第十四話 『母親の苦悩』
ジェメドリッサが消えてから、一週間が経った。
マイトリヒ夫人の纏う緊張感に、子爵は冷や汗を流し、フリエはただひたすらに気まずかった。
耐えかねて、子爵がまず席を立った。夕食後のワインを嗜みながら寛ぐはずの時間だったが、この一週間、三人とも心を休ませることはなかった。
夫人は子爵が部屋を出るのを確認してから、フリエに話しかけた。
「今ね、ジェメドリッサの新たな婚約者が決まりそうなのよ」
その声音に、フリエは苛立った。神妙に言っているが、ジェメドリッサがいないのを良いことに勝手に話を進めるのはおかしい。
「王家からの紹介だから、反故に出来ないわ。それもミュリムソン学院を首席で卒業したエリート。それまでにジェメを見つけないと」
「その、一つお尋ねしてもよろしいでしょうか」
フリエの言葉に、夫人は首を傾げた。
「なぜ夫人は、そこまで結婚にこだわるのですか。お嬢様の望みはどうして叶えていただけないのでしょうか」
「それはあなたは知る必要のないことよ」
一蹴されてしまった。
「ですが」
フリエは食い下がる。
「お言葉ですが、夫人、これまでお嬢様の相談は全て私が聞いていたのです。母親だというのに、本当はお嬢様のことなんて何も知らないのではないですか?」
「何ですって?」
夫人はフリエを睨んだ。
「あなたに何がわかるのよ。私達はただあの子の望み通りにしてやるのが正しいことだとは思っていないのです。家庭の方針は様々なの。あなたもわかるでしょう? あなたの母親こそどうだったの、よ……」
夫人は目を見開いて慌てて口を押さえた。
「ごめんなさい。無意識に……」
フリエの母親はフリエを売った。それを思い出したのだろう。それを気遣えるくらいには、夫人も優しいのは確かだ。
そして、母親としてどうこうということは、フリエに言えたことでもないのも確かだった。なぜならフリエは母親のことをよく覚えていない。
「いえ、私こそ、酷いことを言ってしまいましたので」
フリエは目を伏せた。夫人はフリエの様子を見ながら、顎に手を当てた。
「そうね……。あまり大きな声で言えることではないのだけれど、フリエ、あなたになら言ってもいいかもしれないわね。ジェメのことをよく考えてくれているのなら、私の考えも理解してほしい。そして協力してほしい」
フリエは怪訝に思った。どういう心情の変化だろうか。
「まずは私の過去から。私もあのミュリムソン学院に通っていたのよ。専攻は薬学。セムトリー家の奥方とも同じ学部で、彼女とは親友だった」
夫人はワインを一口飲み、グラスを傾け中の赤を見つめた。
「習うことは、この植物はお腹に良いとか、頭に良いとか、そういう抽象的なことだった。一番酷かったのは、そうね、伝染病の発症者は火で炙ればいい、みたいな妄言。そして大抵は水神術者の生成する聖水が最も大きな効果があると言われた。あとは薬師に関する法律とか。私は貴族だから、卒業後は誰かと結婚することが決まっていて、正直そういったことには興味はなくて、それはレディアも同じだった」
セムトリー家の奥方の名前が、確かレディアだった。ただ、会ったことはなく、そもそも亡くなったという認識だった。
「四年から始まった研究も、当たり障りのないことばかりだったわ。でも、ある時教授が妙な薬を持ってきたの。見たことも聞いたこともない薬だった。そして、それ以降始まったのは、高度な特別講義だったの」
「ちょっと待ってください」
フリエは夫人の話を遮った。嫌な予感しかしなかった。これからの話の流れは、果たしてフリエが聞いてもいい範囲なのか。夫人が教えてくれなかったのはそういうことなのか。
「そのようなことを私におっしゃって良いのですか」
「聞きたいと言ったのはあなたでしょう? それともここでの話をどこかでべらべらと喋るの?」
「いえ、他言するつもりはありませんが……」
「なら良いでしょう?」
フリエは頷くしか無かった。夫人の話は、かなり危ない。それに巻き込まれることは、つまりそういうことである。フリエは覚悟を決めた。
