エピローグ 『託されたもの』
腕の中で眠るディーアは、無邪気で無防備な顔を晒していた。涎は垂れているが、顔立ちは妙に気品があり、美しい。
「これからどうしますか」
ソファでディーアを抱いていたジェメドリッサの横に、ディゲルが腰掛けた。
傍から見ればまるで新婚夫婦のような光景。しかし、二人の間に甘さはない。
ジオルガの処刑から三日後、マイトリヒ家の邸宅に、ディゲルが婚約者としてやって来ていた。サリアナからディーアを預かってから、フリエとともに面倒を見ていたが、今後はディゲルも、無関係ではない。
「どうしましょう」
「婚約を解消しますか?」
「それは」
ジェメドリッサはディーアを見下ろした。ディーアにとって、どちらのほうがいいのか。母親をいないものとして育ったジオルガを見てきたジェメドリッサとしては、答えは決まっているようなものだった。
恋愛感情こそ抱けないが、ディゲルに対して嫌悪感はない。彼ならば大丈夫、という安心感もある。以前ほど結婚への抵抗はなかった。
それにどちらにしろ、ゾニア王女の紹介で断りにくい。
「いえ、婚約解消はやめておきましょう。ディゲル様の肩書きに傷がつきます。それに何より、ディーアには父親を知ってほしいのです」
「そうですか、わかりました。では、よろしくお願いします」
「ええ、こちらこそ、これからよろしくお願いします」
二人の間に、沈黙がおりる。
気まずくなって目を合わせ、苦笑し合う。
「その、仲良くしていきましょうね」
ディゲルの言葉に、ジェメドリッサは頷いた。
「ええ、そうですね。まずはお互いのことについて知っていきましょう」
ジェメドリッサとディゲルは、お互いのこれまでのことについて話し合った。特にジェメドリッサは、学院の話が面白かった。
ただ、二人とも、無意識にジオルガの話題は避けていた。
会話に花を咲かせていた時、フリエが部屋の扉をノックした。
「ジェメドリッサ様、ディゲル様、来客です」
「急ですね。誰かしら?」
「パケード教授です」
二人は顔を見合せた。
「フリエ、こちらの部屋に通してちょうだい」
「はい、わかりました」
しばらくして、部屋にパケード教授が入ってきた。
貴族の邸宅とはちぐはぐな、平民の服を着ている。被っていた帽子を脱ぎ、朗らかな笑みを浮かべる。
そういえば、教授はもう教授ではなかったか。
「いやあ、急で悪いね。ただ、ジェメドリッサ嬢に聞きたいことがあってね」
「そ、そうなのですね。ではまず、座ってくださいまし」
「ああ、悪いね、ありがとう」
パケード教授は向かいのソファに座り、ふうっとため息をつく。
「ああ、そうだ。ジェメドリッサ嬢に報告があるんだった。どうやら今、人魚の奴隷が一斉に逃げて、人間の奴隷も一部行方不明だそうだよ」
「ほんとですか!?」
開口一番のパケード教授の言葉に、ジェメドリッサは笑みを浮かべた。ジオルガの処刑の騒動の間に、ミャオリンは成功していたのだ。
皮肉にも、ジオルガの処刑は、ジオルガを犠牲に奴隷達を助けることになっていた。ちくりと胸に痛みが刺すが、これでよかったのだと、自分に言い聞かせる。ジオルガが自分で選んだことなのだ。ジェメドリッサを助けるためでもあった。その選択に対して、だからジェメドリッサは何も言えない。
「これを機に国も政府も方針を変えてくれるといいんですがね」
ディゲルの呟きに、ジェメドリッサは肩を落とした。
望みは薄かった。
できるだけ多くの奴隷が逃げてくれることを願う。そしてできればジェメドリッサも、フリエの時と同様に、行き場を失った元奴隷達を助けたいと思った。
「まあ、そのことに関しても、まだまだ改善していかなければならないわけだけどね」
パケード教授は肩を竦めた。
「僕ももう自由の身だから、今度はそういった元奴隷達や庶民に教育を施して、その辺りから攻めていこうかな」
「え」
黒い笑みを浮かべるパケード教授に、ジェメドリッサは鳥肌がたった。パケード教授の教育。ジオルガが受けた教育。それはおそらく、危険なものなのだろう。しかし、人の好奇心というものには、逆らえない。
「ではまず、私に色々教えてくださいませ。ずっと学院に行きたかったのです」
「ああ、勿論だとも。ジェメドリッサ嬢には、知っていてもらいたいね。それから、ディゲルにもね」
パケード教授は茶目っ気たっぷりに方目をつぶった。
「それより、本題に入っていいかな。ジェメドリッサ嬢、ジオルガから何か預かっていないか?」
「あ」
教授に言われて、ジェメドリッサは思い出した。ジオルガから手紙を貰い、それをパケード教授に渡すように言われていたのだった。
「手紙を預かっています。少し待ってください」
ジェメドリッサはフリエに頼み、保管していた手紙を取ってきてもらう。
「これなのですが」
封筒ごとパケード教授に差し出した。教授は、舐めまわすように封筒を見つめてから、中身の手紙を取り出した。びっしりと長ったらしく文字が書かれているが、正直パケード教授に見せるようなものではなく、ジェメドリッサとしてはやや気まずい。
