第十九話 『絶望の顔』
木箱の中には六面全てが密閉されたガラスの水槽が入っており、その水の中にぐったりとしたオウリャンの姿があった。
ガラスを内側から弱々しく叩きながら、光のない目でミャオリンを見上げている。
目の下には隈ができて、頬が痩けている。出発した時と同じ華美なひらひらした服装が、痩せた肢体にはより一層不釣り合いに見えた。
ミャオリンは水槽の上部の蓋を開けた。オウリャンが苦しそうに水槽から顔を出し、けほけほと咳を繰り返す。
「オウリャン!」
ミャオリンは叫んだ。倉庫内に声がこだまする。しかし、本当に周りの修道女は手を止めることも目を向けることもない。
「何これ。どういうこと」
ミャオリンは振り返って先程のそばかすの修道女に聞いた。修道女は答えない。
「ねえ!?」
詰め寄って肩を揺さぶると、修道女は胡乱げに目だけを向けた。
「だから知らない」
「嘘よ。知ってるんだよね?」
でなければ、何故こんなに落ち着いていられるというのか。修道女はため息をついた。
「どっちでもいいじゃない」
「良くないよ!」
「じゃあ、あんたはどうしたいわけ? まさかこれを助けたいわけ?」
「当たり前じゃん!」
「は。これ全部?」
「え」
「ま、頑張ることね、新入り脳筋さん」
その修道女は仄暗い笑みを浮かべると、他の修道女とともに、近くにあった木箱を持ち上げた。ミャオリンは慌ててその箱に手を当てた。
「ねえ待ってよ! ここにも入ってるんでしょ!?」
「そうだよ」
「じゃあなんで!」
ミャオリンはわからなかった。
知っていながら、なぜこんな酷い扱いができるのか。それとも、人間にとって、人魚とはそういった存在なのだろうか。ジェメドリッサだけが、優しかったのだろうか。
「ミャオ、リン……。もういいわ。こういう、運命だったのよ……」
「オウリャン?」
開けたガラスの水槽の中から、オウリャンが身を乗り出して口の端を吊り上げていた。その諦めが、思考回路が、理解できなかった。
「ねえなんで? 鍵も簡単に開いたのに! ここにいるみんなで協力したらすぐに海に戻せるのに!」
「だからミャオリン、ここにいる修道女にその気がないのよ」
「どういうこと!?」
ミャオリンはその場にいる修道女達を見回した。返事どころか、反応すらない。
「なんで無視するのよ!」
「あんたいい加減うるさいよ」
そばかすの修道女が冷ややかな目でミャオリンを振り返った。
「自分の立場がわかってないんだね、可哀想。逆にここに来て疑問に思わなかったの。教えてあげるけど、あんたは今日からここの奴隷になったんだよ」
「奴隷? 私はニシェリアさんに布教用の船の手伝いをしたい、って自分から言い出しただけで……」
「馬鹿なの?」
修道女は低い声で吐き捨てた。
「布教の船なんてもとから存在しない。ただの奴隷商売だ。人魚は貴族に高く売れる。それに加担することで、あんたもうちらも無事でいられるんだ」
「ニシェリアは修道女じゃねえべ。ただの悪魔ださ」
横から別の修道女が口を挟む。訛りがきつく、ここにいる修道女は全員白い服を着ているが、その中身が纏う雰囲気が、教会のそれとかなり違うことに、ミャオリンは気付いた。
「それでも、ここにいりゃ最低限の生活が保障されんだべさ。貧民街で一生垢まみれでひもじく過ごすよりも、娼館で早死するよりも、はるかにゃましさあ」
「あんたもそうだろ。どうせ奴隷になるんならこっちを選ぶほうが賢い」
訛りの修道女も、そばかすの修道女も、そう言う目に光はなかった。それどころかミャオリンが黙り込んでいるうちに、作業を再開する。
ミャオリンは悪寒が走るのを感じた。
「おかしいよ……」
ふるふると首を振る。希望はないのか、目的はないのか、夢はないのか。
「オウリャン! ねえ、私達人魚は、また海に戻って、泳いで、歌を歌うんだよね!?」
「無理よ。ミャオリンがそうしたいなら、あなただけ海に戻ればいい」
「え?」
「それとも、人間の姿になんかなって、このまま陸で暮らすの? 人間みたいに飾り立てて、人魚の奴隷貿易に加担して、ここの修道女達に洗脳されて一生を過ごすの?」
オウリャンはそう捲し立てると、むせたように大きく咳を繰り返した。
「え?」
明らかな侮蔑を含んだ声に、ミャオリンは思わずその場を退いた。どん、と腰が後ろにあった木箱に当たり、運悪く積み重ねられていた箱がずれて、傾いて、倒れた。
