第二十三話 『静寂の朝』
悲鳴なのか、歓喜なのかよくわからない叫び声があちこちで上がる。
「ジオルガ・セムトリーは、犯罪者だ! 今ここに、天罰が下ろう!」
民衆がいつになく騒ぎ出して、ジェメドリッサはこれから起こることを悟った。
ジェメドリッサは振り返らなかった。
誰も振り返らなかった。
フリエも、ペトリージャも、ディゲルも、ヘルドも、パケード教授も、レディアも。
誰も、ジオルガの真意は、わからないままだった。
ぱちぱちぱちと背中から音が聞こえて、ジェメドリッサは両手で耳を塞いで夜空を仰いで足を早めた。月の明るさが憎かった。煙がほんのりと空を覆い空が濁っていく。
『死んだら灰になるだけ』
いつかジオルガが言っていたことを思い出す。水にも火にも地にも風にも、深い意味を見出すことはなかった。
ジオルガはそういう人だった。
魂などない。神などいない。祈りに意味はない。
だからこそ、ジオルガは神や運命を頼りにすることなく、自分の道を進んで行ったのだ。ジェメドリッサにも、何も言わず、頼らずに。でもそれが彼の自己満足で幸せなのだと、ジェメドリッサは知っていた。
ジオルガはそういう人だった。
何が正解だったのだろうか。
果たしてすべてが上手くいく方法というのは、そもそもあったのだろうか。
この死に、本当に意味はあるのだろうか。
意味など見出しても仕方がなかった。
ジオルガが受け入れたのだ。
それは紛れもないジオルガの意志だ。
それを否定することを、ジェメドリッサはしたくなかった。
唇の感触を思い出す。
あれもジオルガが決めたことだ。
本当は何に対しても不器用だったのだとほっとしたが、喜ぶ気にはなれなかった。
もうあれで、終わりだった。
涙が頬を伝った。声は騒音にかき消されて我慢する必要はない。もう化粧などしていない。いくらでも泣いて大丈夫だった。
フリエの手が背中をさする。ジェメドリッサも、フリエの背中に手を回し、背中を撫でた。
フリエもジェメドリッサとジオルガの親友だった。フリエはどう思っているのかはわからないが、ジェメドリッサの中ではそれでいいのだ。
何もかも理不尽だった。救いはなかった。
ただ、一つ、望みをかけるのだとしたら。神にではなく、少女に期待しよう。
もう一つの脱出劇は、成功しているだろうか。
◆ ◆ ◆
ミャオリン達は水平線から昇る朝日を眺めていた。海面が光できらきらと輝き、白く眩しい太陽が人魚達を照らす。
海のど真ん中で、追っ手はどこにもいない。
「ねえオウリャン、私達はもともと、何だったのかな」
いつもより格段に少ない衛兵の手を逃れた後、レディアが『昔の教授』とやらからもらったという薬で、ミャオリン含めすべての人魚が無事に人魚の姿に戻ることができた。
しかし長い間人間の姿でいたミャオリンは、逆に人魚の姿に違和感を覚えてしまった。
「どういうこと?」
「人魚と人間って紙一重だったのかもしれないねっていう話」
「どこが? ちょっとはまともになったかと思ったけれど、やっぱり変なこと言うのね」
「えー」
ミャオリンも、その隣のオウリャンも、じっと日が昇る様子を見ていた。
「……綺麗ね」
そう言いながら、オウリャンは認めたくなさそうだった。ミャオリンはそれを見かねて言った。
「違うよ、これは別に人間のものじゃないんだよ。人魚のものでもないんだ。ただ自然とそこで起こる。それだけなんだ」
「どういうこと?」
「そういうことよ」
「名言かと思ったけど、迷言ね」
オウリャンはまだわかっていないようだった。
何はともあれ、目標を達成できて、ほっとした。
ちょうどその時、朝日が照らす海面の光の道に、影が見えた。
「アホ太郎!」
魚の群れと虫の群れが近づいてくる。
今ならわかる。
このみんなは、水神の使いなのではない。人魚の使いなのだ。
魚と虫の群れはミャオリン達の目の前までやってくると、ぐるりと旋回して、その場に留まる。
ミャオリンは背後の人魚達を振り返った。
