プロローグ 『涙の海』
プロローグですがまあまあ長いかもしれません。次から読んで、必要だと思った時に見返しても問題ないと思いますが、読んでくださると嬉しいです。
よろしくお願いします。
蝋燭の炎が揺らめき、寝室の中を仄かに照らす。
幼いジェメドリッサはベッドの横の本棚の前にしゃがみこんで、絵本を取り出しては目を凝らして表紙を確認する、という作業を繰り返していた。
ベッドの上ではジェメドリッサの母が、穏やかな表情で娘の様子を見ている。
小さい頃ジェメドリッサは、寝る前に母がベッドの上で読んでくれる絵本が好きだった。どの本も好きであることに変わりはなかったが、その中でも特に好きな一冊があり、定期的に読み聞かせをせがんでいた。そして今日も、その日だった。
「お母様、これを読んでちょうだい」
ジェメドリッサが渡したお気に入りの本を見て、母は苦笑した。
題名は『涙の海』。実際にある湖の別称で、その成り立ちが説明された神話がわかりやすく描かれている絵本だ。
「ねえ、ジェメ、あなたはどうしてこの絵本が好きなのかしら? 悲しいお話だと思わない?」
ジェメドリッサは少し考えてから答えた。
「だって、最後はハッピーエンドだもの。それにお母様とお父様がよく『涙の海』に連れて行ってくれるから。このお話がなかったら、私の楽しみが一つなくなってしまうところだったわ」
「まあ、あなたは偉いわね。こんなに信仰心が深いなんて。褒められるべきことですよ」
母は笑顔でジェメドリッサの頭を撫でた。
「では、絵本を読みましょうか。ジェメ、おいで」
母はジェメドリッサを自身の膝に乗せて、布団を被せる。
「ジェメ、ちゃんと寝るのよ。いいですか」
「わかっているわ。全部聞いてからね」
「まあ、本当かしら。二度目はなしよ?」
「もう、わかってる、って言ってるじゃない。あ、でも、早く読んでくれないと私寝ないもん」
「はいはい。じゃあ始めるわね。昔むかし……」
――――
昔むかし、海にはたくさんの海賊がいました。
しかし、海賊同士は仲が良くありませんでした。互いに争いをし合い、ナワバリを奪い合っていました。
ガウマンという一人の男は、そんな海賊に捕まっていました。村が襲われ、捕虜として攫われたのです。船の一番下の暗い空間が彼の寝床でした。
朝起きるとすぐに甲板に出て、海賊から命令された雑用をします。掃除をしたり、帆を揚げたり、何でもしなければなりません。掃除なら、ちょっとした埃があっても、すぐにやり直しです。
ガウマンは日に日にやつれていきました。毎日、村の家族を思い出し、はやく帰って顔が見たいと思いました。しかし妻との結婚指輪も海賊に奪われてしまい、ガウマンは希望も失っていきました。
そんなある日のことでした。
ガウマンが乗っている船の海賊達は、敵の海賊を倒したということで、宴をしていました。
ガウマンは海賊達にワインを注いでいく役です。ワインを一滴たりとも飲むことは許されません。豪華な料理を食べることもできません。お腹を空かしながら、無心に海賊達の中をワイン瓶をもって歩いていきます。
唯一の楽しみは、宴のあとの残飯でした。海賊達がみんな酔いつぶれて、料理を食べなくなると、ガウマンのご飯も増えます。だからガウマンは海賊達を酔わせようと、積極的にワインを注いでいきました。
そのときのことです。
まだ日没までには時間があったというのに、空が急に暗くなりました。黒い雲が空を覆っているようでした。ガウマンはまずい、と思いました。しかし、海賊達は酔いつぶれて眠ってしまっています。
いつもなら、嵐が来る前に急いでその海域を離れましたが、今回はもう手遅れでした。黒い雨雲に気付いているのも、ガウマンだけです。
ガウマンはそれでもどうにかしようとしましたが、ついに雨が降ってきました。風も強く、波も高くなっていきます。船が大きく揺れ、転んだ際にガウマンは持っていたワインの瓶を割ってしまいました。ガラスで手を切ったのか、赤いワインとともに、ガウマンの血も流れ出します。
痛さにじっとしている場合ではありませんでした。ガウマンはマストにつかまりました。もう振り落とされないようにするのでやっとでした。
酔った船員が何人か、押し寄せる波にさらわれていきました。甲板は雨と波でびちょびちょに濡れています。