「手紙の内容は、その、あまり、ジオルガらしくないというか……」
「それは、そうだろうね」
パケード教授は手紙の内容ではなく、手紙自体を観察しているようだった。
しばらくして、にやりと口の端を上げた。
「よし、これを燃やしてみようか」
「え?」
意味がわからなかった。
「ま、待ってください。ジオルガ様からの手紙ですよ?」
「ああ、わかってるとも。あいつが書いたから燃やすんだ」
「は、ええ?」
そう言ってパケード教授は、服のポケットから手袋を出して嵌めると、その手に火を灯した。
火神術だった。
ジェメドリッサは火神術者と会ったのは初めてだった。
「教授? 専門は風神術なのではなかったのですか!?」
ディゲルが前のめりになった。
「あの学院に火神術学科があるわけないだろう? ミュリムソン自体に水神教が浸透してるんだからね。それに風くらい神術なんかなくても簡単に作れるよ」
教授は逆の手から風の渦を生み出した。
「袖の中だよ」
「袖?」
見ると、服で隠れるようにして、見たことのない小さな装置が腕に着けられていた。よく見ると、風が出ているのはそこからだ。
「そんな」
ディゲルが嘆く。この時、ジェメドリッサも本当の意味で理解した。
貴族の特権であるはずの神術がこうも容易く模倣されてしまう。これは、今の権力構造を大きく覆すことになる。
国や中央政府とやらは、この技術を恐れているのだ。
でも逆を考えれば、この技術は平等への第一歩だった。平民だろうが奴隷だろうが、知識さえ手に入れられれば、一発逆転の下剋上の世界となり得る。
「まあ、この技術があっても、規制が厳しい中、広げるのが難しいんだけどね。ジオルガも、それはわかっていたんだ」
パケード教授は手に灯した火を、手紙に近付けた。
「教授、ほんとに燃やすんですか」
ディゲルも困惑している。
しかし、パケード教授は気にとめずに、手紙を火で炙った。
厳密には、手紙を燃やすわけではないようだった。
少し焦がしただけで、パケード教授は火を消した。
「ほら、これ見てよ」
教授はにやりと笑って手紙を二人に見せた。
目に入ってきたものを見て、二人は眉を上げた。
手紙の裏側に、なかったはずの文字や図が浮かび上がっていた。
なぜかその部分だけが焦げていて、周りはほとんど焦げていない。
そして、その内容を見て、ジェメドリッサは戦慄した。
「『人工ダイヤモンドとその利用についての研究』……」
ジオルガの、論文だった。
「な、何ですか、これ。神術……ではありませんよね」
「勿論さ。科学の理論に基づいた仕掛けだよ」
パケード教授は、真面目な表情で論文に目を通し始めた。
「これはこれは何というか……。この論文は、誰の目にも触れたことがないだろうね。拷問された時に見せられた卒業論文は、これじゃなかった。まさか僕にも隠していたとは……」
パケード教授はソファに深くもたれかかって天井を仰ぎ、額に手を当てた。口はにやにやと笑っている。
「どうしたんですか?」
ディゲルの問いに、パケード教授は笑みを深めた。
「ジオルガは本物の人工ダイヤモンドなんてソリエダ商会には教えていなかったんだよ」
「本物の、人工、ですか?」
頭がこんがらがってくる。
「そうさ。あいつが作っていた本物は、ずっとジェメドリッサ嬢のものだけだったんだ。そりゃそうだ、四年間のジオルガの努力が大量生産されてたまるかっての。今ソリエダ商会で売られているのは、ダイヤモンドでも何でもない、ただのガラス細工だ」
ディゲルとジェメドリッサは食い入るように教授の話を聞いていた。
「ダイヤモンドは本来なら、うんと昔に地表の奥底の高温高圧の環境の中で生成されたものなんだ。それがこれまたうんと昔に火山の噴火で地表付近に上がってきた。ナヤルで採られていたのは、その天然のダイヤモンドだよ。でもジオルガはこれを、一から自分でやろうとしたんだ」
「なる、ほど……」
その壮大さに、二人は圧倒された。
「ダイヤモンドの特徴はまず、硬いということ。そして、光の屈折率が高いということ。これは、ダイヤモンドが炭素という一種類の元素によってできているからなんだよ。だから、ダイヤモンドは炭素からできていなければその本来の性質は受け継いでいないということになる」
あまりにも聞き慣れない内容で、ジェメドリッサには難解だった。それはディゲルも同様だった。
「えーと、それはつまり、ソリエダ商会で売られているダイヤモンドは、ダイヤモンドではないということですか? ジオルガが作っていたのは、本物のダイヤモンドではないのですか?」
