬。ジオルガの邸宅の客間で、紅茶を飲んでお菓子を食べて雑談して。ただそれだけの、婚約者とのささやかな時間。
ほんのついさっきまで、婚約破棄というような、そんな重苦しい話を出す素振りはなかったのだ。それが、ジオルガが「大事な話がある」と言ってから、張り詰めた空気に変わってしまった。
それに、ジェメドリッサはジオルガの様子が気になった。どうにもよそよそしく感じられる。もともとお互い敬語を使い、使用人がいる以上、節度を持って行動していたが、今の彼はそれどころかジェメドリッサを突き放しているように見えた。
ジオルガの実家セムトリー侯爵家とジェメドリッサの実家マイトリヒ子爵家は互いの領地の交易の関係で古くから付き合いがあり、二人も幼馴染みだった。政略結婚のための婚約とはいえ、強制的、というほどでもなかった。むしろ恋愛に近いと、少なくともジェメドリッサは思っていた。
手を繋いで街をお忍びで歩いたことも何度かあった。帰り際には互いの頬にキスをし合って、少しハグをしてから別れた。キスとハグはこの国の文化といえば文化だったが、それでも大して親しくない人にはしない行為だ。だからそれはデートで、二人は普通の恋人同士のような関係だと、少なくともジェメドリッサは思っていた。
「そういったことは、もっと早くに教えていただきたかったですわ……。政略結婚とはいえ、そんな、私の意思がないわけでもありませんのよ……」
「すみません、ジェメにはどうしても伝えづらくて、後回しにした結果、驚かせてしまいました」
ジオルガが申し訳なさそうに目を伏せる。彼の銀の睫毛が、瞳の青に影を落とした。
ジェメドリッサは改めて、ジオルガの端正な容姿を見た。モテそうだなとは、常々思っていた。というより、事実モテていた。それに彼は頭も良い。ジェメドリッサは家庭教師だけだったが、彼はそれに加えてこの国の最高峰であるミュリムソン国立学院に通っている。今年が最終学年で、入学時からずっと、首席を維持していた。
傍から見ても優良物件だが、ジェメドリッサとしては、彼の性格すら知らないだろう隣国のお姫様と結婚する姿など、見たくはない。ジェメドリッサの方が彼のことをよく知っているし、かっこよさだけでなく、優しさ、茶目っ気、かわいさ、かっこわるさだって見てきている。
そして何より、あまりにも急過ぎた。ジオルガの卒業後からすぐの日に、二人の正式な結婚は予定されていた。それまで本当にあと一か月もないところまできていたのだ。
「ジオは……っ。ジオは納得してるのですか?」
思わず大きな声を出してしまい、はっとして口を押さえる。
「すみません」
「いや、本当に、悪いと思っています。でも私も、どうにもなりません。ただ幸いなことに、ジェメ、あなたはまだ若い。婚期が遅れることはないと思います」
ジェメドリッサは黙り込んだ。昔からだったが、ジオルガは少しズレている。そういうことではないのだ。天然っぽいところは可愛いと思ったが、今はもどかしかった。
しばらく沈黙が続き、気まずい空気が流れる。耐えかねて、とっくに冷めているだろう紅茶でも飲もうと、ジェメドリッサはカップに手を伸ばす。
「あ」
知らないうちに手が震えていたようで、つかみ損ねて、カップを倒してしまった。テーブルの上から紅茶が滴り落ち、床の絨毯に茶色い染みを作っていく。白い絨毯だけにそれが目立ち、白に茶色が侵食していく様は、なにか良くないことを暗示しているように見えた。
使用人の女性がすぐに駆け寄り、手早く処理をする。
「お召し物は汚れていらっしゃいませんか」
「あ、いっ、いえ、大丈夫よ」
ジェメドリッサはぼうっと、汚れが拭き取られていく様子を見る。
自分の指の婚約指輪が視界の端に映り、その煌めきが鬱陶しいと思った。この婚約指輪も、結婚指輪まではならなかったのだ。昔好きだった絵本のダイヤモンドの結婚指輪に憧れて、婚約指輪もダイヤモンドにしてもらったが、別の宝石にしてもらえば良かったと思う。惨めだった。顔を上げて、ジオルガの顔を見る勇気などなかった。
しかし、ジオルガの方から声をかけてきた。
「……今日は、いえ、もう、おしまいにしますか? 急な話だったので、ジェメも少し疲れているのではないですか?」
ジェメドリッサは顔を上げ、ジオルガの頭の向こうの壁を見ながらとっさに頷いた。そしてすぐに違和感に気付く。