「みんな! 洞窟に戻ろう! それで、他の人魚も解放しよう!」
ミャオリンは、おー、と手を伸ばした。他の人魚達も、若干のテンションの差はあるものの、同様に手を伸ばす。
ミャオリンは再び朝日に目をやった。
色々な協力があって、ここまで辿り着いた。ジェメドリッサの大事な人が処刑されたようだが、ジェメドリッサは大丈夫なのだろうか。元気なのだろうか、安全なのだろうか。
「……よし」
ミャオリンは海の中に潜り込んだ。
人魚達も、それに続いていく。
もう、自由だった。
◆ ◆ ◆
処刑があった日の翌朝、ジェメドリッサは放心状態で自室のベッドの上に座っていた。
寝たのか寝ていなかったのかもわからない。いつのまにか暗かった部屋に明るい朝日が差し込んでいた。
「お嬢様」
フリエがジェメドリッサをマイトリヒ家の邸宅まで連れてきてくれたようだった。一晩中隣で寄り添ってくれていた。
「もうそろそろ朝食にしませんか」
ジェメドリッサは虚ろな目でフリエを見上げた。
フリエは困った顔をしていた。
「ジェメドリッサ様は元気にしていただかないと、ジオルガ様はどう思われるでしょうか」
「ジオの話はやめて」
ジェメドリッサは耳を塞いだ。何も考えたくなかった。
「すみません。ですが、目は腫れて隈ができて、顔色が悪いですよ」
「.....知らないわ」
ジェメドリッサはフリエの肩をそっと押し退けた。
「ちょっと一人にさせて」
「.....わかりました」
フリエが部屋から立ち去っていく。ジェメドリッサはベッドの上で体を丸め、膝の間に顔をうずめた。
涙は枯れてもう出てこなかった。それが苦しかった。泣く気力も体力もなく、あの『涙の海』の神話のように、ジェメドリッサを泣かせて殺してくれる神もいない。そうなればどれだけ楽なのだろうかと思う。
でもやはり神はいない。どうしても教会と神を結び付けて考えてしまい、信じることなどできないし、したくない。神を信じられないジェメドリッサの中には、神が存在するわけがないのだ。
勿論昔は信じていた。何も知らなくて、無垢で、馬鹿だった。
幸せだった。
でもその段階には戻れなかった。
幼い頃からの淡い恋がみのることはない。
両想いだったのだとしても、その恋が発展することはない。
「ジオ.....」
ジェメドリッサはベッドに仰向けになって寝ころんだ。白い天井が見える。その白さに吸い込まれそうになる。
その時、ノックの音が聞こえた。
ジェメドリッサが反応する前に、扉は開き、足音が聞こえてきた。
「フリエ? 一人にしてって言ったのに」
「違います。ジェメ、来客よ。応対しなさい」
母だった。教会に来ずジオルガを助けようともしなかった母だった。
「誰ですか。ナヤルの妙な調査団ですか」
「いえ。ナヤルの王女夫妻よ」
「え?」
ジェメドリッサは跳ね起きた。
ナヤルの王女。つまり、サリアナ王女。ジオルガと新たに婚約していた人。
ジェメドリッサはじっと母を見つめた。
いつになく優しい表情をしていた。
「何の用ですか」
「行けばわかるわ。思いもよらないことだけれど、あなたにとって悪い話ではないはずよ」
ジェメドリッサは立ち上がり、客間へと走った。昨日から着替えておらず、化粧もしているわけがなかったが、どうでもよかったし、誰に注意されることもなかった。
「失礼いたします」
客間へ入ると、初対面の美男美女が連れ添ってソファに座っていた。従者は誰一人としていない。よく見ると美女の腕には、赤ん坊が抱かれている。アットホームで和やかな雰囲気に、ジェメドリッサは困惑した。
「ごきげんよう、ジェメドリッサ様。初めまして、サリアナよ」
「アリクシオだ」
立場の紹介も何もない、簡素な挨拶だった。
「え、ええ。初めまして。ジェメドリッサと申します」
「ええ、ジオルガから話は聞いているわ。さあ、お気を楽にして、座ってくださいませ」
「あ、はい、ありがとうございます」