「いや、人工だが、本物のダイヤモンドだ。ジオルガは本物だからこそ、その製造方法はソリエダ商会には言わなかったんだ。希少性も価値もない、型にはめれば大量生産できるガラス細工を、あたかもすごい技術かのようにナヤル王国やソリエダ商会に広め、自分は影で本物を作っていたんだ。ダイヤモンドがどういう物質なのかちゃんと理解している人は少ないから、ばれることもない。中央政府も、ただ科学を怖がっているだけで、その実態は知らない。それにばれたとして、大量生産による利益は計り知れないから、ソリエダ商会とて販売をやめることはないだろうね」
「パケード教授は協力していたのではなかったのですか?」
ジェメドリッサの問いに、教授は首を横に振った。
「本当の製造方法がばれているんだと思っていたんだ。でもそれが、ジオルガの狙いだったんだ」
「じゃあ、まさか、処刑を受け入れたのも、そういう、ことなのですか?」
「多分ね。お偉いさん方にちゃんと信じてもらうためには、それが必要だったんだ。まあ、他に方法はあったのかもしれないけど、あいつは、頼らず、一人で抱え込むタイプだったから……」
教授の頬に涙が伝った。
一人で抱え込むタイプ。それは、ジェメドリッサにも心当たりがあった。相談というものを、今までされたことがなかったのだ。
「なあ、ジェメドリッサ嬢、ディゲル」
教授は身を乗り出した。
「今ジオルガに頼られているということに、気づいてるか?」
「え」
ジェメドリッサはパケード教授の持つ手紙を見つめた。
あの手紙を貰った時、ジオルガは真剣にジェメドリッサをじっと見つめていた。
あれは何かを伝える目だった。
今までのことを思い返していく。
水神教会の腐敗、人魚の奴隷貿易、『涙の海』の神話の真実、ダイヤモンドの婚約指輪。
権力と神術の裏には、科学が深く隠されていた。
ジオルガは何を目指したのか。
それをどのようにして達成しようと思ったのか。
ジオルガの幼少期の環境と、ジェメドリッサの閉ざされた環境。
騙されて、騙されてきたからこそ、気づくことはあった。
「……そうか、騙されることを逆手にとるんですね」
ジェメドリッサの呟きに、ディゲルがはっと目を向けた。
「全部が計画だったんですね。慎重に組み立てられた、長期間にわたる計画。何かを変えるには、きっかけは必要。でも、それだけじゃない、忍耐がいるんですね。ちょっとずつ、ちょっとずつ、権力者から気付かれないところから、味方につけていく」
ジェメドリッサはパケード教授を見た。
教授ではなくなったが、彼はやはり教授なのだ。逆にこれからが、本番だといえるのかもしれない。先程言ったように、奴隷や、平民に、知識を与えていくつもりなのだ。
「それから、準備ができたところで、全てをひっくり返すんです。今、何人の貴族がガラス細工のダイヤモンドを高い値段で買っているのでしょうか。これから何人が、それに騙されるんでしょうか。そこでもし本物の人工ダイヤモンドの作り方が発表されれば、どうなるでしょうか」
学院に入った一部の生徒の中にも、神術と神話の支配するおかしな構造に気付いた者はいるだろう。それはジェメドリッサの母もそうだったのだ。ディゲルやペトリージャやヘルドも同様で、少しずつ火種は燻り始めている。
騙されたと気付いた貴族の矛先は、どこに向かうだろうか。
別に貴族は馬鹿ではないし、悪い人ばかりではない。ただ、騙されているだけなのだから。大抵は大多数に賛同しているだけなのだから。
事実ジェメドリッサも、お茶会では、周りに合わせておけばいいと思っていた。
その大多数と少数が逆転した時、何が起こるだろうか。
「……ジオルガの死は、無駄じゃなかった。いえ、無駄にしてはいけないんですね」
そう言った途端、ジェメドリッサの心がすっと軽くなった。やっと、ジオルガのことを理解できたような気がして、もういないのに、何故か存在が近く感じられた。
そう。
ジオルガはいない。
ジオルガは神を信じないから、魂など残らないし、霊となって出てくることもない。
でも、遺志は残るのだ。
ジェメドリッサがパケード教授を見つめると、教授は穏やかに微笑んだ。
「これまで頼らなかったくせに、今になって頼ってきたんだ。それに僕らは、応えないとね」
ジェメドリッサとディゲルは、深く頷いた。
その時、ジェメドリッサの腕の中で、ディーアがもぞもぞと動いた。
「あ」
三人で顔を見合わせる。
赤ん坊というものは、予期できないものだ。
どんなに真面目な話をしていても、気にすることはない。
「ん、ぎゃあああ」
その泣き声に、自然と空気が弛緩する。
そうなのだ。
ディーアもまた、ジオルガから託されたものの一つだ。
ジェメドリッサはディーアを抱き直してあやしながら、優しくも強かな笑みを浮かべた。
これで完結となります。
ここまで読んでくださった方々、ありがとうございました。
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はじめての連載作品ですので、特にどのような感想を抱かれたのか、とても気になります。よろしくお願いします。
※余談ですが、最後の展開のモデルはルネサンスです。世界史ではあのあたりの時代が作者は一番わくわくします。