ガシャンという音に隠れて、鈍い音が聞こえた。悲鳴は聞こえない。でも、その中にも、同士はいるのだ。
いや。
同士。
どこが同士なのだろう。今のミャオリンには、人魚と共通するところが何一つない。
思い返せば、最後に薬を飲んだのは三日前だ。これまでは一日が最高記録だったが、まるで人魚に戻りそうな気配がない。人間の姿に、何よりミャオリン自身が慣れてしまっている。
種族としてのミャオリンのアイデンティティが、崩れかけていた。
「やめ、てよ」
ミャオリンは倒れた木箱に近付き、軽く叩いた。反応はない。
鍵束を取り出し、箱の鍵を開ける。
そして思わず口を押さえた。
人魚は眠っているように見えた。
目を瞑り、くたりと体を折り曲げたまま、水中に浮かんでいる。華美な服装は相変わらずだったが、儚く、神秘的な姿だった。
「人間は人魚を生き物だとは思っていない」
オウリャンの掠れた声に、ミャオリンは振り向いた。
「水槽の中は完全に密閉されている。水の中に溶けている空気にも勿論限りはあるわ」
「……嘘よ」
「嘘じゃない。多分その辺りは、私が捕まるよりも前の回のだよ」
オウリャンはミャオリンをじっと見つめた。
ミャオリンは息が詰まる心地がした。
人間は、何をしたいのだろうか。人魚を何だと思っているのだろうか。人魚の尊厳は、何なのだろう。
思い返せばミャオリンが飲んでいた薬は、人間からもらったものなのだ。良い人だという顔をして、ミャオリン達を騙した。
何が聖なる人魚。結局ただの奴隷だった。
「あ……」
その時、ミャオリンの脳裏で、穏やかで優しい笑顔が弾けた。
嫌悪感が、罪悪感が、無力感が、胸の中からせりあがってくる。
「オウリャン……別に悪い人間ばかりじゃない」
「何よそれ。そりゃあなたは運良く逃げれたのかもしれないけどね、」
「だから私は今ここに来たんだよ!」
感情が爆発した。
「ジェシーは! ジェメドリッサは! 水神教会で、何も知らない私に親切にしてくれた! 結局ジェメドリッサの方が先にどっか行ってしまったけど! そりゃ、なんか隠してばっかりでいい気はしなかったけど! それでも人間の世界で何とかやってここまで来たのも、人間のおかげなんだよ!」
視界がぼやけて、目から水が溢れてきた。これが水神術というものなのだろうか。
こんな経験、こんな思いは初めてだった。
人間は好きじゃない。それなのに、悔しかった。
「ねえ、ちょっと待って」
目の水を拭っていると、唐突にそばかすの修道女が話しかけてきた。
「あんたジェメドリッサ様を知ってるの? ジェメドリッサ様は教会にいるの?」
「え?」
ふと周りを見ると、何故か今まで一切の関心を見せなかった修道女達が、すべてミャオリンに視線を向けていた。
「まさかあんた、人魚なの?」
ミャオリンはよく分からないまま頷いた。
「学はないけど、ここで知ったことは少なくないと思う。うちらが知ってる話を、聞いてくれる?」
◆ ◆ ◆
ジェメドリッサは、柱の後ろに隠れて周囲を確認していた。学院には身軽なワンピースを着ていたのが幸いした。
先程目の前を通り過ぎた審査員達は突き当たりの角を曲がったようで、他の人影も見えない。
今のうちに。
そう思い、扉のプレートを眺めながら、廊下を柱沿いに歩く。すぐ横は手すりになっており、吹き抜けになっているようで、二階下のホールが見えた。そこにも審査員はいるから、注意しなければならなかった。
ジェメドリッサは、ジオルガが行っていたという、パケード教授の研究室を探していた。教会に入ると決めた時から謎の行動力がついていたようで、ディゲルとヘルド、ペトリージャには何も言わずに、気付かれないようにそっと抜けてきた。
ペトリージャの、パケード教授の研究室は三階だという情報は、ありがたかった。少し歩くと、『神術学風神術科専攻 パケード教授』というプレートがかかった扉が見えた。
周囲に人がいないことを確認する。今更だが鍵がかかっているかもしれないと思い至ったが、とりあえずジェメドリッサは扉の取っ手を引いた。
「……あ」
嬉しい誤算というべきか、手応えはなく、あっさりと扉は開いた。
緊張しながら、研究室内に足を踏み入れ、そっと扉を閉めた。
研究室内は、殺風景だった。
ジェメドリッサには研究室というものの正解はわからない。でも、何か研究をするというには、何も無かった。部屋の中央には無機質な机が置かれており壁際の棚には何も入っていない。よく見れば、壁には紙の切れ端が残っている。
