第十一話 『聖なる人魚』
夜が更け、ミャオリンは途方に暮れていた。空には丸い金貨ようなものが光って浮かんでおり、明かりはそれだけだった。
足が生えたといっても、妙に華美な服装はそのままだったため、ミャオリン自身はそうとは知るはずもないが、多くの男から声をかけられた。
貴族の屋敷に向かいたい旨を言っても、何故か誰も教えてくれない。代わりに連れていかれたのは、花か何かの甘ったるい匂いでむせかえった、豪華だがけばけばしい建物ばかりだった。
確かにお金はありそうで、指輪というのを指にたくさん付けている女性もいたが、どうやらそれは貴族ではないようだった。美しい少女達が、さらに美しい女性に、怒鳴られ、ぶたれ、下品な言葉で罵倒されていた。
そこでの男や女のぎらぎらとした視線はオウリャンらを連れていった人間と同じもので、ミャオリンは慣れない足を必死に動かして走って逃げた。
それを何回繰り返しただろうか。
もはや自分がどこにいるのかもわからない。人のいないところを探した結果、森の中に入っていたようだが、海の中の海藻の森とは異なり見通しは悪く、身動きができなかった。
お腹も空いていたが、人間のお金など持っていないし、まして信用できない人間の用意したものを食べたいとは思わなかった。
「ばあちゃん……」
ミャオリンは疲労困憊で、すでにホームシックだった。
水に帰りたい。海に帰りたい。
そう思った時のことだった。
ミャオリンは足に違和感を感じた。少しずつ、力が入らなくなっていく。
薬が切れてきたのだと、ミャオリンは直感した。しかしそれと同時にほっとした。元に戻れる。ありのままのいつも通りの楽な姿に戻れる。
「海……?」
極限状態に達していたからか、その時ミャオリンは潮の香りを感じた。つい昨日までは常に嗅いでいた、故郷の香り。
ミャオリンはゆっくりと、力の抜ける足を動かした。潮の香りは、どんどん強くなっていく。
一方ミャオリンの足の感覚も、次第になくなっていく。
「あっ」
ミャオリンはくたりとその場に崩れ落ちた。
もう、歩けなかった。二つの足が結合し、尾ひれが形成されていくのがわかる。
それでもミャオリンは、再び薬を飲もうとは思わなかった。
腹ばいになって、土の上で体を引き摺って進んでいく。
ミャオリンは前へと手を伸ばした。
そこに海があるのなら、帰りたい。早くみんなのところに戻りたい。
洞窟の中でも一人でいることが多く、他の人魚を拒絶することが多かったが、それを今心の底から後悔した。首から提げた紐に通した指輪を手で触り、そこにあることを確認する。そして、根本的な問題に立ち返った。
この指輪を持ち主に返す必要はあるのだろうか。オウリャン達を助けるには、人間の力が必要なのだろうか。それよりも、何がなんでも洞窟に戻って、老いぼれ婆や他のみんなを助けて、みんなで協力して助けに行った方がいいのではないか。
ミャオリンは誰もいない森の中を、潮の香りだけを頼りに、進んで行った。
◆ ◆ ◆
眩い太陽が顔を出し、教会の影を縁どって辺りを照らしていく。宗教施設の中央にある聖地マルガン湖こと涙の海は、透き通った水面に周囲の景色を映しながら、その色を変えていく。
ジェメドリッサは湖の畔の芝生に腰を下ろし、その移り変わりを眺めていた。
ここでの生活にも随分と適応できており、今では鐘の鳴る前に起きることもできた。最近は湖畔で朝日を浴びるのが日課になっている。
思わず口ずさんでしまうのは、彼が歌っていたあの歌だった。
ふとした時に、思い出すのはいつもジオルガのことだ。この教会には母がジオルガとフリエと一緒に何度も連れてきてくれたが、ジオルガは特にこの教会に来るのが好きで、いつの間にか建物の中まで入っていることが多かったものだ。
何も変われないのだと、ジェメドリッサは実感した。哀しさを胸に湛えながら、朝日に包まていく感触に身を浸し、自分を落ち着かせていく。
その時だった。
神聖な空間に似つかわしくない音が、ジェメドリッサの耳に届いた。
何かが湖に落ちる音。
ジェメドリッサは即座に立ち上がり、湖の周囲を見回した。