ジェメドリッサは二人の向かいのソファに座ると、じっとサリアナの腕の中の赤ん坊を見つめた。サリアナは苦笑する。
「実は今日は、私たち二人でお忍びでこちらに来ているの。気を楽にしてちょうだい」
サリアナの穏やかだが芯のある佇まいに、ジェメドリッサはやはり戸惑う。ジェメドリッサがこれまで想像していたのは、ジオルガを無理矢理婚約させた、悪女だった。
「時間もないし、早速本題に入りましょう」
サリアナはそう言って、赤ん坊を抱え直し、ジェメドリッサに見せつけた。
「ジオルガの頼みなの。養女として、ジェメドリッサ様に育てて欲しい、と」
「え?」
サリアナはジェメドリッサに手の中の子供を差し出した。
話が読めない。
「私達の娘よ。ディーアっていうの」
「ディーア? 私達?」
ジェメドリッサはサリアナの隣を見た。夫妻というからには、サリアナの夫なのだろうが、噂ではジオルガとサリアナの子供のように言われていた。
「あなたには迷惑をかけて悪いと思っているよ。ただ僕は、紛れもない、この子の父親だ」
「え?」
「安心してくれ。ジオルガは浮気などしていない」
「え?」
ジェメドリッサは交互に二人を見比べる。何の話かわからなかった。
「待ってください。ディーアって、レディアさんの偽名ですよね。それになんで急にこんな小さな子供がジオルガと関係あるのですか?」
すると、サリアナはその笑みに哀しげな影を落とした。
「最初から私とジオルガとの婚約なんてなかったのよ」
「ど、どういうことですか?」
「よく考えてみて。私のお父様、というかナヤルの王が、他国の貴族との不倫を許すとでも思う? そんなわけないのよ」
サリアナは赤ん坊の額を撫でる。
「書類上は、ジオルガの婚約相手はこの子だったの」
「え?」
さっきから、「え?」しか言っていないと、ジェメドリッサは思った。
しかし、思い返してみれば、ジオルガの口からサリアナの名前を聞いたことはなかった。
「ナヤルはとりあえずジオルガを王族や貴族の誰かと結婚させたかったのよ。そうすれば、ジオルガをナヤルに縛れるから」
「要は、誰でもよかったんだよ」
アリクシオは目を伏せた。
「ちょうどその時生まれたのが、ディーアだった。息子ではなく娘、つまり姫だったから、後継者争いにも関係ないとされて、ナヤル王に都合のいいように扱われた」
「姫……そういう、こと」
思い返せば、ジオルガは婚約破棄する際に、次の婚約者はナヤルの「姫」だと言っていた。「王女」ではない。
いつのまにか噂によって真実が曲解されていったのだ。
「噂も、ナヤル側の作戦だったのよ。ナヤルでは事実通りに伝えられたけれど、ミュリムソンでは、ジオルガを貶めるような噂が広がった。それによって、ミュリムソンでの立場がさらになくなった」
「ナヤルがダイヤモンドを独占するためですか」
「ええ、その通りよ」
ジェメドリッサはきつく目をつぶった。
「酷いですね」
「……ええ、ジオルガは数年前からずっとナヤルにダイヤモンドを提供していたわ。それによって恩を売って、中央政府からの認可に口添えしてくれるように頼んでいた。それが、中央政府から裏切られ、ナヤルからも裏切られ、ひいては祖国であるはずのミュリムソンからも裏切られた」
ジェメドリッサは黙り込む。自分自身も、ジオルガを疑った。気持ちが通じないからと、八つ当たりのように接してしまったこともあった。その時、ジオルガは、何を思っていたのだろうか。諦めていたのだろうか。
「でもね、ジェメドリッサさん」
サリアナは優しくジェメドリッサの目を見つめた。
「ジオルガはあなたのことをよく考えていたわ。自分が死ぬことを承諾する代わりに、ジェメドリッサさんや他の関係者は殺さないことを、お父様に約束させていた。守らなければ、どうなるのか、脅したのかもしれないわね。ジオルガの実力は計り知れないわ」
ジェメドリッサは目を丸くする。ジオルガが限りなく遠くに感じた。