ジオルガの研究成果。それはまるで、完全に隠蔽されたようだった。
それでも、ジオルガがここで研究をしていたのだと思うと、喉の奥が苦しくなった。
仄暗い部屋の中に窓から光が差し込み、埃がきらきらと舞っている。その光景は確かに美しくて、飾り気のないありのままの姿で、ジェメドリッサは好きだと思った。
そこでジェメドリッサは、研究室の中に、もう一つ扉があることに気付いた。倉庫のようだった。
ジェメドリッサはその扉に手をかけた。
その時のことだった。
パリン、と、その扉の向こう側から物音が聞こえた。
中に誰かいる。
ジェメドリッサは慌てて手を離し、扉から離れるが、後ろに椅子があることに気付いておらず、盛大に転けてしまった。
「へうぁ……!」
かなり大きな音が鳴る。案の定尻もちをついている間に、扉の内側から足音が近づいてきた。
「……ジェメ?」
「え?」
扉が開き、現れた人物にジェメドリッサは震えた。
「ジオ?」
久しぶりに見た元婚約者の姿が、そこにあった。端正な顔立ちは変わらないが、ジオルガは審査員と同じ黒いローブに身を包んでいた。
二人は呆然として暫し互いの顔を見つめ合う。
「な、なんで」
ジェメドリッサは頬を赤くして目を逸らした。
「なんでこんなことしたの?」
ジオルガはジェメドリッサの方に一歩近寄り、目を伏せて自嘲的な笑みを浮かべた。
「怒ってる?」
「な、何を」
「何って。もう他人だって、言ったのはジェメじゃないか」
「……っなんでだからそうなるのよ……!」
ジェメドリッサはかっとなって立ち上がり、ジオルガに詰め寄った。以前までなら、肩を掴んで揺すっていた。でも今は、ジェメドリッサの手は行きどころを失っていた。
「ごめんね」
「謝らないでよっ」
「でも俺はジェメに浮気したんだよ。騙したんだ」
「なんでそんな事言うの。だったらジオのこと少しでも疑った私の方が悪い。ねえ、私別に何も知らないわけじゃないんだよ」
ジェメドリッサは自身の手を、指の背を撫でる。
ジオルガの手を見るが、そこにも勿論、婚約指輪はない。
「……作ったんでしょ? 一から」
ジェメドリッサが言うと、ジオルガは口をへの字に曲げた。
「私のためだったんでしょう? なんで何も言ってくれなかったの?」
「そりゃあ言えないよ。あの頃の俺はかっこつけたかったんだ。それにあれは、まだ未完成で、本当は……」
ジオルガはしかしそこで言葉を止めた。ジェメドリッサは苛立ちを隠せない。
「かっこつけたかった? 私からすれば、どこで買った指輪よりも、あの指輪の方が嬉しかったわ」
「でもあれは人工的な偽物であって、ジェメはあの時ソリエダ商会の指輪だって言ったら、喜んでたじゃないか」
「そういう意味じゃないんだってば。あと偽物って……。だったらこんなことになってるわけないじゃない」
「でもジェメには知られたくなかった」
目を逸らしたジオルガを見て、ジェメドリッサは言い返そうとする。しかし、すぐに頭を抱えて、額を手で押さえた。悲痛な声が漏れる。
「ああ、もう、私はこんな喧嘩みたいなことがしたいわけじゃないんだってば」
何故言い合いになってしまうのだろうか。でも、ジェメドリッサは自分の口が緩むのを自覚していた。
ジオルガとこんな、面と向かって話したのはいつぶりだろうか。昔はよく喧嘩も遊びもしていたのだ。それがいつか、互いに本音を言うのを控えるようになっていた。
「……ねえ、ジオ」
ジェメドリッサは、すっかり背の高くなったジオルガを見つめた。純粋な光を湛えた瞳が、ジェメドリッサの顔を映す。
「改めて、お礼を言わせて。ありがとう」
ジオルガは目を見張った。
ジェメドリッサははにかんで斜め下を向いた。
すると、ぐっと肩が引かれて、ジェメドリッサの体が傾いた。視界にジオルガの胸が広がる。
「ジェメ、愛してる」
今までにない強い抱擁に、ジェメドリッサは戸惑った。おずおずとジェメドリッサがジオルガの背に手を回すと、さらに腕に力がこもった。
「うん。私も愛してる」
ジオルガは石鹸の匂いをしていなかった。鼻の奥に染み渡る、柑橘系の香り。香水だろうか。
「ねえ、今まで何してたの」
抱擁を続けながら、ジェメドリッサは静かに尋ねた。
「ナヤルにいたんだ。逃げてきたけど」
「その、ジオが死刑だって聞いたから、心配したよ。もう捕まってたのかと思った。無事で良かった」
「うん」
「でも、なんでここに来たの? すぐそこには妙な審査員、というかナヤル王国第九師団の人達がいたわ」