湖への俗世のものの侵入は、水神教での禁忌の一つである。他の信者に見つかれば、即刻破門が決まり、一生施設内に入ることは許可されない。
ジェメドリッサは、反対側の畔付近に影を見た。その奥にある施設内の森に紛れて、起床時間前の今では、他の誰かに気づかれた様子はない。影は動いている。人間だろうか。
外部の者でも施設内には自由に入ることができるが、信者ではないからといって、聖地を穢すことは許されない。
ジェメドリッサは小走りで影の方に向かった。
◆ ◆ ◆
ミャオリンは予想外の感触に驚いた。
辺りが明るくなったと思って、ようやく辿り着いた目の前の海に飛び込んだのは良いものの、潜れない。それどころか、異様に強い潮の香りが嗅覚を襲い、水に触れた肌からはひりつくような痛みを感じる。
必死にもがくも、どうにもできない。
たった一日泳がなかっただけでこんなことになるのだろうかと、ミャオリンは戦慄した。人魚として失格である。
そう思った後、ミャオリンはあることに気がついた。
「あれ。ここどこ」
海だと思っていたが、すぐ向こうに陸が見え、建物が立っている。それで理解した。ここは海ではなく、陸の中にある、ただの大きな湖なのだ、と。
でも、潮の香りは海よりも強かった。
ミャオリンは岸に掴まり、陸へと這い上がろうとお腹に力を入れた。
「あなた、何をしていらっしゃるの?」
そこで頭上から声がして、見上げると、人間の女性がそこにいた。
◆ ◆ ◆
ジェメドリッサが見るに、侵入者は若い少女だった。
こちらを見上げる目には、混乱と恐怖が浮かんでいた。
「どうしましたの? 教会の人ではありませんわよね……?」
そう言ってからジェメドリッサは、短く息を呑んだ。
華美な服を着る娼婦のような少女。しかし、湖に沈んだままの下半身には、足がなかった。
ジェメドリッサが硬直する間、少女は岸に這いつくばって湖から上がり、その下半身を顕にした。
少女は腰から下が、尾ひれだった。鱗が朝日を反射して七色に輝き、幻のようだった。
「人魚……?」
ジェメドリッサは神話に出てくる人魚を思い出した。『涙の海』には出てこないが、幼い頃読んだ絵本の別の神話では、水神の使いとして登場し、光魚を操っていた。
それが実在するとは、考えたこともなかったが。
目の前にいれば、信じざるを得ない。
「あなたは……どうして……?」
ジェメドリッサはまじまじと少女を見つめた。少女は上目遣いで、鈴の鳴るような声音でジェメドリッサに問うた。
「私を捕まえるの?」
「い、いえ。とんでもありませんわ」
ジェメドリッサは、これを教会に伝えるべきなのか迷った。もうすぐ朝の鐘も鳴り、戻らなければならないが、この少女の人魚の処遇に困った。
ジェメドリッサは思わず周囲を見回す。
「だ、誰か……」
「あ、やめて! 私のことは見なかったことにして!」
ジェメドリッサの意図に気付いたのか、人魚が切羽詰まった声で叫んだ。
「奴隷には、奴隷にだけは、なりたくない……!」
「奴隷?」
「人間は私達を捕まえて何をする気なの? ねえ、解放してよ!」
ジェメドリッサは人魚の気迫にたじろぎ目を瞬かせた。
神話に出てくる聖なる人魚が、どうして奴隷になるのだろうか。
「ちょっと待ってください。私はあなたを捕まえません。状況を説明してくださいませんか? あなたはどこから来たのです?」
「私は海から来た。売られるというから、逃げて、ここに来た。海にはまだたくさんの人魚がいて、奴隷としてたくさんの人魚が捕まった。それを解放するために、貴族に会って落し物を返して感謝されて協力してもらおうと思っていたけど、ここがどこかわからないの」
「ここは、水神教の教会ですよ。何故貴族? 落し物って、どういうことですか? 私に何か協力できることがあるかもしれません」
水神教徒として、人魚は聖なるものなのだから、喜んで協力する。しかし彼女自身にはその自覚はなく、ひたすらジェメドリッサに怯えているようだった。
「それにあなた、海から来たとおっしゃるけれど、どうやってここまで来たのでしょうか」
「え、ああ、それは」