ジオルガの言い方だと、もうこの先に二人でお茶会をする機会はないかのように聞こえた。
「あ、待っ」
引き留めようと思ったが、すでにジオルガは席を立っていた。そして、不思議そうにジェメドリッサを見る。
ジェメドリッサはつい、と目を逸らし、首を横に振る。
「いえ、大丈夫です。行きましょう」
ジェメドリッサは自身の従者を連れて部屋を出て、馬車の待つところまで行く。
振り向くと、見送りなのか、ジオルガが立っている。また目が合い、ジェメドリッサは俯く。
「どうしたんですか、ジェメ」
ジオルガが微笑みながら困ったように問うてくる。
しばらくしてジェメドリッサは顔を上げ、真っ直ぐにジオルガを見つめた。
「なんでもないですわ」
しかし、ジェメドリッサはまだ馬車には乗ろうとしなかった。
「……ただ、一つ、あなたに聞いておきたいことがありますの」
ジオルガは頬を強ばらせて身構える。
ジェメドリッサは、そこで一度深呼吸をしてから、言った。
「ジオは、私のことが、好きですか? 私を……あ、愛しているのですか?」
ジオルガは虚をつかれたように目を丸くする。しかしすぐに微笑み、即答した。
「ええ、ジェメのことは小さい頃からずっと、好きですよ。当たり前じゃないですか。嫌いになるわけがありません」
そしてジェメドリッサに近寄り、抱きしめた。ジェメドリッサも腕を回し、ジオルガに抱きつく。
彼の香りがした。幼い頃からずっと変わることのない、石鹸のシンプルな匂い。
「大きくなりましたね、ジオ。前は私より小さかったのに」
「ジェメ、どんな昔の話をしているんですか。それに、私だけでなく、ジェメも大きくなっているはずですよ」
ジオルガはジェメドリッサの頭を撫でる。
「そうですね。あの頃からは随分と変わっているつもりですわ」
見た目だけでなく心も、と、ジェメドリッサは思う。
「好きです、ジオ」
「私もです、ジェメ」
ジオルガがジェメドリッサの頬に口付けすると、ジェメドリッサもジオルガの頬に唇を寄せる。
ジェメドリッサは改めて、ジオルガを見上げた。
いつも通りのジオルガの顔。でもやはり今日は、他人のように感じる。
ただただ、悲しかった。
これまでも自分だけの勘違いだった。勝手に想いを向けていただけだった。
ジェメドリッサが欲しかったのは、幼なじみとしての友愛ではなかった。背が大きくなったとか小さくなったとか、そういう話をしたいのではなかった。
ジオルガは、キスをしても、ジェメドリッサの唇にはしない。手を繋いでも、指を絡ませることはない。
ジェメドリッサの感情などよそに、ジオルガはその罪に無自覚なまま、決定的な言葉を紡ぐ。
「これからも、婚約者ではないですが、良い友人でいましょうね」
ジェメドリッサは返事をしなかった。
かわりにジオルガの首に腕を回し、つま先立ちになる。困惑したジオルガの顔が見える。構わず、きゅっと目を瞑る。
そしてジェメドリッサは、ジオルガの唇に、自身のそれを重ねた。
一秒にも満たない。
しかしジェメドリッサは、それで十分だった。
かつ、というヒールの音とともに、ジェメドリッサはジオルガから離れる。
ジオルガが面白いくらいに動揺していた。
すぐにその姿がぼやけ、それでジェメドリッサは、自分が泣いていることに気付いた。
顔が熱い。頬に涙が流れるのを感じる。
嫌だな、と思った。最後くらいは、綺麗なままでいたかった。だからせめて、化粧が崩れていないことを祈った。
「ごめんなさいね。これからは、ただの他人でいましょう」
さようなら、と言おうとしたが、そこからはもう限界で、声にならなかった。
逃げるように後ろを向き、従者の手を取り馬車に乗る。エスコートはジオルガの役目だったが、もうそれも、必要ない。
あっけなく、馬車が出発する。ジェメドリッサはもう、振り返らなかった。
それでも、ジオルガがどんな表情をしているのだろうかと、想像する。
流石にジェメドリッサの気持ちには気付いただろうか。それとも、天性の鈍感さで、まだ友達だと思っているのだろうか。
どちらでも良かった。もう、会いたくなかった。もうこれ以上、辛い想いを抱くのは嫌だった。
でもやっぱり、ジェメドリッサはジオルガが好きで、愛している。
従者がハンカチを渡してくれるから、それを受け取り、ジェメドリッサは声を押し殺して精一杯泣いた。
誤字報告、感想など頂けると嬉しいです。