「講義では、薬の本質に迫った。私達は危険だとも知らずに、ただ楽しんでいた。でもある日、教授の部屋でレディアがある薬を見つけたの。それが災いの種だったのだと、今になって思うわ。すごく厳重に保管してあって、不気味だった。でもレディアは気になって、それを持って帰ってしまった。調べようと思ったのでしょうね」
夫人はため息をついた。
「薬の色は、紅茶に似ていた。レディアの母親が、間違えて薬を紅茶だと思って飲んでしまった。その結果、彼女は人魚に変わってしまった」
「人魚?」
「そう。水神教の神話に出てくるあの人魚よ。笑ってしまうでしょう?」
「ええ、まあ……」
人魚、というのが何か、フリエは知らなかった。
「でもこれは仕方のないことだったのよ。その頃の私達は、薬の何たるかをわかっていなかった。今まで扱っていた薬は毒にもならなければ良薬にもなり得なかった。教授曰く、ただの詐欺だそうよ。聖水なんてただの水だと言って、水神教を馬鹿にしていた」
「夫人は水神教の信者なのですよね?」
夫人があまりにも淡々と話すものだから、フリエは眉をひそめた。夫人はずっと、水神教の敬虔なる信者だった。幼い頃からジェメドリッサに、水神教の教えを洗脳のように伝えていた。もっとも、その洗脳が成功したのかは言うまでもない。
フリエの指摘に、夫人は自嘲的な笑みを浮かべた。
「私は確かに水神教の信者だったわ。でも、学院に入って色々なことを知った結果、目が覚めた」
「何を知ったのですか?」
「それだけは誰にも言えないわ。それほど重大なことなのよ。ジェメにも言えない。というより、それを知ってほしくないがために、私はジェメを学院に行かせなかったの」
「ではなぜ水神教を信仰しているふりをしているのですか?」
フリエは頭が混乱してきた。
ジェメドリッサは今水神教の教会にいるはずだ。誰にも見つからないから自由だと、安全なのだと、そう信じて出ていったのだ。雲行きが怪しくなるのを感じる。
「私はジェメには危ない橋を渡ってほしくなかった。表向きでも水神教を信仰しているのならば、それだけで怪しまれずに済むのよ。レディアの時もそうだった。あの馬鹿が。もっと上手く立ち回っていたら。ちゃんと世の中のしくみについてわかっていれば……」
夫人は頭を抱え込んだ。
「その、レディア様はどうなったのですか」
「レディアは今は教会で過ごしている」
「え? ご存命なのですか」
夫人は苦笑した。
「確かに、表向きにはほとんど死んでいるようなものね。あれからずっと、国には目をつけられている。だから、いわば、水神教の犬よ。何にせよ問題なのは、レディアの母親よ。国に連れて行かれたそうだけれど、ずっと行方不明なままなの。レディアは何か知っているようだったけど、何も話してくれなかった。あの薬も何だったのか、わからないままよ。そして私達の教授も、同時期に追放されて、今はどこにいるのかわからない」
夫人は目を伏せて、暫し黙り込んだ。
そこでフリエの中にふと疑問が浮かんだ。
「結局、セムトリー家とマイトリヒ家の関係は何なのでしょうか」
ジオルガとジェメドリッサの婚約は経済面に関して政略的なものだったが、もともと交流が多く、仲が良かったように感じる。でも何故か、交流はあるものの、親の間にはいつも、ぎこちなくてきまずい空気が流れていた。婚約を決めたのも双方の親であるというのに、子供同士の仲だけは深まって、もともと親友であったはずの母同士の間に友情があるようには見えなかった。昔からジオルガの母親が不在であることに関しても、夫人は冷淡であるかのように見えた。
夫人が顔を上げ、フリエを一瞥すると、また目を逸らした。
「中途半端なのは私もレディアもわかっているわ。でも、どちらにしろ私はもともとマイトリヒ家ではなかったし、レディアもセムトリー家ではなかった。家同士の領地的な伝統的な関係は受け継がれながら中身だけ変わっていくというのは、多分そういうことなのよ。この秘密は旦那様にも言っていないから尚更だわ」
「ではなぜ私に言ってくださったのですか?」
「フリエ、しらばっくれるのもいい加減にしなさいよ」
「え?」
突然夫人がフリエを睨んだ。
「ジェメはどこにいるの? 知ってるんでしょう? 私も大体はわかるわよ。あの子が行けるところなんて限られている」
フリエは返す言葉が見つからず、黙ってしまった。