ジオルガはため息をつき、ジェメドリッサの頭を撫でた。
「パケード教授に、最期に挨拶しておきたかったんだ。それが、この有様だった。予想はしていたけど、何も残っちゃいない」
ジオルガは研究室を見回す。
「でも、ジェメは無事でほんとに」
そこで不自然に言葉を止めた。
「待って、ジェメに渡しておきたいものがあるんだ」
ジオルガはローブの中から封筒を取り出して、ジェメドリッサに押し付けた。
「俺の代わりにパケード教授に見せて、一緒に読んでほしい」
「う、うん」
ジェメドリッサは封筒を抱きしめてうなずいた。
「それからジェメ、今すぐ奥の倉庫に隠れて」
「え、どしたの」
「何でもないから、早く」
ジオルガは奥の扉を開け、強引にジェメドリッサをその中に押し込んだ。
「何!? どういうこと?」
「静かに」
ジオルガは容赦なく倉庫の扉を閉めた。鍵はなかったが、扉は動かない。外からジオルガが押さえているのだろう。
しばらくして扉越しにいくつかの足音と、知らない声が聞こえた。
『何をしている?』
『はは、見つかってしまいましたね』
『他人事のように言うんだな? 今自分が置かれている状況がわかっているのか?』
声が近付いてくる。
先程の審査員の声だった。
ジェメドリッサは心臓が喉元に迫る感覚を覚え、口を押え浅い呼吸で耳を澄ませていた。
『ええ、もともと逃げる気はなかったんです』
『どの口が言うんだ。ナヤルは大騒ぎだぞ』
『ナヤル? 私がナヤルのことを気にするわけないでしょう。無理矢理引き留めたのはどっちですか』
『生意気な。でもまあ、それも今のうちだけだな。しかるべき裁きを受けろ、反逆者』
ジェメドリッサの眼前で扉が衝撃に跳ねる音がした。
『は、手荒ですね。これが第九師団のやり方ですか。それとも、ナヤルのやり方ですか。いえ、中央政府とでも連携しているのですか。この世界も腐ったものですね。たかが学生一人に』
『黙れ。お前は知り過ぎだ。やはり親に吹き込まれたか』
『親? 失礼ですね。あれは私の成果であり、協力者はパケード教授だけです』
『あれはもう捕まえた』
『そうでしょうね』
ジオルガは終始落ち着いているようだったが、ジェメドリッサには聞き慣れない口調だった。
先程の腕の温もりが、急速に冷却される感覚がした。
『じゃあ早く行きましょうよ。色々疲れました』
『……何を考えている』
『何も』
扉がぎしりと音を立てると、足音が遠ざかっていく。
「え?」
ジェメドリッサは我に返った。
今何が起きたのか。
「待ってジオ!」
扉を盛大に開き、ジェメドリッサは研究室の中を見回した。
話していた審査員に加え、三人の審査員がそこにいて、ジオルガ含む計五人の視線が、ジェメドリッサに集まった。
ジオルガの両手は金属のようなもので固定されており、繋がった鎖の先は一人の審査員の手に握られている。審査員とはいえ、彼らがナヤル王国第九師団の人員であるからには、ローブの下には軍人の肉体が隠されているのだろう。
途端に汗が吹き出て、肌が粟立った。ワンピースの裾をぎゅっと握る。
「これはこれは」
ホールで見た審査員は、ジオルガとの口調とはうってかわり、妙な猫なで声でジェメドリッサに相対した。
「ジェメドリッサ様がなぜここに? まさかジオルガ・セムトリーとまだ関係が?」
「違いますよ。なぜか学院祭に来ていたようで、見つかってしまったんです。もう無関係だというのに。ややこしいから下がらせたのですが、耐えられなかったようです」
ジオルガが眉をひそめて吐き捨てた。
「ジェメドリッサ様、まだこんな男が好きなのですか?」
審査員は悲しげに尋ねる。
「……いえ、急に婚約破棄された身ですので、一言言ってやりたかっただけです」
「そうですか、お可哀想に」
ジェメドリッサはそう言うしか無かった。何よりジオルガからの突き刺さる視線が、やめてくれと、切実にそう伝えようとしている気がした。
「彼女はもう関係ないんです。これ以上迷惑はかけないでやってほしい」
「ええ、学院関係者ではありませんからね」
審査員はしかし、粘着質な目でジェメドリッサを見ていた。
「その手に持っている封筒は何でしょうか?」
「え」
ジェメドリッサはあからさまに助けを求めてジオルガに目を向けた。しかしその表情から、やらかしたことを悟る。
審査員はにやりと口の端を吊り上げていた。
「ジオルガ・セムトリーが渡したのですね?」