「だから、ディーアも、あなたに託してほしいと、私達に頼んだの。というより、そのためにお父様に約束させたのかも」
「どういう、ことですか?」
「そもそも、ジオルガが処刑される時点で、ディーアの王族における役割は終わってしまうことは確実だった。だからジオルガは、自分の責任だからと、ディーアを連れ出して逃げようとしていた」
胸がぎゅっと掴まれるように痛かった。
ジオルガは、やはりジェメドリッサの知るジオルガだった。
「私にはよくわからないけれど、ジオルガと別れた後、ジェメドリッサさんは再婚約を望まなかったそうね。それを噂で聞いて、何かしてやれないかと、考えていたわ」
確かにジェメドリッサは、結婚は一生せずに、跡継ぎは養子に頼めばいいと、母親に反発していた。
ジェメドリッサはサリアナが抱いている赤ん坊を見る。サリアナ夫妻の子供だという通り、ジオルガの面影などあるはずもなく、整った可愛らしい無邪気な様子で、無防備に眠っていた。
「だからお願い、受け取ってあげて」
サリアナは再びジェメドリッサに赤ん坊を差し出した。
ジェメドリッサは躊躇いながらも手を伸ばす。
しっかりとした重みが、ジェメドリッサの腕に乗っかった。
覚悟を決めなければならなかった。
ジオルガの優しさには驚かされるが、これは何も優しさだけが含まれているのではない。
多大な信頼と、それに伴う責任が今、ジェメドリッサの肩に乗っかったのだ。そこには勿論、ジオルガだけでなく、サリアナとアリクシオの分も含まれている。
それがジオルガの望みなのだというのならば、ジェメドリッサは全身全霊をかけて、この赤ん坊を守りたい。
「……ディーア」
ジェメドリッサは、赤ん坊の名前を呟く。するとサリアナが、苦々しく口を開いた。
「その名前は、ジオルガが決めたのよ」
「え?」
「この子の公的な名前は別にある。今お忍びで来ているのも、完全にこの子の正体を隠すためよ」
ディーア。レディアの偽名。それを、息子のジオルガがつけた。
ジェメドリッサはそれに、意味を見出さずにはいられなかった。
「レディア様が、関係しているのですか?」
「……ええ」
サリアナは神妙な面持ちで頷いた。
「ジオルガは幼い頃、母親のことを母親だと知らなかったみたい」
「……レディア様は、息子にもディーアだと名乗っていたんですね」
昔ジェメドリッサの母に連れられて教会に来た時、ジオルガはいつもディーアと名乗るレディアと会っていたのだ。
でも、幼い頃、というからには、いつからか気づいていたのだろう。
ディーアという名前は、だから、母親の名前をそのままつけたわけではないのだ。
ジェメドリッサは、昨日のレディアの様子を思い返す。
ディーアという名前を、王女夫妻の子につけたということ。
それを聞いて、もし自分がレディアならば、どう思うだろうか。
怒りの篭った皮肉だと、思うのではないか。
ディーアという名前はこの子につけたのだから、ディーアは一人だけで十分で、レディアはディーアではなく、レディアであり、ジオルガの母親その人なのだと、訴えているようだった。
「わかりました。私が、責任を持って、ディーアを立派に育ててみせます。ですから、ご心配なく、影で、この子の成長を見守ってあげてください」
ジェメドリッサは腕の中のディーアをしっかりと抱きしめ、強い眼差しでサリアナとアリクシオを見た。
二人は優しく、しかし厳しい目でジェメドリッサを見返す。
「頼んだわよ」
「頼んだからね」
ジェメドリッサは大きく頷いた。
ジオルガの死を悲しむより、ジオルガの遺志を受け継ぐことのほうが重要なのだと気づいた。
ジオルガは生きていない。願ったからといって、生き返るわけもないし、魂があるわけでもない。肉体も精神も、正しくこの世から消滅したのだ。
でも、ジェメドリッサにできることがないわけではない。ジオルガの死を無駄にしてはいけない。
「はい、頼まれました」
次はエピローグで完結です。