「まさか教会になんて行ってないわよね? あのね、あそこは腐ってる。それだけは確かよ。誰でも入れて、最近では貴族令息と貴族令嬢の出会いの場として大変人気だそうよ」
夫人は面白くもなさそうだった。
夫人はもともと予想をつけていたのだと、フリエは気づいた。
「どこの教会? この国にはそれこそ腐るほど教会はあるわ。ジェメはまだ教会の本質をわかっていない。綺麗な心のままじゃ、あそこは辛い」
「すみません、奥様。私は本当に何も知らないのです」
フリエはジェメドリッサとの約束を守りたかった。夫人の気持ちも確かにわかる。でも、フリエが言えばジェメドリッサは家に引き戻され、安全であってもジェメドリッサにとってはつまらない一生を送ることになるのだろう。母親の言いなりになるばかりでは、楽しいはずがない。
「私はあなたをいつでも解雇することができるのよ」
「もともとお嬢様に救っていただいた身です。また元の貧しい世界に戻ることになるだけです」
「なんで……!」
夫人がいつになく苛立っていた。フリエの心が揺れる。
「やめてください、奥様。奥様と同じくらい、私はお嬢様のことを思っているのです。知っていることは認めます。ですが、お嬢様との約束なのです。好きにさせてあげてください。お嬢様の人生です。その結果どうなったとしてもそれはお嬢様の責任ですが、お嬢様も考えなしで行動しているわけではありません」
「違うの、もしかしたら本当に危ないかもしれないのよ」
見ると、夫人の顔は真っ青だった。
「この前の調査団にジェメを探すのを頼んだけれど、それは本当に正しかったのかわからなくなってきた。聞くところによると、今ジオルガ様の立場が非常に危うくなっている……」
「お嬢様を裏切ったのですから、当然の報いです」
言いながら、ジェメドリッサはそれでもジオルガを忘れられなかったことを思い出す。
「だから違うの。何かおかしい。何でジオルガ様のことでジェメが探されるの? もうすぐ裁判がどうこうって……。でも、今どうなっているかよくわからなくて……」
夫人の目から雫が流れ落ちた。
フリエは目を剥く。
そして気づいた。
夫人はジェメドリッサの母親なのだ。娘を心配するのは当然だ。
自分の選択が正しいのか、わからなくなってくる。伝えるべきなのか、べきでないのか。何がジェメドリッサにとって、最も幸せなのだろうか。
「奥様、落ち着きましょう。お嬢様はきっと、元気にやっているはずです。ちょっとの家出だったんです。飽きたら帰ってくるでしょう」
フリエは夫人にハンカチを手渡す。
その言葉は、夫人に向けたものなのか、自分に向けたものなのかはわからなかったが、少なくともただの気休めであることは自覚していた。
夫人は涙を拭い、少し落ち着いてから再び口を開いた。
「そうね……。でも、ジェメが巻き込まれないようにしないといけないのよ。良く考えれば、帰ってきても、またあの調査団が来るでしょうね。とにかくジオルガ様はジェメに関わらせてはいけない。あの子はまだ未練をもってそうだから心配なのよ……。その点で、ミュリムソン学院の首席の婚約者がいれば、下手なことはできなくなるはず」
「学院は危ないのではなかったのですか?」
「だからこそよ。もともと成績はトップだったジオルガ様が何かに巻き込まれて首席の座を逃し、別の生徒が首席になる。ミュリムソン学院の首席という称号は、この国では大きなステータスよ。つまり、ジオルガ様とは反対の位置にいる可能性が高い」
「……そう、なのですね」
フリエは夫人が何の話をしているのか、途中からわからなくなってきた。
「それに、ジオルガ様はレディアの息子。それだけで昔から警戒されていたのよ。今はそれこそセムトリー家に関わること自体が危ない」
夫人は物憂げにため息をつく。
「レディアとは、本当に仲が良かったのだけれどね」
フリエは何も言えなかった。
正直これだけ説明されても、夫人が何を恐れているのかわからないままだ。どこか単語が欠けている。
「その、今更ですが、夫人は何を心配されているのでしょうか。怖がっているのは何ですか。水神教ですか、調査団ですか、学院ですか」
夫人は即答した。
「政府よ」