このまま嵐を乗り切りたい、とガウマンは思いました。
しかし、嵐の神様は残酷でした。特大の波が甲板に乗り上げ、船が垂直に大きく傾きました。
ガウマンは必死でマストにしがみつこうとしましたが、手が雨水のせいで滑ります。とうとうガウマンの体は宙に放り出されてしまいました。
冷たい海の上に落ち、ガウマンは溺れそうになります。ガウマンはこんなところで死にたくありませんでした。
もがいて、もがいて、何かつかまれるものでもないかと、手を伸ばします。ガウマンの手が、何かに触れました。
近くに寄ってみると、それはこの海賊の船長でした。肥えた体は浮きやすいのか、意識がないのにもかかわらず、まだ沈んでいません。それどころか、強欲にも、ワインの瓶を大事そうに胸に抱えています。
そこでガウマンは、何かが煌めく光が見えたような気がしました。船長の手からの光です。
見ると、それは指輪でした。ガウマンのダイヤモンドの結婚指輪が、船長の指にはめられていました。
ガウマンは寒さを忘れるほどに、怒り狂いました。こんな海賊のせいで自分は酷い目に合っているのです。本当なら今頃は、妻と娘と三人で仲良く幸せに暮らしているはずでした。
ガウマンは船長の指から指輪を取り返しました。
そして、自分の指にはめてみます。手からの出血が酷いようで指輪に血がついてしまったのが残念でした。
少し怒りは落ち着きましたが、冷静に考えると何も解決していません。荒れ狂う波はどんどん激しくなり、油断をすればすぐに呑み込まれてしまいます。
また、冷たい海に、ガウマンの足先の感覚がなくなっていきました。もう死んでいるであろう船長の腹に掴まり、耐えるしかありません。それも、いつまでもつか。少しお腹も空いてきました。
ガウマンは絶望しました。もう船もありません。このまま流されたところで、いつ陸にたどり着けるのかもわかりません。そもそも現在位置がどこかもわからないのです。場所によっては、ずっと同じところをさまようことにもなりかねませんでした。
寒さに頭がぼーっとしていく中、ガウマンはある考えを思いつきました。
震える手で船長の抱えるワイン瓶をつかみ、中身をすべて海に流すと、ガウマンは自分の指からダイヤモンドの結婚指輪を取り外し、ワイン瓶の中に入れました。そして、コルクで蓋をします。
ガウマンは最後の力を振り絞って、ワイン瓶を精一杯投げました。
空のワイン瓶は沈みませんから、こうすれば、いつか家族のもとに指輪とともにたどり着くかもしれません。
ガウマンは、自分はもう終わりだと悟っていました。ありとあらゆる感覚が消えていっています。自分はこのまま海の底に沈み、海の藻屑となって死んでいくでしょう。だからせめて、自分が生きたという証だけは、この世に残して逝きたいと思ったのでした。
そしてガウマンは、息を引き取る最期の瞬間まで、妻と娘のことを思っていました。
その後、ワインの瓶はどうなったのでしょう?
瓶は、海では光魚、陸では光蝿によって運ばれました。後にこの二つの生物は水の神様に称えられることになり、水の神様の直属の使いとなります。
そういうわけで、色々な海を越え、陸を越え、ワイン瓶は無事にガウマンの家族のもとに辿り着きました。
妻が行商人が売っているのを見かけ、ガウマンの結婚指輪が中に入っていると気付いたのです。とても高い値段でしたが、行商人に事情を話すと、快く譲ってくれました。
家に帰って娘と一緒に蓋を開け、ダイヤモンドの指輪を取り出しました。
妻は自分の指にはめた結婚指輪と見比べ、やはりそれはガウマンのものだと確信しました。そして、疑問に思いました。なぜ彼の指輪がワイン瓶の中に入り、売られていたのだろう、と。
ガウマンは村が襲撃された時には、立派に戦い、海賊を追い払っていました。それでも自分の無力さを感じたからと言って、旅に出ると言っていました。だから旅に出ているのだろうと妻は思っていたのですが、結婚指輪を売ったということは、浮気でもしたのか、と疑ってしまいます。
その時娘が嘆きの声を上げました。妻も改めて指輪を見て驚きました。指輪の内側に、赤い血がこびりついていたのです。
そして、ワインの瓶のラベルも、見慣れないものだということに気付きました。近所の酒場で尋ねると、そのワインは、普通は流通していないもので、海賊の間で取引されていたものだと分かりました。