人魚は懐から液体の入った小瓶を取り出し、コルクを抜いて一口飲んだ。
すると、鱗が薄くなり、尾ひれが二つに分裂し、人間の足が形成された。少女は立ち上がり、陸の上で足踏みをした。
「何これ……」
ジェメドリッサは呆然として少女を眺めた。
「人間になれる薬をもらったの」
少女は周囲を気にしつつも、真正面からジェメドリッサを見た。
◆ ◆ ◆
出会った人間の女性は、ミャオリンと同じくらいの年齢に見えた。真っ白な服に身を包み、おどおどしながらこちらを見ている。その雰囲気が、ミャオリンの警戒を緩めた。
驚きながらも、ミャオリンの話を邪魔せず、聞いてくれている。この人も人間の中の、良い人の部類なのかもしれない。
ただ、いくつか気になることはあった。奴隷の話をしても、ミャオリンを捕まえる素振りが全くなかったのだ。それは幸いだったが、人魚が奴隷だというのは、人間の中での常識ではないのだろうか。
初めに会った人間の男も、思い返してみれば、その点に関しては何も言わなかった。
また、水神教、というのも気になった。どこかで聞いたことがあるような気がする。
「あ、遅くなったけど、私の名前はミャオリンよ。あなたは?」
「ジェシーといいます」
ミャオリンは少し肩を落とした。苗字がない。つまり、彼女は庶民なのだ。ダメ元で聞いてみる。
「貴族に知り合いがいたりする?」
「とんでもない。いませんよ」
ミャオリンはさらに肩を落とした。それを見かねて、ジェシーが付け加える。
「その、何人かなら……そこまで親しくないのですが、知っている方もいらっしゃらないこともないです」
ミャオリンは目を輝かせた。
「何かものを失くしたという人はいる? 私が持っている落し物がそうかもしれないんだ」
「えっと……。わかりませんが、落し物とは何ですか?」
「これよ。この持ち主に、心当たりはない?」
ミャオリンは首の紐を服から出し、指輪なるものを提示した。その途端、ジェシーの目の色が変わった。
「それは……」
ミャオリンはその反応に手応えを感じた。
「持ち主を知っているの!?」
ジェシーは瞑目し、硬い声で答えた。
「私の……。私の指輪です」
「え」
ミャオリンの顔に笑みが広がった。しかし一方、ジェシーは浮かない表情を浮かべていた。
◆ ◆ ◆
ミャオリンから指輪を受け取り、ジェメドリッサは指輪の内側を確認した。そこには、ジェメドリッサの名前が刻まれている。
紛れもない、ジオルガとの婚約指輪だった。
何故返ってきたのか、わからなかった。人魚の導きなのだろうか。
それとも、ジェメドリッサ自身の未練が、そうなるように導いたのだろうか。
「あ、ありがとうございます」
ジェメドリッサは顔に笑みを貼り付ける一方、ミャオリンは無邪気に笑みを深める。
「あの、私に協力してほしいの! 人魚の自由を取り戻して、それから……」
ミャオリンの言葉を遮るように、教会の鐘が鳴り響いた。
ジェメドリッサの背筋が凍る。今のは起床の鐘だが、この後すぐに再び鐘が鳴る。そのとき朝の礼拝に遅れれば、罰として三日前禁錮され、食べることも許されないのだ。
「ミャオリン様、わかりました。あなたには協力しましょう。ただ、私は水神教徒で、こらからお祈りに行かなければなりません。少しこの辺りで待っていただけませんか」
「あ、ええと、うん。でも、私、帰るところがなくて、これからどうすればいいか」
「わかりました、では私が戻ってきた後に、入信の手続きをしましょう。ここでは衣食住全てを用意していただけます。勿論あなたの正体は誰にも言いません」
ミャオリンの様子から、教会に報告されることは望んでいないようだった。教会に言えばもっと好待遇されるだろうが、正直今は下手なことはすべきではない。ジェメドリッサは、ミャオリンを最大限に尊重しようと思った。
「あなたの事情は、それから色々考えましょう」
ジェメドリッサは、相手は聖なる人魚だと自分に言い聞かせながら、丁寧に説明する。
「わかった。待ってる」
「ありがとうございます」
そして、足元まである白い布を少したくしあげて、全速力で教会へと向かった。