妻と娘は顔を見合せました。
言葉も出ません。
襲撃に立ち向かい修行の旅に出たと言っていたガウマンは、実は捕虜として、村人全員の命と引き換えに海賊に捕まっていたのでした。そして、何年か前に、二人はその海賊が嵐にあって全滅したことを聞き、喜んでいたのでした。
こんなに酷いことはありません。その時に、ガウマンも一緒に死んでいたのです。
妻と娘は、大声で泣きました。目から涙がこぼれ落ち、とどまることを知りません。
あまりにも大きな声で泣きわめくものですから、天上の神様の耳にも届いてしまいました。
水の神様は、部下である嵐の神様を問い詰め、事情を知り、この三人の家族を気の毒に感じられました。
そこで、どうにかして祝福を与えたいとお思いになりました。
妻と娘は、まだ泣いています。二人の周りには、涙の水たまりができていました。
それをご覧になり、水の神様は思いつきました。
二人の涙で、絶対に人が沈まない海を作れば良いのです。嵐もこない、天気が良い、沈んで溺れ死ぬこともない、毒魚もいない、平和で素敵な海を作るのです。そうすれば、今後、海で死ぬ人はいなくなります。
妻と娘の涙はいまや、池ほどの大きさになっていました。
水の神様は二人に力を授けられると、二人はもっと泣いて、涙はさらに湖ほどの大きさになりました。
しかし、水の神様の力もここまでが限界でした。全ての海を平和な海に変えてしまうと色々と不都合があるようで、他の神様からやめるように言われてしまいました。
妻と娘も、身体中の水分を出し尽くして、干からびてしまいました。
水の神様は残念に思われましたが、仕方がありません。最後の仕上げをして、少し小さいけれども、平和な海が完成しました。
そしてその後、その海で死ぬ人は一人としていなかったのでした。
これが、今のミュリムソン王国の水神教会にあるマルガン塩湖が『涙の海』と呼ばれている由縁です。
だからこの湖の水は、妻の夫を思う心と、娘の父を思う心がこもった、物凄くしょっぱい涙の味がするのです。
水神様に栄光あれ!
――――
「水神様に栄光あれ!」
ジェメドリッサは、母の最後の言葉に続けて叫んだ。母はジェメドリッサの頭を撫でながら苦笑した。
「まあ、ジェメ、もう寝る時間よ。信仰心が深いのはよろしいですが、隣の部屋でお父様が寝ているのだから、大きな声は駄目よ」
「わかってるわ」
そうは言うものの、ジェメドリッサは目を爛々と輝かせていた。絵本を手に持ち、寝る気配はない。
「もう、ジェメ、本当にわかっているのかしら? 今夜はおしまいよ」
母はジェメドリッサの手から絵本を奪い、布団を出る。
しかしジェメドリッサは、母の袖を掴んだ。
「嫌よ、お母様」
「あら、悪い子ね。お母様困るわ」
「もう一回!」
「お母様眠たいの。ジェメ、わかって」
「私は眠たくないわ」
「……もう。わかったわ」
母がそう言うと、ジェメドリッサは目を輝かせた。
「やった! もう一回!」
「あ、今日は終わりですからね。そうじゃなくて、代わりに今度の休みに、その『涙の海』に行きましょう。それでいいかしら?」
「ジオもフリエも一緒?」
「フリエが一緒は勿論よ。でもジオルガ様は……どうでしょうね。できないかも……あ、いえ、わかったわ、わかったから。ええ、ジオルガ様も誘うわ」
すると、ジェメドリッサはもっと目を輝かせた。
「わかったわ! 楽しみで今日は眠れないかも!」
「え、ジェメ、ちゃんと寝なさいね」
「……うーん、きっと無理ね」
母は困ったように笑う。しかし疲れたのか、ジェメドリッサの頭を撫で、額にキスをした。
ジェメドリッサも、母の額にキスをする。
「おやすみなさい」
「お母様も、おやすみなさい」
母が部屋を出ると、ジェメドリッサは布団の中にすっぽりと入り、ひと晩中密かに騒いだのだった。
ここまで読んでくださりありがとうございます。
モデルは言わずもがな、死海です。
死海の塩分濃度は約30%らしく、海水は約3%らしいので、えげつないです。
また、神話の内容って突拍子もないものがよくある気がします。個人的に衝撃的だったのは、ギリシャ神話の女神アテナがゼウスの頭の中から武装して生まれてきた話です。




